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聖なる夜に花は揺蕩う 第3話 疑惑 「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 



 12月12日日曜日午前9時半


 翌日は朝から小雨が降っていた。桐生は北村と共に新宿三丁目のカフェに来ていた。いままでに何度か前を通ったことがある。

 ガラス扉を開け、なかへ入った。店内にはテーブル席が四つとカウンター席が五つほどある。奥のテーブル二つは、すでに埋まっていた。北村が待ち合わせだと伝えると、窓際の奥のテーブルに案内された。窓際に座り、ペンと手帳を取り出す。

 ここに来るまでにニュースをチェックしたが、瀬田絢子の身元はまだ発表されてなかった。

「きのうのうちに西岐亮司と話ができてよかったね。バラバラ遺体の身元が瀬田さんだと断定されたら警察も西岐亮司を調べるだろうから、俺たちの取材は難しくなってたと思うよ。元恋人や元夫はいつでも第一容疑者だからね。それにしてもよく見つけられたね」

「璃子さんが瀬田さんのFacebookにアップされた記事を調べて、瀬田さんが通っているジムを特定したんです。体験をさせてもらう名目でジムに潜り込んで、会員から話を聞きました。西岐さんの電話番号を聞き出したのは璃子さんです。すぐに聞き出せたからよかったけど、そうじゃなかったらがっつり筋トレメニューをこなす羽目になってましたよ」

 桐生の答えに北村は笑っている。筋トレが桐生のイメージからかけ離れているせいなのか。そういえばダイビングのライセンスを持っていると発言したときも、北村は笑っていた。これからはもっとスポーティーなイメージを取り入れたいと思っていると、北村がiPadを桐生に向けた。

「失踪している女性はYouTubeに動画を上げている。自分で作った曲を歌ってて、ライブもやってたみたいだ」

 iPadの画面左上には『名もなき殺人者』の手紙に記されていたのと同じ円が表示されている。

 タップすると、画像が拡大した。黒髪のほっそりとした女性が、電子ピアノの前に座っている。切れ長の目は鍵盤を見つめていた。糸を張ったような緊張感がこちらにも伝わってくる。その整った顔に見惚みとれていると、映像の上に、『メネラウスの迷宮・作詞作曲白石夏希しらいしなつき』と映し出された。

 鍵盤のアップに切り替わり、白く細い指が電子音を奏でる。柔らかな声は、どこか悲しい旋律の詩を口ずさんだ。

 
   一粒の涙に静かに水面みなもいやされ
   一枚の花びらにきみの名前を刻む
   一筋の光がきみの瞳にささやきかけるとき
   きみは一つの鍵を手にする
   開かれた扉の向こうに、
   きみの求める答えがある
 

 曲が終わるとライブの告知が表示された。

 ――四月二十九日にみんなに会えるのを楽しみにしています。

 文字の上に、赤いハートが描かれていた。

「この女性は、シンガーソングライターなんですね」

 タブレットから顔を上げ、北村を見る。

「夏希さんはYouTubeのほかにTik Tokでこの曲を発信していた。登録者数は一万人を超えてるね。ゴールデンウィークにライブに出演するはずだったが、ライブハウスに現れなかったらしい。その後、動画はアップされてない。これからここへ来てくれるのは、夏希さんのファンで、俺が書き込んだコメントに返信してくれたんだ」

 応援して来たファンからすれば、相当な不安を感じているはずだ。

「アイコンにこの円と十字を使ってるのは、どんな理由があると思いますか」

「動画を調べてみたけど、アイコンについての言及はなかった。でも、どのSNSでもコズミック・サークルをアイコンにしてるから、重要な意味がありそうだよ」

 北村の説明を聞きながらスマートフォンで『メネラウス』を検索すると、蝶の画像が表示された。南米の蝶で、メタリックな明るい青は自ら光を発しているかのように見える。実際には鱗粉りんぷんの色素によるもので、形状によりある特定の波長の色が反射されて本来とは違う色が見えるらしい。

 桐生はYouTubeに戻り、ほかの曲も聴いてみた。まだSNSを始めて一年ほどで、動画も二十本ほどしかない。『メネラウスの迷宮』以外はみな、甘く切ないラブソングだ。

 二人が席に着いて十五分が過ぎたころにカフェの扉が開き、痩せた男が入ってきた。年齢は二十代後半から三十代前半くらいか。黒いダウンコートに水色のジーパンを合わせ、黒髪は全体的に緩くウェーブしている。店員に案内され、桐生と北村が座る席へやってきた。深々と頭を下げ、竹本拓海(たくみ)と名乗った。

 北村が名刺を差し出すと、両手で受け取った。桐生と向かい合う形で壁側の奥に座る。店員が注文を訊きに来ると、マンゴージュースを指差した。果汁百パーセントの文字を見て、桐生と北村も同じものを頼んだ。

「きみは、どこで夏希さんと知り合ったのかな」

「俺、この近くにあるイタリアン・バルで働いてるんです。二年前から、夏希ちゃんがバイトで来てくれてました」

 竹本はコートを脱ぎ、ふっと息を吐いた。北村がバルの名前を訊くと、紙ナプキンに『LENOレノ』と書いてくれた。

「夏希さんが失踪したのは五月だよね。当時の状況を詳しく教えてくれる?」

「夏希ちゃんは真面目で、いままで遅刻したこともありませんでした。ライブハウスで演奏があるときは、シフト表ができる前に知らせてくれました。それなのに、五月の連休前から無断欠勤が続いたんです。電話にも出ないので心配になって、マスターと一緒にアパートまで訪ねました。管理人さんに鍵を開けてもらって……」

 竹本は当時の様子を思い浮かべたのか、顔をゆがめた。

「部屋はどんな様子だったかな。荒らされた形跡はあった?」

 北村の問いに、竹本は首を振った。

「誰かと争った様子はありませんでした。むしろ片付いてました。洗濯物もなかったし。でも冷蔵庫のなかには、ロールケーキとゼリーが入ってました。長期でどこかへ行くなら、ロールケーキは入れておかないと思います」

 状況から、夏希が家で誰かに襲われたとは思えなかった。計画的に長期間の旅行へ行ったのでもない。桐生は二人のやりとりを手帳に書き留めながら、首を傾げた。

「部屋にスマホは残されてたかい?」

「いえ。夏希ちゃん、スマホは持っていったんだと思います」

 スマートフォンを持って出掛け、その日のうちに帰宅する予定だった。だが、外出先で誰かと会い、何らかのトラブルに見舞われた。それは知り合いだったのか。それとも見知らぬ誰か。『名もなき殺人者』だったのだろうか。

「きみは、夏希さんの実家にも連絡を入れた?」

 北村の問いに竹本がうなずく。

「夏希ちゃんが自分から失踪する理由は、思い当たらないって言われました。夏希ちゃん、長崎から上京して短大を出たそうです。歌手になるのが子供のころからの夢で、その夢を叶えるまで長崎には戻らない。そう決心したって、俺に話してくれました。これは単なる失踪じゃありません。夏希ちゃんは事件に巻き込まれたんです」

 竹本は一気に喋り、北村と桐生に視線を向けた。

「警察に、失踪届は出したのかな」

 北村は手帳から顔を上げた。店員がマンゴージュースに並べる間、竹本は右手の親指と人差し指を擦り合わせていた。

「夏希さんのお母さんが上京したときに、一緒に失踪届けを出しに行きました。記者さんたちは、失踪した女性を調べてるんですよね? ほかにも失踪した女性がいるんですか」

 竹本は添えられたストローをグラスに挿し、ゆっくり掻き混ぜた。

「失踪した女性は、この一年で三万人もいる。だから警察の手が回らないのも仕方ないのかも知れない。なかには無事に戻ってくる人もいるだろう。単なる家出とかさ」

 北村は事前に調べていたようだ。黒い手帳を開き、竹本に視線を戻す。

「夏希ちゃんに限って、家出なんて有り得ませんよ。ライブの予定だってあったのに……」

「うん、そりゃそうだ。何か問題が起きたと考えるべきだろう。夏希さんに付き合ってる人はいたのかな。芸能事務所に所属してたとか、仲のいい友達の話なんて聞いてない?」

「ボイストレーニングの教室に通っていたのは聞いたけど、彼氏はいないって言ってました。俺はそれを信じてます」

 竹本やほかのフォロワーには秘密で誰かと付き合っていた可能性はある。だが恋人と揉めたとしても、そんなことでライブを放棄して失踪するだろうか。

「竹本君は、夏希さんのメール履歴とか調べた?」

「夏希ちゃんのパソコンは、夏希ちゃんのお母さんと一緒に調べました。パソコンから携帯のGPSを追跡したけど、夏希ちゃんの居場所はわかりませんでした」

 竹本はストローでグラスを何度も掻き混ぜると、一気に飲み干した。

「竹本さんは、夏希さんがSNSで使っていた印のこと、何か聞いてないかな」

 北村は手帳にペンで円と十字を書き、竹本に見せた。コートを着込み、帰り支度を始めた竹本は印を見て「ああ」と呟いた。

「夏希ちゃんは、この円の内側にいるって言ってました。宇宙のパワーは正円に宿っていて、自分はこの円に守られてるんだって」

「カバラ魔術を信仰してるという話は聞いたことある?」

 北村の問いに、竹本は怪訝な顔をした。

「夏希ちゃんの口から魔術なんて、一度も聞いたことありません。そんなものは必要ないですよ。夏希ちゃんの音楽が、ある種の魔法みたいなものですから」

 竹本は自分に言い聞かせるかのように頷いていた。

 
 何かわかったら連絡すると約束して、竹本と別れた。駅へ向かって歩き出す。歩道を行き交う人々にぶつからないよう注意しながら、二人は新宿駅に向かって歩いていた。まだ昼前で、新宿通りは歩行者天国になっておらず、歩道は人で溢れている。

「ライブの予定があったのに、何の連絡も謝罪もなく姿を消すなんておかしいですよ。その七ヶ月後に、夏希さんがSNSで使用していたアイコンと同じ印が記された犯行声明文が『FINDER』に届くなんて、偶然だとは思えない。夏希さんの失踪は、奴の仕業ですよ」

「竹本君の話を聞いて、その可能性は高まったな。あの印は次の『FINDER』に掲載される。そうすればもっと情報が寄せられるかもしれない」

 北村は厳しい顔で前方を睨んでいた。

 
 編集部に戻ると、璃子が駆け寄ってきた。

「速報が出たわ。秩父湖で発見された遺体は瀬田絢子さんよ。毛髪から採取したDNAが一致したそうよ。瀬田さんの名前は、ネットでも報道されてるわ」

 璃子の表情は緊迫していた。卯月と富士原もニュース速報を見ているかもしれない。そう思うと胸が締め付けられた。

 
 その日の午後はずっとパソコンに向かい、白石夏希がSNSに上げた動画のコメント欄を調べた。『名もなき殺人者』がどこかにコメントを書き込んでいるのではないか。どこかで会う約束を取り付けたり、プライベートを聞き出そうとしているようなメッセージがあるのではないか。だが、不審なコメントは見つからなかった。

 午後三時を回ったころ、パソコンの横に置いてあったスマートフォンが鳴った。画面に表示された番号に見覚えはない。『通話』をタップした。

「卯月です。先日、渋谷のカフェでお会いした……」

 低いがよく通る声は、耳に残っていた。連絡をくれたことに礼を言うと、数秒の間が空いた。

「……ニュースを見ました。秩父湖で発見された遺体は、瀬田先生だったって。まだ信じられません」

 どう返事したらいいのかわからない。桐生のスチール・デスクは入口のそばにある。窓際の席でパソコンに向かっていた璃子が桐生を見ている。

「お悔やみを申し上げます」

 やっとのことで答えると、卯月が言葉を継いだ。

「ちょっと気になってることがあって電話しました。記者さんに話しておいたほうがいいかなって……」

 卯月の声には、まだ躊躇ためらいが感じられた。時間が経てば、気が変わってしまうかもしれない。

「よかったら、これから会いに行くよ? 卯月君はいま、どこにいるのかな」

「きょうは大学の図書館で調べものがあって、まだ大学にいます」

「じゃあ、大学で落ち合おう」

 一時間後に渋谷で会う約束をし、通話を切った。顔を上げると璃子が立っていた。

「卯月君が、何か話したいことがあるって」

「連絡をくれたのは富士原君じゃなくて、ヘルメス君だったのね。私も同行するわ」

 ヘルメスはギリシャ神話十二神の神で、富と幸運を司る。卯月の端正な顔立ちはどこか浮世離れしていて、神話の神に例えるのはぴったりだった。

 
 午後四時すぎ。桐生と璃子は再び香霖大学に来ていた。今回は通りすぎず、正門のなかへと進む。卯月との待ち合わせは十二号館地下一階にあるカフェだった。

 正面にそびえる建物は、一階が吹き抜けになっていた。壁に掲示されている校内地図で場所を確認する。よくわからないと思っていると、璃子が歩き始めたのであとを追う。

 掲示板にはサークルイベントや休講の知らせが貼り出されていた。瀬田絢子の研究室は、社会心理学科教授・木藤聡太郎きとうそうたろうが兼任すると書かれている。

「私、木藤聡太郎の著書を何冊か持ってるの。FBIによるプロファイリングについても詳しく書かれていて、とても興味深かったわ」

 璃子は立ち止まり、掲示板を眺めている。

「璃子さんがいつも黒いパンツスーツを着てる理由って、もしかしてFBI捜査官に憧れてるから?」

 冗談のつもりで訊いたが、璃子は真面目な顔で桐生にうなずいた。

「私、FBIプロファイラーのロバート・K・レスラーみたいな心理分析官になりたかったの。事件記者だけど、気持ちはいつでもFBIよ」

 その名前なら桐生も知っている。『X―ファイル』のモルダー捜査官のモデルであり、その活躍は、『羊たちの沈黙』や『コピーキャット』の題材となっていた。

「桐生君は、誰か憧れの人はいる?」

 璃子は建物の外へ出て、桐生を振り返った。

「僕は、デビッド・フィンチャーかな。あんなにたくさん面白い映画やドラマを撮ってくれて、いつかありがとうって伝えるのが夢なんだ」

 心に抱いてきた密かな夢を語り、自分の失言に気づいた。璃子は怪訝な顔で桐生を見やり、首をかしげている。

「それって、いつか映画が撮りたいってこと?」

「いや、そういうわけじゃないですよ。強い信念と勇気を持ちたいっていうか……」

 ますます意味不明だが、璃子は口元に笑みを浮かべ、「その気持ちはわかるわ」とうなずいた。

 前方には広場があり、ベンチで学生が本を読んでいた。厚手のコートに身を包み、険しい顔で煙草をくゆらせている。十二号館は広場を突っ切った右手にあった。壁面は青いガラス張りで、吹き抜けの建物よりモダンだ。

 ガラス扉を通り、エレベーター横の階段で地下に下りた。床はアイボリーのタイルで艶がある。地下にはレストランとカフェがあり、どちらの店も入口に食券の販売機が設置されていた。

 カフェの店内を見回すと、窓際に卯月が座っていた。テーブルの上には水の入った紙コップが載っている。放心した様子で、窓の外を眺めている。

 カフェは地下だが、建物と道の間には堀のような空間があり、低木が植えられていた。食券を買う前に席へ近づき、卯月と挨拶を交わした。

「遺体は切断されていたって、ネットの記事で読みました。お二人は、遺体を実際に見たんですか」

 卯月の問いに、桐生は正直にうなずいた。どう言葉を続けたらいいかわからない。璃子は「コーヒーでいいですね」と言い置き、食券を買うためテーブルを離れた。店内は空いており、話し声は聞こえない。どこかで聴いたことのあるピアノ曲が流れていた。卯月の向かいに座り、手帳を開く。

 卯月の目は、輝きを失っていた。現実と虚構を彷徨っているが、まだ絶望の闇に堕ちてはいない。

「卯月君たちの研究室は、木藤先生が兼任されるんだってね。僕は知らなかったんだけど、木藤先生は本もたくさん出してるらしいね」 

「木藤先生の著作は、瀬田先生の講義で何度か取り上げられていました。大学の恩師だったと聞いています。……警察は今頃きっと、瀬田先生の交友関係を調べてますよね。そのうち木藤先生のところにも刑事が来るのかな」

 卯月はテーブルの上で指を組んでいた。爪はきれいに切り揃えられ、滑らかで生活感がない。自分の指をじっと見つめている。

「僕に話したいことって、瀬田先生の交友関係かな」

 沈み込む卯月を励ますように明るく問い掛けた。カウンターに並んでいる璃子が、ときどき振り返り、桐生たちの様子を伺っていた。

「俺、見たんです。瀬田先生が男と一緒にいるのを」

「それは、いつのこと? その男はがっしりしてたとか茶髪だったとか、何か外見の特徴を覚えてるかい?」

 脳裏に西岐亮司の顔が浮かんだ。ペンを握る指に力が入る。

「先週の木曜日です。先生が男の車に乗り込むところを見ただけだから、体格はわかりません。でも、運転席にいたのは男でした。肩幅があったから」

 卯月はうなだれた。

「その車、どこで見たのかな。車種とか色は覚えてるかい?」

 手帳に「十二月二日木曜日・瀬田絢子と男・車」と書き込んだところで、璃子がトレイを持って戻ってきた。トレイにはコーヒーの白いカップとクッキーが三つずつ載っている。包装されたクッキーはマカデミアンナッツ入りだ。桐生と卯月の前にコーヒーとクッキーを並べ、桐生の隣に座った。

「青山通りです。オープンカフェの前に停車してました。黒のアウディでした」

 卯月はカップに指を添え、記憶を辿るように目を眇(すが)めた。

「卯月君が見たのは、この男性かしら」

 璃子はタブレットを取り出し、ホームページの画像を拡大して卯月に見せた。

「少し距離があったので、この男かどうかはわかりません。でも、感じはよく似ていると思います」

 卯月は画面に視線を落とし、喰い入るように男を見つめていた。

 
 卯月と別れ、渋谷駅に向かって歩いていた。

「半年前に瀬田絢子と別れたあとは会ってないって話してたけど、あれは嘘だったのかな」

 璃子に話しかける。

「卯月君が見たアウディを西岐さんが運転してたかどうかよね。ねぇ、これからちょっと西岐さんのところへ行ってみない? アウディを運転しているか訊いてみましようよ」

「うん、確かめてみよう」

 渋谷駅から山手線に乗り、五反田で東急池上線に乗り換えた。移動中は西岐のホームページを開いた。三年前のガッシャーブルム挑戦の記事には、事前に低酸素室へ通ったことや富士山泊をして準備したことなども書かれていた。

 西岐なら女性たちを誘い出すだけの魅力を充分に持っている。人けのない場所へ連れ去り殺すのはわけないだろう。

 西岐が『名もなき殺人者』である可能性について考えていると、璃子に突つかれた。東急池上線の車内に停車駅のアナウンスが流れている。

 列車を降り、時刻を確認する。五時を回り、日は沈みかけていた。

 赤茶色のマンションまで来ると、敷地内を見回した。エントランスの奥には四台分の駐車場があるが、四台とも国産車だ。

「車は友達に借りたのかな」

 エレベーターのボタンを押し、璃子を見る。

「アウディは中古でも二百万近くします。状態によっては三百万越えよ。運転していた人物が持ち主だと思う。世帯数に対して駐車場は少なすぎるから、近くに駐車場を借りてるのかもしれないわ」

 エレベーターに乗り込み、璃子は四階を押した。

「璃子さんは車にも詳しいんだね。僕はペーパードライバーで車のことはよくわからない」

「車は乗るのも運転するのも大好きよ。学生時代はF1グランプリの全中継を観てたわ。いつかモナコで観戦するのが夢なの」

 璃子は目を輝かせている。爆走する真っ赤なフェラーリに黄色い声援を送る璃子を想像していると、エレベーターのドアが開いた。通路から見える空はすでに暗い。四〇三号室のまえでチャイムを鳴らしたが、応答はなかった。

 
   

 12月13日月曜日


 桐生が編集部に出社すると、デスクの赤石に呼ばれた。桐生の隣には北村もいる。瀬田絢子の叔母である飯塚靖子いいづかやすこが取材に応じるという。

「被害者遺族のほうから会いたいと言ってきているんだ。それは犯人から本誌に手紙が送られ、きみたちが遺体の第一発見者だからだろう。くれぐれも発言には注意してくれよ」

 赤石に見送られ、桐生と北村は下北沢のマンションへ向かった。

 二日前に璃子と訪ねたエントランスを通り、エレベーターで九階へ上がる。

「こんなに早く独占取材ができるなんて、めったにないことだよ」

 北村の黒い瞳は輝きを増していた。

「でも、どうしてご遺族は第一発見者が僕らだって知ってるんでしょうか」

 桐生は遺族から質問されれば、正直に答えたいと思っていた。だが、湖底に沈んでいたバラバラの遺体については、できることなら語りたくない。警察も報告だけで、遺体と対面させるなど考えていないはずだ。写真すら見せないだろう。

「ブンヤから漏れたんだろうな。遺族にいち早く取材を申し込んでるだろうからな」

 九〇二号室の前で立ち止まると、一呼吸してチャイムを押した。なかで物音がし、ドアが開く。顔をのぞかせた女性は、不安げに北村と桐生を見上げている。二人は名刺を渡し、連絡をくれたことに礼を述べた。

「こちらこそ、およびたてしてすみません。どうぞお入りください」

 飯塚靖子はドアを大きく開け、二人を招き入れた。

 三和土たたきに靴はなかった。傘もシューズボックスに仕舞われているのか、玄関はすっきりと片付いている。

 壁には写真が飾られていた。黒い背景に、白い花が一輪だけ写っている。ラッパのような形の花は、自ら光を発しているように見えた。

「この家、スリッパが見つからないんです」

 飯塚靖子は申し訳なさそうに肩をすくめ、玄関からすぐのガラスドアを開けた。

「犯人の手掛かりになりそうなものは、警察が持っていったんでしょう。どうかお気になさらず」

 北村は穏やかな声で相手の不安を和らげようとしていた。桐生もあとに続く。

 リビング・ダイニングは十畳ほどの広さで、手前が対面式のキッチン、奥に四人掛けのテーブルとソファーが置かれていた。ウォールナットの床は艶やかで、床と馴染むダークブラウンの家具が落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 リビングの奥にガラス戸があり、レースのカーテン越しに光が差していた。桐生と北村はダイニングテーブルを囲んで座った。

「絢子さんが亡くなったことは、いつ警察から知らされたんですか」

「きのうの午前中に刑事さんが訪ねてきました。最初は主人に何かあったのかと思いました。でも、絢子が死んだと聞かされて、すぐには信じられませんでした」

 飯塚靖子は丸いお盆に湯呑みを三つ載せ、キッチンから出てきた。湯呑みには淡いピンクの花が描かれている。

「飯塚さんは、このお近くにお住まいですか」

「いえ、岩手の一関いちのせきで暮らしています。絢子の両親は、あの子が中学生のときに亡くなっているんです。それで私と主人が親代わりで育てました。私からすれば、あの子は亡くなった姉の形見でした」

 湯呑みを桐生と北村の前に置き、飯塚靖子は桐生の向かいに座った。

「絢子さんのご両親は亡くなったのは、事故だったんでしょうか」

 北村は手帳を開き、真剣な眼差しを向けた。

「強盗に殺されたんです。絢子は修学旅行で家にいなかったんで助かりました」
「その強盗犯は捕まったんでしょうか」

 桐生は訊かずにはいられなかった。

「すぐに逮捕され、裁判で終身刑が言い渡されました。でも犯人が捕まったからといって、義兄も姉も生き返ってはくれません。私は犯人を憎みました。この世から消えて欲しいと心の底から願いましたよ。でも、絢ちゃんは違ったんです」

 飯塚靖子は一呼吸し、湯呑みに手を添えた。

「犯罪者の心理を解明したいって。そのために東京の大学へ行って、犯罪心理を勉強したいって言ったんです。だからあたしも絢ちゃんを応援するって誓ったのに……。あの子はいったいどんな状態で発見されたんですか。私は遺体を確認したいって言ったんです。でも断られました。あなた方が発見したと伺っています。教えてください。……その遺体は……本当に……絢子なんでしょうか」

 飯塚靖子言葉を絞り出し、顔を歪めた。見開いた目から涙がこぼれた。

「ご遺体は、絢子さんの自宅マンションから採取したDNAと一致したと聞いています。絢子さんに兄弟はおられますか」

 北村の問いに、飯塚靖子は首を振った。涙をぬぐい、毅然と顔を上げた。

「ニュースでは、切断されていたと報じられているのは知ってるんです。絢子は、苦しんで亡くなったんでしょうか」

「……僕が湖の底で見たとき、絢子さんの皮膚がいたずらに傷付けられている様子はありませんでした。絢子さんは命を奪われたあとに切断されたんだと思います」

 桐生の言葉を聞きながら、飯塚靖子は唇を震わせていた。

 
 帰る前に、瀬田絢子の書斎を見せてもらった。壁際にパソコン・デスクが置かれているが、パソコンは警察が押収したのか見当たらない。

 作り付けの書棚には本がぎっしり詰まっていた。背表紙にざっと目を通し、『精神鑑定』、『臨床例』、『心理学』の文字が多い。どの本にも付箋が貼ってある。

 そのうちの一冊を手に取った。ハードカバーの表紙には、男が枕に顔をうずめて横たわる絵が描かれている。『死体と暮らすひとりの部屋』と題され、その下に少し小さめの赤い文字で、「ある連続殺人者の深層」と記されていた。四百ページ近い。

 ページをめくり、ぱらぱらと読んでみた。殺人者の名前はデニス・ニルセンという。一九八三年にロンドンで逮捕され、終身刑が確定していた。

「……この世界には、神なんていないって思います」

 桐生は本に視線を落としたままつぶやいた。


 
 
 *****
 
 ――己の望みを叶えよ。

『名もなき殺人者』は心の声に耳を澄ませた。重要な岐路で、かならずといっていいほどこの声は語り掛けてきた。この声を『もう一人の自分』からのメッセージだと理解していた。言葉は前方に広がる闇を照らし、前へ進む勇気を与えてくれる。

 あの女は、自分が本当に望んでいることが何かを知らなかった。充足する瞬間は、誰かが与えてくれるのではない。己の手で土を掘り返し、血まみれになりながら引き出すものだ。

 そもそも人は簡単に手に入るものでは充たされない。あるいは所得逓減しょとくていげんの法則によって、いくらでも欲しがるように作られている。誰もが強欲だ。与えられれば与えられるほど、わずかな渇きにも過敏になっていく。

 あの女は、自分の価値観で生きてなかった。他者の目をたえず気にかけ、自分の身なりを飾り立てることに駆られていた。

 だから、その虚飾を切り離してやったのだ。均整の取れた腕が胴から失われ、はじめて思い知っただろう。自分がいかに恵まれていたのかを知るには、失うしかない。

 いま、あの女は、冷たく濁った水の底で深閑に満たされている。

 ――安らかに眠れ。永遠に。

 明かりを消し、『名もなき殺人者』は暗闇に祈りを捧げた。




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