見出し画像

聖なる夜に花は揺蕩う 第4話 森の記憶「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 


  

 12月13日月曜日


  たとえ何もかもが無意味だとしても、
  とにかく始めなければならない。
  自分ができることは、
  しなければならないから。
 
 子供のころに読んだ本に書かれていた言葉だ。いまでも時折思い浮かべる。意味は誰かが与えてくれるものでもなければ、どこかに転がっているのでもない。自分で自分に与えるものだ。自分の荷物は自分で背負うしかない。みんな自分の荷物で手一杯なのだから仕方ない。

「桐生君、ちゃんと眠れてるか」

 北村に声をかけられ、顔を上げた。桐生と北村は新宿三丁目に来ていた。竹本から連絡があり、前回と同じカフェで落ち合うことになっている。

 時刻は午前十一時前で、店内の席は半分ほど埋まっていた。店員に待ち合わせだと伝えると、前回と同じ奥のテーブル席に案内された。すでに竹本が席についていた。

「わざわざ来ていただいてすみません」

 竹本が立ち上がり、頭を下げた。ウェーブした黒髪がふわりと揺れる。店員にマンゴージュースを三つ頼み、竹本と向かい合った。

「一週間ほど前に、夏希ちゃんのお母さんが上京されたんです。夏希ちゃんの部屋をそのままにしておくことができないって言われて。本棚を片付けてたら、メモが本に挟まっていたそうです。そのメモに書かれてることが、もしかしたら失踪の理由なんじゃないかって。それで、その本とメモを送ってもらったんです。それを昨日読んでいて、もしかしたら夏希ちゃんにはトラウマがあったのかもしれないとわかったんです」

 竹本は鞄から本を取り出し、テーブルに置いた。『記憶を消す子供たち』と題されている。北村が表紙を開くと、二つ折りにされたピンクのルーズリーフが挟まっていた。  

「その本、昨日徹夜で読んでみました。すべて実話です。トラウマ体験を持つ子供たちの話が七つ載ってました」

 竹本は喉が乾くのか、コップの水を一気に飲み干した。店内の暖房が効きすぎているのかもしれない。

「たまたま手に取った本にトラウマ体験が書かれていて、興味を惹かれたとも考えられるよ。あるいは、夏希さんも子供の頃に何かあったのかな。夏希さんのお母さんは何か言ってたかい?」

「夏希ちゃんが小学四年生の夏に、山で親戚の叔父さんが亡くなったそうです。何者かに襲われて殺されたらしいです。殺人事件として捜査されたけど、犯人はまだ見つかってないと聞きました」

「未解決の殺人事件か。夏希ちゃんはその叔父さんに懐いていたんだろうな。叔父さんが殺されてショックを受けたってことか」

「お母さんの話だと、夏希ちゃんはその事件現場に居合わせたみたいです」
「え……じゃあ、夏希さんは犯人の顔を見てるのか」

 北村は目を見開いた。桐生はスマートフォンを取り出し、googleを開く。

「それはわかりません。ひどいショック状態で、しばらくは口もきけなかったそうです。その後も事件のことは話そうとしなかったので、草むらに隠れていて、犯人を見てないのかもしれません」

「事件があったのはどこの山かな」

 桐生は検索ワードに『未解決事件』と打ち込み、竹本を見る。

「雲仙です。事件があったのは十一年前の八月です。その山には小さな洞窟があって、ほこらまつられているそうです。ガイドブックには載ってないらしくて、お参りするのは村の人だけだとお母さんは言ってました」

 店員がジュースを運んでくると、竹本はストローでグラスをかき混ぜた。

 桐生は検索ワードに『長崎・十一年前の絞殺事件・洞窟』と追加した。すぐに樹林のサムネイルが表示される。その横には「雲仙・岩戸いわど神社で男性の遺体発見」と太字が打たれていた。記事をタップすると、被害者の名前が載っていた。

「ここに書かれている白石真人まさひとさんが、夏希さんの叔父さんですか」

 桐生はスマートフォンの画面を竹本に向けた。

「そうです。夏希ちゃんのお母さんは看護師で、その日は朝から仕事だったそうです。夏休みで家にいた夏希ちゃんを、真人さんがドライブで山に連れて行ったと聞いています」

 竹本はストローに口を付け、マンゴージュースを一口飲んだ。

 北村はルーズリーフを広げて目を通すと、桐生に渡した。鉛筆で書かれた細く小さな文字が適度な隙間を空けながら並んでいる。

 
   深夜。わたしは樹林のなかをさまよってい
  た。その日は一日中小雨が降っていて、道は
  ぬかるんでいた。傘を持ってなかったけど、
  昼間は四月とは思えないほど蒸し暑かったか
  ら、柔らかな雨は昼間の汗を洗い流すのに
  ちょうどよかった。
   街灯の白い光は遠く、ぬかるんだ道のどこ
  に水溜りができているのかわからなかった。
  泥がジーパンの裾に飛び散っているだろう
  が、そんなことはどうでもよかった。
   左の顳顬こめかみを押さえた。まだ痛みは引か
  ない。頭痛薬を飲んで一時間は経っている。
   今夜は効かないのかもしれない。子供の頃
  は、嘔吐をともなう激しい頭痛に泣いた。
   ずっと忘れていた痛みが戻ってきた。忌ま
  わしい記憶と共に。
   わたしは引き戻される。あの洞窟に。そこ
  には魔物がいる。
 
 桐生はルーズリーフから顔を上げた。

「これは実際にあったことを書いているようでもあり、夢で見たことを思い返しているようにも読めますね」 

「当時、学校では祠に魔物がいるって噂がたったそうです。夏希ちゃんにとっては、魔物は実在していたんじゃないかと思います。犯人が捕まらないかぎり、その魔物をずっと恐れていたのかもしれません」

 竹本は口を引き結び、うつむいた。

「事件のことを話さなかったのは、ショックで事件の記憶だけ抜け落ちたのかもしれないね」

 北村の言葉に竹本もうなずく。

「この本にも書かれていました。本当に恐ろしい体験をすると、その記憶を脳が封印するって。忘れることで心を防御してるけど、時間が経って防御する必要がなくなったら、何かのきっかけで記憶は戻ってくるようです」

「もし夏希さんが十一年前の事件について何か思い出したんだとして、そのせいで失踪したとは考えられない。犯人の顔を見たっていうなら、警察に行くはずだよ」

「でも、もしその犯人が夏希ちゃんの知っている人だったら、警察には行かないかもしれません。この本に出てくる少女は、父親が殺人犯だという記憶をずっと封じ込めていました。記憶を取り戻したあとも、葛藤はあったと思います。その後、通報して、裁判になっていると書かれていました」

 竹本は息を吐き、視線を落とした。

「その十一年前の事件のことを、夏希さんのお母さんから直接聞く必要があるね。夏希さんの実家の住所と連絡先を教えてもらえるかな」

 北村の要望に、竹本はうなずいた。スマートフォンを取り出し、アドレスを開く。北村は手帳に書き留めた。

「事件に巻き込まれたんじゃないなら、夏希ちゃんはどこかで生きてるはずです。俺はそう信じています」

 竹本はグラスを掴み、マンゴージュースを飲み干した。

 
「十一年前の事件は、今回の事件と関係していると思いますか」

 編集部に戻る途中、桐生は北村に訊いた。

「わからない。でも、犯行声明文に記された印と同じマークを使っていた女性が失踪しているんだ。さらにその女性は、十一年前に殺人現場に居合わせた。偶然で片付ける前に調べておくべきだろう」

「もし、雲仙の事件と繋がりがあるとしたら、夏希さんの叔父さんを殺した犯人が、瀬田絢子さんを殺したってことですか」

 背筋を冷たい汗が流れる。

「『名もなき殺人者』が真実を語っているなら、被害者は五人だ。真人さんが最初の被害者だという可能性は充分考えられる」

 北村は編集部に戻ると、竹本とのやりとりを赤石に報告した。桐生は白石夏希の母親からアポを取るよう指示された。

 母親に電話を架けると、すぐに繋がった。『FINDER』だと名乗り、竹本から話を聞いていることを伝える。水曜なら家にいるという。訪問の約束をし、朝の便の航空券を取った。

 カキを任されている北村やデスクたちは明日の朝まで入稿しなければならない。月曜の夜は徹夜というカキは多い。入稿のプレッシャーで頭を掻きむしったり、奇妙な呻き声を上げる記者もいる。

 そんな彼らをその他の者は羨望の眼差しで見守りながら、資料を調べたり聞き込み取材に行く。ネタさえ掴めば、その他の者がカキに抜擢されるのも夢ではない。そんな日が来るのを桐生も切望していた。ネタを探したい。だが、アシとしての仕事に追われ、独自のネタ探しなどできていないのが現状だ。日々の仕事をこなさなければならない。

 雲仙に行く前に、十一年前の事件をできるだけ調べておこうと思った。ネットで検索していくと、月刊誌『CRISISクライシス』の記事が表示された。未解決事件の特集で、祠の写真が掲載されている。記事を書いた記者は、現地に行って取材していた。

『CRISIS』編集部に電話を入れ、当時記事を書いた記者に取材したいと伝えた。今日の午後なら応じてもいい、という返事をもらった。

 璃子と一緒に『CRISIS』編集部へ向かった。

 
「こんなにすぐ取材に応じてもらえるなんて、僕たちはラッキーだね」

「速報が流れて、『FINDER』がバラバラ死体の発見者だって知ってるからね。向こうも秩父の事件について訊きたいんじゃないかしら」

 璃子は人混みのなかを早足で抜けていく。

 桐生も『CRISIS』編集部が渋谷にあることは知っていた。就職活動で『FINDER』の前に受け、落とされている。面接まで進んだのだが、面接官に「あなたが定期的に読んでいる雑誌はなんですか」と訊かれ、正直に「『FINDER』です」と答えたのが敗因だろう。

 忘れもしない。香霖大学とは反対側のファィヤー通りにそびえ立つ赤茶色のビルで、斜め向かいは消防署だ。

 厚いガラス扉を開け、受付カウンターで用件を伝えた。落ち着いた雰囲気の受付嬢が桐生と璃子を会議室まで案内してくれた。十人が向かい合って会合できるくらいの長机が置かれ、壁には風景絵が飾られている。窓はない。丸い文字盤の時計が掛けられ、あと十分ほどで二時になろうとしていた。

 壁側の席を勧められ、落ち着かない気持ちで席に着いた。『CRISIS』のあるCR社に入社して入れば、父との関係も良好に保てたかもしれない。

「璃子さんは就活で『CRISIS』も受けた?」

 桐生が小声で尋ねると、璃子は眉を上げた。

「私は『FINDER』の事件記者になりたかったから、ここは受けなかったわ。桐生君もてっきりそうだと思ってたけど……」

 気の毒そうに肩をすくめたあと、豪快に笑った。

 ドアが開き、男が入ってきた。二人は席を立ち、互いに名刺を差し出して挨拶を交わした。男は満面の笑みを浮かべ、浅井圭介あさいけいすけと名乗った。がっちりとした体躯たいくで、黒髪はウェーブがかっている。肌は血色がよく艶があり、年齢はよくわからない。

「偉いたいへんなことになってますな。『FINDER』の速報はチェックしてますわ」

 浅井は手に持っていたファイルを長机に置き、桐生の前に座った。

「浅井さんは関西出身なんですね。東京には、いつからいらっしゃるんですか」

 璃子が手帳を開く。

「会社入ってからやから、もう二十年もおるわ。ずっと東京に出たいと思うとったんよ。こっちに何年住んでも関西弁やけどな」

 黒い目がよく動く。体は大きいが、目は好奇心旺盛な子熊のようだ。

「十一年前に雲仙で起きた事件のことを詳しく知りたいんです。浅井さんは現地を取材されてますよね」

 桐生が切り出した。

「そうや。あれから十一年も経ったんか。ほんまにひどい事件やったで」

「現場には、被害者の姪御さんが居合わせたと聞いています。当時小学生だった白石夏希さんには会われましたか」

 桐生が夏希の名前を口にすると、浅井は苦い薬でも飲んだように顔を歪めた。

「『CRISIS』が取材に行ったのは、事件から一ヶ月後やったわ。月刊誌やから、速報性は、はなから求められてへん。遺族のその後や、事件の背景を探るためにも、夏希ちゃんから話が聞きたかってん。でもな、あの子は犯人のことを一言も話してくれへんかったわ」

 ドアが開き、さきほど桐生と璃子を案内してくれた受付嬢がコーヒーを運んできた。口元に微笑みを浮かべ、白いカップをそれぞれの前に置く。カップと揃いのソーサーにはシュガースティックとミルクのほかに、金色のティースプーンが添えられていた。

「では、どんな記事を載せたんですか」

「主に被害者の真人さんのことを書いたんや。真人さんは地元でご両親との農業を営んではった。午前中に畑仕事をして、午後は姪の夏希ちゃんをドライブに連れていったんやて。真人さんは、よう夏希ちゃんの面倒をみてあげとったらしい」

「夏希さんのご両親は、共働きだったんでしょうか」

 璃子はペンを顎に押し当て、首を傾げた。

「お父さんは夏希ちゃんが小学校に上がる前に亡くなっとった。お母さんは看護師で家におれへんことが多かった。せやから真人さんが父親代わりやったみたいやな」

「通報は誰がしたんですか。夏希ちゃんは当時携帯を持ってたんでしょうか」

「近くの公衆電話から、男性の声で通報があったんやて。せやけど、現場にその男性の姿はのうて、夏希ちゃんは洞窟の入口に一人でおったそうや」

 浅井はファイルから別の写真を取り出し、見せてくれた。緑が生い茂る山の洞窟の入口に祠がある。これが岩戸神社だろう。

 浅井は運ばれてきたカップに視線を落とし、スティックの袋から砂糖をすべて入れた。スプーンで掻き混ぜ、うまそうにすする。

「通報した男性は、どうして夏希ちゃんを一人にして立ち去ったんでしょうか。通報したら警察が来るまで待つと思いますが」

 桐生の問いに、浅井が顔を上げた。

「警察にかかわりたない輩はようさんいるさかい、その男性もそうやったんちゃうかな。下手したら容疑者になりかねへん。通報だけでもようしてくれたわ。真夏の暑い時間やさかい地元の者は通れへんし、観光客もおれへん」

「ガイドブックに載ってないそうですね。でも、緑も綺麗だし洞窟がある神社だから、時間をとってここを訪れる観光客がいてもよさそうだけど」

 璃子は机に並べられた洞窟の写真を眺めている。

「島原駅から車で四十分もかかるんや。みんな『雲仙地獄』のほうを見にいくんとちゃいますか。俺も白い湯けむりがもうもうと立ち上る光景を見に行きましたわ。地獄巡りのダンテ気分を味わわせてもらいました」

「実は、その白石夏希さんなんですが、失踪してしまったんです」

 璃子の言葉に浅井は目を見開いた。

「まさか、事件に巻き込まれたんじゃ……」

「夏希さんは、YouTubeで自分の歌を配信していました。僕たちに夏希さんのことを教えてくれたのは、夏希さんのファンの方なんです。ライブの予定もあったそうです」

 桐生の脳裏に円と十字の印が浮かぶ。十一年前の事件も『名もなき殺人者』の犯行なのだろうか。

 一呼吸置き、手帳に書き付けてあった円と十字の印を浅井に見せた。「この印を知っているか」と訊く必要はなかった。浅井は口を半開きにし、印を凝視している。

「十一年前、真人さんの殺人現場に、この印が刻まれていたんですね?」

 桐生の言葉に、浅井は「いや」と首を振った。

「まったく同じものを見たんちゃう。夏希ちゃんが手に持っとったんや。これとよう似たビー玉を握りしめてたそうや」

 浅井は手帳を桐生に押し戻した。

「……それは、どこかで売られていたものだったんですか」

「市販のものやなかった。ビー玉ちゅうてもガラス玉ちゃうで。アクリル樹脂ゆうんかな。せやけど小学生が作ったとは思われへんかったさかい、誰かが作って夏希ちゃんにあげたんやろう。そのビー玉を夏希ちゃんは離そうとせえへんかった。捜査に当たった刑事は、犯人の遺留品ちゃうかって調べたんやて。けっきょくわからずじまいやったけどな」

「夏希さんはそのビー玉を誰からもらったのか、話さなかったんですか」

 璃子は険しい顔で手帳にメモを取っている。

「がんとして言えへんかった。刑事は通報者が犯人ちゃうかって疑うとったみたいや。でも、せやったら夏希ちゃんがそう証言するはずやろ。夏希ちゃんは、通りがかりの親切な人やったって、それだけはしっかり答えたんやて」

 通りがかりの親切な人が、『名もなき殺人者』だったのだろうか。奴はたまたま持っていた自作のビー玉を夏希にあげたのか。夏希はそのビー玉を大切に握りしめていた。それとも、この事件は『名もなき殺人者』とは無関係なのだろうか。

 では、なぜいま夏希は行方不明なのか。殺人の告白文に同じ印が描かれていた理由は、自分の存在を示すためではないのか。

 竹本が見せてくれた本のことを思い浮かべた。本のなかの少女は、父親が犯人だったという記憶を封じ込めていた。夏希の父親が真人を殺したのか。

 いや、違う。夏希の父親は十一年前にはすでに他界している。

「もしかすると、犯人は夏希ちゃんが慕っている人物なのかもしれません。だから、警察に話せない……」

「夏希ちゃんが一番大切に思ってるんはお母さんやな。でも病院で働いてはったから、犯行は無理や。真人さんの両親は、近所のお友達と温泉旅行へ行っとった。ほかに考えられるんは母方の祖父母やけど、事件の起こる前に祖父は入院してる。祖母は病院に来てた記録が残ってて、距離的に犯行は無理やねん。『CRISIS』でも調べたんや。いくら調べても、夏希ちゃんが庇わなあかん近親者はおれへんねん」

 浅井は首を左右に揺らした。璃子はじっと考えている。

「だから、いままで未解決なんですね」

 桐生は写真に視線を向けた。暗い洞窟の入口にうずくまる少女の姿が見える。手には十字の模様が入ったビー玉を握っている。それはいったい誰からもらったものだったのだろう。

 
   

 12月14日火曜日


 火曜日の編集部は、校了の社内アナウンスが流れるまで独特の緊張感に包まれている。午前中は印刷所から送られてきた初校を読み直し、誤字脱字と取材データの表現のチェックをして送り返す。夕方には再校のゲラが出て校了となる。

 北村や赤石が初校の読み直しをしているのを眺めながら、桐生は考えていた。以前読んだ本に、犯人像を知るために必要なことは、まず被害者を知ることだと書かれていた。瀬田絢子はどんな場所へよく行き、毎日どんなことを楽しみに暮らしていたのだろう。

 瀬田がジムに通っていたことはわかっている。香霖大学では、学生からも慕われていた。半年前までは恋人もいて、充足した日々を過ごしていたようにみえる。

 手帳を開き、読み返してみた。「十二月二日木曜日・瀬田絢子と男・恋人? 黒のアウディ」と書き付けてある。その横に「西岐亮司・アウトドアライター」と書き足され、さらに「木藤聡太郎・恩師」と書き加えられていた。

 瀬田のゼミも兼任するくらいだ。関係も良好だったのだろう。教え子でもあり同僚でもあった彼女の死を、木藤はどう受け止めているのだろうか。

 立ち上がり、入口横の壁に掛けられたホワイトボードに近づいた。黒いテープで区切られ、桐生たちの名前が書き込まれている。各々が今日の取材先をマジックで書き込み、そのほとんどは一日出ずっぱりだ。

 桐生が「香霖大学」と書き込んでいると、璃子がやってきた。

「誰の取材に行くの?」

「まだアポは取ってないけど、木藤教授から話が聞きたいなって」

「奇遇ね。さっき卯月君に連絡を入れて、木藤先生のところへ案内してもらうことになってるわよ」

 璃子は桐生からマジックを受け取ると、行き先を書き込んだ。

 
 薄曇りの空を眺めながら、246の緩やかな坂を上った。時刻は午前十時を過ぎたところで、人通りはまばらだった。

 正門を通り抜け、一号館の壁に掲示された校内地図を確認する。

「卯月君とは五号館の入口で待ち合わせしてるの。前回指定された十二号館より手前にあるわね」

 璃子のあとに続き、一号館の吹き抜けを歩いていく。広場があり、道は三つに分かれていた。左右と前方に建物がある。

「『FINDER』の記者さんですよね。きょうは誰の取材ですか」

 声を掛けられ振り向くと、富士原が立っていた。煙草を吸っていたようだ。そばにベンチがあり、その横に灰皿スタンドが設置されている。

「卯月君が木藤先生に紹介してくれるって話だったけど、富士原君がピンチヒッターかしら」

 璃子は富士原に笑いかけた。

「いえ、たまたまですよ。途中まで一緒に行きましょう」

 富士原は吸いかけの煙草を、ベンチ横の吸い殻スタンドへ落とした。左手にはハードカバーの分厚い本を抱えている。

「富士原君は、どんな本を読んでるんだい?」

「これはゼミのテキストなんです。過去の犯罪データなんかもぎっしり書かれてるんで、持ち歩いて読んでます」

 表紙を二人に向けた。『司法・犯罪心理学』と書かれ、帯に「犯罪は人間が犯すもの」と大きく記されている。

「あなたがたは最初から知ってたんですね。秩父湖で発見された遺体が瀬田先生だって」

 富士原がつぶやいた。

「あのときは、遺体の身元が断定されてたわけじゃなかったんだ。ただ、瀬田先生の可能性はあった。明日発売の『FINDER』を読んでくれれば納得してもらえると思う」

「どうして瀬田先生だと思ったんですか。変ですよね。だって遺体は湖の底に沈んでいたんですよ。あなたがたは、沈んでいるものをわざわざ確認しにいった。どうしてそんなことができたんですか」

 富士原は桐生をじっと見つめていた。隠しても明日の記事には書いてある。桐生は肩をすくめた。

「編集部に手紙が送られてきたんだよ。地図と瀬田先生の免許証が同封されていた。だから確かめにいったんだ」

 桐生の答えに、富士原は顔色を変えた。

「……免許証を見て、あなたがたは信じたんですか」

「私たちも半信半疑だったのよ。悪質ないたずらかもしれないとも思ったわ。でも、本当かもしれない。無駄足を恐れてたら、週刊誌記者なんてやってられないわ。まず確かめてみるの。自分たちの目で」

「それで……本当に遺体が沈んでいた……」

 声は途切れ、富士原は空を仰いだ。

「きみたちは瀬田先生を慕っていた。先生に付き合ってた男性がいたとか、聞いてない?」

「……瀬田先生のプライベートは、よく知りません。湖で殺されるなんて、よっぽど悪い奴と付き合ってたのかもしれませんね。あるいは変な奴に連れ去られたとか。いずれにしても自分の犯行を書いた手紙を『FINDER』に送りつけるなんて普通じゃない」

 富士原は本を右手に持ち替え、桐生と璃子を見た。

「世間から注目を浴びたいのかもしれないわ」

「あるいは、警察や遺族を愚弄ぐろうしてるのかもしれません。大きく報じられることで、自尊心を満たしているとも考えられます。この道をまっすぐ行った突き当りが五号館です。卯月が待ってると思うんで、俺はここで失礼します」

 富士原は一礼し、手前の建物のなかへと去っていった。手前が学部生の校舎で、その右手奥にそびえる茶色い建物のなかに院生の研究室があるのだろう。道の両脇の花壇には、紫と白の花が咲いていた。正面に大きな木があり、すっかり落葉した枝が空に伸びている。

 木のそばまで行くと、建物から長身の男が出てきた。卯月だ。ざっくりとしたベージュのニットに淡い水色のジーパンを合わせている。桐生と璃子に気づき、軽く会釈した。

「事件のこと、何かわかりましたか」

 卯月が桐生に視線を向けた。黒い切れ長の眼には生気が戻ってきていた。事件の真相を追うことが、いまは卯月の活力になっているのかもしれない。

「きみが見た黒い車の持ち主がわかるといいんだけどね。警察にも車のことは話したかい?」

「きのうは刑事さんに話しました。でも、くわしいことは何も教えてくれません。ニュースも見てますが、容疑者はまだ浮かんでないみたいですね」

 卯月は口を歪めた。失望と苛立ちの混ざった感情を押さえつけているようだ。黒い扉を開け、薄暗い廊下を進んでいく。

 左側の壁にはドアが四つ並び、それぞれドアの上に室名が表示されていた。卯月は三つ目の『木藤研究室』と表示されたドアの前で立ち止り、ノックした。中からくぐもった声で返事があり、男が顔を覗かせた。

 璃子と桐生が名刺を差し出すと、男は「木藤聡太郎です」と小さく会釈した。五十代前半だろうか。目尻に深い皺が刻まれ、眼窩が落ち窪んでいる。

「あなたがたが第一発見者だと聞いています。私も経緯をお聞きしたいと思っていました」

 木藤は卯月に礼を言い、桐生と璃子をなかへ招き入れた。室内は書棚で二つに仕切られ、左側のスペースに机が六つ、右側には二人掛けのソファー二脚とエル字型の机が置かれていた。学生の姿はない。ドアの横に小さな流し台があり、コーヒーメーカーのピッチャーにはコーヒーが保温されていた。

 二人は書棚に近寄り、本のタイトルを見ていった。心理学のほかにカントの『純粋理性批判』やキルケゴールの『死に至る病』といった哲学書、宗教に関するもの、文学全集、精神病理について書かれた本などがぎっしりと並んでいる。

「お二人は、ふだんどんな本を読まれるんですか」

 流し台の前に立っていた木藤が振り返った。

「私は書店に行って、目に留まったものはとりあえず購入して読みます。ジャンルは問いません。だから部屋は本だらけです」

 璃子が自宅で本に埋もれている様子は簡単に想像できる。

「僕はノンフィクションが多いですね。もっと文学や犯罪心理にも詳しくなりたいと思っているんですが、なかなか行動が伴いません」

 緑のハードカバーが並ぶ棚に目が留まり、一冊抜き出した。『カラマーゾフの兄弟・Ⅰ』だ。はこ入りで、タイトルの上に『世界文学全集20』と記されている。何箇所か付箋が貼られていた。ページを開いてみる。ボールペンでサイドラインが引かれていた。

 ――人間はもともと反逆者として作られている。だが、はたして反逆者が幸福になれるものだろうか?

「このサイドラインは木藤先生が引かれたんですか」

 桐生は本から顔を上げた。

「本に線を引くなんて冒涜だと、怒る方もいらっしゃいますよね。この書棚にある本は、学生たちに読んでもらいたくて自宅から持ってきたものなんです。もし線が気になるなら、自分で買って読んでくれたらいいと思ってね」

 木藤は台の上に置かれた二段式の食器棚からマグカップを三つ取り出し、コーヒーを淹れた。白と黄緑色、もう一つは鮮やかな朱色だ。食器棚にはほかにも青や黄色のカップが並んでいる。

「僕も本に線を引きます。すぐ読み返せるように付箋も貼って、わかったことを書き込んだりもしますよ。ここに書かれている〃人間はもともと反逆者〃とは、どういう意味なんでしょう」

「ああ、それは大審問官がキリストに言ったセリフです」

 木藤は二人にソファーを勧めた。桐生の前に黄緑色のカップ、璃子の前に朱色のカップを置いた。

「場面は十五世紀スペインのセヴィリアで、異端審問がもっとも厳しい時代です。ここへキリストが降り立ち、人々は再び奇跡を目の当たりにします。亡くなった少女を生き返らせるんです。秩序の危機を感じた枢機卿すうききょうはキリストを投獄してしまいます。大審問官は枢機卿でもあるんです。奇跡は誰にとっても感動と喜びを与えるのではないんですね」

「大きな権力を持っている者のほうが、奇跡を恐れるということでしょうか」

 桐生は開いた本を璃子に見せた。

「奇跡によって自分の権威が脅かされると感じるんでしょう」

 木藤は白いカップに口を付けた。

 璃子は桐生から本を受け取ると、視線を落とした。ページをぱらぱらとめくり、残り数ページのところで手を止める。ページを開いたままテーブルに載せた。
 
   何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなくて
  はならなくなった。
 
「善悪は決まりきったものじゃない、と書いているんですね。でも、そうなると、誰かにとって正しいことが、ほかの誰かには悪かもしれない」

 璃子は朱色のカップを手に取った。

 カップの色に何か意味があるのか考えながら、桐生も自分の前に置かれた黄緑色のカップからコーヒーをすすった。深みのある香りが口の中に広がり、ほどよい苦味が心地いい。

「社会秩序は安定を与えてくれると同時に規制し、ある意味では私たちを支配しています。一方で、個人を尊重し主体的に生きることは、一見自由で素晴らしいことのように感じます。ですが、自分の身は自分で守らなければならず、善と悪を自分で考えなければなりません。それはたいへん荷が重いことです」

 木藤の話を聞きながら、桐生は子供の頃に漠然と考えていた『壁』を思い浮かべた。壁が失くなれば、好きな場所へ行ける。だがその自由を守るためには銃がいる。

「木藤先生が瀬田さんと最後に会ったのはいつですか」

 璃子が切り出した。質問が相手の頭に入り、思考が回り始める。木藤はソファーの背にもたれ、視線をさまよわせた。

「たしか、三日の金曜日だったと思います。あの週の週末は研究室には行きませんでした。その後、彼女の姿を見ていません」

「木藤さんが瀬田さんに会ったのは、金曜の何時頃でしたか」

「午後でしたよ。私が帰るときに、廊下で少し話しました。三時過ぎだったと思います」

 桐生は手帳に時刻を書きつけた。

「どこかへ出かけるとか、人と会う予定があるなど聞いてませんか」

「それなら彼女は、この近くのスポーツジムへよく行っていましたよ。体を動かすと頭もすっきりすると話してましたね。金曜も行っていたのかはわかりませんが、会員だと聞いたことがあります」

「明治通り沿いにあるポーツジムですね。管理人は木曜日の朝、挨拶したと話していましたが、翌日の金曜まで無事だったんですね」

 桐生は手帳に書き留めた。

「ああ、でも彼女は論文を書いていたので、自宅へまっすぐ帰ったかもしれません」

 木藤は手を顎に当て、うなずいている。

「瀬田さんは、どんな論文を書かれていたのでしょうか。参考までに教えていただけますか」

 璃子の問いに、木藤は姿勢を正した。

「人間行動についてです。彼女は学生の頃から、人間行動に不可避と思われる基本的な変化に興味を持っていました。FBIが行なっているプロファイルはご存知だと思います。特徴的な習慣が個人の隠れた側面を表すという考えのもとに、犯行から犯人像を描き出す。これは、切り裂きジャックの時代から行われていました」

「FBIに行動科学課ができるより一世紀近く前ということですか」

「ええ。一八四三年にダニエル・マクノーテンという男が殺人罪に問われたんですが、心神喪失を理由に無罪になりました。この裁判のあと、医師たちが裁判に関わる機会が増えていきました。犯罪者の性格についても発言するようになっていったんです。切り裂きジャックについては、ボンド医師が犯人像を推測しました。ご周知のとおり事件は未解決ですが、FBIが事件百年を記念して推測した人物像は、ボンド医師のものと一致しています」

 木藤は息をついた。桐生は手帳に『人間行動・不可避の変化が個性を表す』と記し、顔を上げた。

「木藤先生は今回の事件をどう捉えていますか。瀬田さんは犯罪心理の専門家でしたが、犯罪の被害に遭われてしまいました。『流し』の犯行という見方もありますが、そうだとすると瀬田さんは見知らぬ人物に誘拐されたか、自ら従いていったことになります」

 璃子はメモを取らず、まっすぐ木藤を見つめている。

「あなたがたは、瀬田さんのことを誤解なさっているようですね」

 木藤はカップに視線を落とした。

「木藤先生は、『流し』の犯行ではないとお考えですか」

「断定はできません。ただ、見知らぬ男に従いていくようなリスクを、瀬田さんは犯さなかったと思います。たとえ相手がどんなに魅力的だったとしても。もし誘拐されたのなら、目撃者がいるはずです。激しく抵抗したでしょうし、人けのない場所へ一人で行くなど、彼女に限っては考えられません。犯人の側から見ても、瀬田さんを連れ去るのはリスクが大きいでしょう」

 木藤はカップから顔を上げた。『流し』の犯行なら、犯人はもっと誘いやすい相手を選ぶということか。

「では、木藤先生は、犯人には瀬田さんを殺す動機があったと思うんですね。それを隠すために『流し』の犯行に見せかけている、と」

 手帳に書き留めながら、桐生は眉を寄せた。『FINDER』に手紙が送られてきたことや遺体が切断されていたことも、猟奇的なシリアルキラーを偽装するための罠だったと考えるべきなのか。

 西岐の顔を思い浮かべた。西岐が瀬田絢子を湖へ誘ったのだろうか。瀬田絢子も元恋人の誘いなら応じたかもしれない。瀬田は友人に戻ったつもりだったが、西岐には未練があった。寄りを戻そうとしたがうまくいかず、怒りに駆られた西岐が瀬田を殺したのだろうか。

「木藤先生は、瀬田さんが付き合っていた男性のことをご存知ですか」

「西岐君のことなら知っていますよ。瀬田さんに西岐君を引き合わせたのは、私でしたから」

「木藤先生が西岐さんと知り合ったのはいつ頃ですか」

「西岐君とは、四年前にワイン会で知り合いました。私の故郷は長野の松本でしてね。学生時代は友人と北アルプスや八ヶ岳でテント泊をしながら登りました。西岐君とは、登山の話で意気投合したものです」

 木藤は北アルプスの夜空でも思い浮かべているのか、懐かしそうに目を細めた。

「じゃあ、そのワイン会で瀬田さんと西岐さんは出会ったんですね。西岐さんは瀬田先生にふさわしいと思いましたか」

 桐生の問いに木藤は腕を組み、言葉を探すように視線をさまよわせた。

「西岐君はかなりの男前でしたから、女性にはモテましたね。軟派な男に見られることも多かったようですが、根は真面目な青年でしたよ。誰にでも優しかった。そこが瀬田さんには不満だったのかもしれません。二人には幸せになって欲しいと願っていたんですが、こんなことになって本当に残念でなりません」

 木藤は視線を落とし、首を振った。

「瀬田さんが何かに悩んでいた様子はありませんでしたか。自殺願望があったとか……」

 桐生の問い掛けに、木藤はきっぱりと首を振った。

「瀬田さんは、犯罪心理の探求に情熱を注いでいたんです。そんな人が自殺を考えるとは思えません。彼女は、学生の頃からよく私に言ってました。“凶悪犯と私たちの関係は、けっして奴らと我々ではない”とね。いつか犯罪心理を解き明かし、世間に伝えるのが彼女の使命だったんですよ」

 木藤は口をゆがめ、苦そうにコーヒーをすすった。