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黒い花の屍櫃(かろうど)・11

  『黒い花の屍櫃・1』はこちらから  


     6

 翌木曜日は朝から雨が降っていた。桐生は盛岡行きの新幹線やまびこに乗っていた。三人掛けのシートで、通路側に武藤、窓側には久利生が座っている。
 久利生は生前の正木有紗に会っていた。正木耕助はまだ事故に遭う前で、木彫り店は繁盛していた。日曜日や連休には、観光客向けの体験工房を開いていたという。

 正木親子との接触が、今回久利生が悪魔に取り憑かれたことと関係しているのだろうか。それを調べるために大籠にある集落に行こうと決めたのが、昨夜の七時頃だった。久利生も同行したいと言い、今朝は午前七時半に東京駅で待ち合わせた。五十二分の新幹線に乗り込んだあと、武藤は爆睡している。

「正木有紗ちゃんと会ったときのこと、話してくれるかい?」

 桐生は東京駅で買った缶コーヒーを啜りながら、久利生に視線を向けた。

「あれは、小学五年生になった年のゴールデンウィークでした。五月の緑と風がとても好きなんです。深い樹林の奥を風が吹き抜けていく。樹海には鳥の囀(さえず)りが響いていて、窪地にできた水溜りは黒い鏡のように澄んでいます。目の前にあるきれいなものを、何か形にできたらどんなにいいかって思っていたんです。絵とか詩とか書ければよかったんですけど、きれいな色や言葉を使いこなすことができませんでした」

 久利生はシートにもたれ、当時を思い出すように首を左に傾(かたむ)けた。

「五年生のゴールデンウィークに、ご家族と大籠に行ったんだね。有紗さんと久利生君は、歳が近かったのかな」

「有紗ちゃんとは同い年でした。あの木彫り店には、有紗ちゃんの作品が飾られていました。B4サイズのレリーフで、小さな教会と花が軟らかな線で彫り出されていました。有紗ちゃんの作品を見て、僕も形を彫ってみたくなったんです。僕たち、すぐに仲よくなって、彫刻を彫る前の心得を教えてもらいました」

 久利生は子供の頃から中性的な魅力があったのだろう。同級生の二人が打ち解けて話す姿が容易に想像できる。

「小学生のうちから心得があるなんてすごいね。それって、どんなことだったのかな」

「形が充分に浮かび上がるまで、待たなければならない。それがもっとも大切なことなんだって教えてくれました。いまでも時々思い出しては、自分に問い掛けているんです。彫りたい形は充分に浮かび上がっているだろうかって」

「それは難しいな。日々時間に追われてるから、そこまで待ってられないよね。僕なんか、いつも見切り発車だよ。芸術はそれじゃいけないってことか」

 父の姿が脳裏に思い浮かんだ。白いキャンバスの前で、父は何も描き出そうとしなかった。あの時の父も、キャンバスに形が浮かび上がるのを待っていたのかもしれない。

「桐生さんには書かなければならないことがもうあるから、待たなくていいんですよ。僕、桐生さんたちが作ってる記事、毎週読んでます。きょう発売の『FINDER』も売店で買って、電車のなかで読みました。十五世紀のアステカでは、人身御供の生贄として死ぬことは有益だと考えられていたんですね」

 久利生は膝の上に乗せていたリュックから『FINDER』を取り出し、特集ページを開いた。

「この記事で、以前読んだ本のことを思い出しました。かつて昼が存在していなかった頃、神々が語り合ったそうです。『誰が世界を照らすのか』と。それは、二人の神が太陽になるために、火のなかへ飛び込むというものでした。神に捧げられた命は、もしかしたら生まれ変わるのかもしれません。永遠に燃え続ける太陽になれるなら、身を捧げてもいい。そんなふうに思った記憶があります」

「その話では、本当に神が火に飛び込んだのかい?」

 桐生は久利生が開いている特集ページの写真を眺めた。武藤が撮ったモノクロ写真で、アリッサムという白い花だ。花弁は四枚で小さいが、存在を主張するように束になって咲いている。

「テクチズテカトルという名の神がすぐに立候補します。でも、二人目がなかなか決まりませんでした。その語らいの場に、ナナウアチンという腫れ物だらけの神がいて、誰かがナナウアチンにしようと言い出します。ナナウアチンはその言いつけを承知します」

「神々も、外見で優劣がつけられてるんだね。なんだか身につまされるよ」
 桐生はくしゃくしゃの髪を両手で押さえつけた。今朝は時間に余裕がなく、髪をセットできなかった。璃子に綿毛と呼ばれた縮れ毛は、きょうも存分に個性を発揮している。

「でも、いざ炎のなかに身を投じるとなった時、テクチズテカトルは躊躇(ちゅうちょ)します。四度促されても踏み出せません。そこで、ナナウアチンが先に飛び込めと命じられます。ナナウアチンは、一瞬の迷いもなく火のなかへ身を投じるんです」

「ナナウアチンのほうが勇敢だってことだね。あるいは無痛症だったか。恐れを感じないというのは、人間なら致命的な欠陥だけど」

 桐生の呟きに、横で眠っていた武藤が「ああ」と相槌を打った。夢のなかで話を聞いているのだろうか。

「恐れを抱きながら、それを克服できて初めて勇敢だといえるでしょう。僕は、ナナウアチンは勇者だったと感じました。ナナウアチンが飛び込んだことで、テクチズテカトルも火に身を投じます。ナナウアチンは大地を照らす太陽になり、テクチズテカトルは夜に光を投げかける月になりました」

「闇の世界に光と熱をもたらすために、神は自らを犠牲にしたのか」

「この話には続きがあって、その会合にいたほかの神々は皆殺しにされるんです。風の神であるケツァルコアトルによって」

「……いったい何のために、そんな惨(むご)いことが起こったんだい?」
 神々が殺される場面が浮かび、桐生は目をすがめた。

「ケツァルコアトルは神々の心臓を抜き取り、新しく生まれる星たちの糧にしたんです。だからその後は人間を生贄に捧げたんだと思います。星となった神々のために」

 久利生は窓を見遣った。ぽつぽつと雨が当たり、ガラスの上を滑っていった。

 十時半に一ノ関駅に着き、バス停へ向かった。時刻表を確かめると、平日は朝と午後の二本で、休日は一本だ。タクシーに乗り込むか、レンタカーを借りるしかない。久利生の記憶によると、正木耕助の木彫り店は大籠キリシタン殉教公園の近くだったという。

「タクシーで行こうよ。話が聞けるかもしれないし」

 駅前のロータリーを見ると、ちょうど一台のタクシーが走り込んできた。助手席に武藤が乗り込み、後部座席に桐生と久利生が並んだ。

「お客さんたぢは、クリスチャンがい?」

 目的地を聞いた運転手は、人のよさそうな笑みを浮かべた。目尻に三本の皺が刻まれる。

「いえ、ちょっと取材したいことがあって来ました」

 桐生は正直に答えた。雨は止み、雲の隙間から日が差している。助手席に座った武藤はカメラを取り出し、フロントガラス越しにシャッターを切った。新幹線で熟睡したせいか、表情が晴れ晴れとしている。

「きょうは平日だし、寒ぐで天気もよぐねぁ日にわざわざあそごへえぐんだがら、そりゃ、やっぱりすごどだべね」

 運転手はハンドルを切り、山道へと入っていった。アスファルトには「県道295号」と記されている。

「大籠まで行くのは、クリスチャンの方が多いですか。観光で訪れる人もいるのかな」

 桐生の問い掛けに、運転手は緩慢に首を振った。

「たいでいの観光客は平泉さ行ぎますよ。中尊寺も人気があるね。こっち側さ来るのは、目的持った人だぢでねぁがな」

 枯れ草色に覆われた広大な土地の所々に、思い出したように常緑樹が立っていた。奥には深緑の山が見える。桐生は隣に座っている久利生に視線を向けた。ドア側にもたれて眠っている。

「運転手さんは、十年前もこちらにおられましたか」

「生まれも育ぢも盛岡だ。おらにはここの気候が合ってらんだ。東京は行ったごどあるども、なしてあったら人がいるどご歩いで、ぶづがらねぁのが不思議でしたよ」

「たまにぶつかりますよ。それで殴り合いの喧嘩になって、電車が遅れたりします。この前も、駅で取っ組み合いが始まっちゃってひやひやしたな」
 武藤はカメラのファィンダーから顔を離した。

「十年前、大籠の集落で悪魔祓いがあったのをご存知ですか」

 思い切って訊いてみた。フィクションの話かと一笑されると思ったが、運転手は笑わなかった。バックミラー越しに桐生に視線を向け、目が合うとハンドルを握り直した。

「お客さんたぢは、正木さんとこの悪魔憑ぎ調べでらんだが」

「俺たち、幸先いいな。運ちゃん、その話、詳しく聞かせてくれよ」

 武藤の陽気な声に、運転手はまたハンドルを握り直した。片側一車線の道は、緩やかな登り坂だった。すれ違う車はなく、道の両脇には冬枯れの草で覆われた原っぱが続いている。

「正木さんの木彫りは、素晴らしかったんだよ。マリア様の像が人気でね。清らがな空気纏ってらったな。阿弥陀菩薩も素敵だったよ。見でら者の心、包み込んでけるんだ。これでおらも極楽さ行げるって信じさせでけだよ」
「正木さんは、事故に遭われたんですよね。そのせいで酒に溺れるようになったと聞いています。娘さんが悪魔に憑かれる前に行方がわからなくなったそうですね」

 桐生の言葉に運転手は身じろぎした。

「正木さん、あの事故で右手が思うように動がなぐなってさ。それで、人が変わってしまったんだ。奥さんの顔さ痣(あざ)がでぎででね。腕さ包帯巻いでらごどもあったな。んだがら、殺されだのがもしれねぁって噂がだったんだよ」

「つまり、奥さんに殺されたってことか」

 武藤は運転手の横顔を凝視している。

「あぐまでも噂だよ。んだがら有紗ぢゃんが悪魔さ憑がれだって考えだら、妙さ腑に落ぢるってだげさ」

「正木さんの奥さんは、いまどこに住んでいるかご存知ですか」 

「ずっと同じどごろに住んでらはずだよ。木彫り店は、奥さんの弟が引ぎ継いだって聞いでら。あそごが殉教公園の入口だな」

 小さな立て看板があり、左手に舗装された小道が続いている。運転手に礼を言い、タクシーを降りた。久利生はまだ寝足りないのか俯いている。足元は黒のスニ
ーカーで、ソールと紐が白、銀色のラインが入っていた。

「どうする? せっかくだから、公園のなかへ入ってみようか」

 桐生が声を掛けると、久利生が顔を上げた。

「なんだか気分が悪いんで、お二人で見てきてください。僕はここで待ってます」

「顔色が悪いな。じゃあ、写真だけ撮ってすぐに戻ってくるよ」

 武藤に促され、桐生は小道を進んだ。

「久利生君、大丈夫かな」

 道は上り坂で、緩やかなカーブになっている。久利生の姿が見えなくなり、不安がよぎった。

「場所が場所だからな。ここはただの公園じゃない。殉教者が眠ってるんだ。どこかに十字架が立てられてるんじゃないか」

 小道は三つに分かれていた。右手に駐車場と平屋があり、左手には噴水と資料館があった。正面の道の先に階段がある。表示板には『クルス』と書かれている。

「あの階段を上った先に、教会があるみたいだな」

 武藤は正面にカメラを向けた。山の斜面に設置された丸太階段は、どこまでも上に伸びている。

「不思議な巡り合わせだと思わない? いま僕たちがいる場所には、信仰のために幕府に命を奪われた人々が眠っているんだよ。そしていま僕たちは、神への供犠のために人を殺す犯人から手紙をもらってる」

「確かにな。だけど、R・Jの本当の動機は別のことかもしれないぜ。実は長山恵里香のストーカーだったとかさ」

 武藤はまっすぐ進み、丸太階段を上り始めた。桐生もあとに続く。

「神への供犠じゃなくて、長山さんを崇拝していたとかね。だから黒い花のなかに埋めて、彼女の死を神聖なものに昇華させようとしたとも考えられる」

 もしそれが動機なら、R・Jは彼女の命を欲しがったことになる。執着は強欲の罪に当たるのだろうか。

 丸太階段は段差が不揃いで、上っていくほど傾斜がキツくなっていく。息が切れ、額に汗が滲んできた。辺りに人影はなく、鳥の囀りが響いている。

 百段ほど上ったことろにベンチがあり、迂回路の表示がでていた。『遠藤周作の碑』があるらしい。武藤を呼び止めようと顔を上げたが、すでに頂上付近まで上っていた。振り返った武藤が桐生に手を振っている。「あともう少しだ。がんばれっ」と声援を送ってくれる。

 呼吸を整えながら一歩一歩上り詰め、最後の一段に足が届いた時、鐘が鳴った。鐘は桐生の頭上に吊るされている。簡素な櫓のような鐘楼だ。いままで聴いたことのないメロディーを奏で、三十秒ほどで止んだ。 

 背後を振り返り、眼下に延びた三百段ほどの丸太階段を見やる。階段の両側には直立した常緑樹が繁り、遠くに山が連なっている。雲は薄くなり、水色の空が見える。

 武藤に呼ばれ、桐生は前を向いた。武藤が手招きしている。高台は円形で、中央にはヨハネ・パウロ二世の寄稿文が写真と共に飾られていた。その奥に小さな教会がひっそりと建っている。

「さっきの鐘は、午後三時まで三十分おきに鳴るらしい。お前のことを祝福してるみたいだったな」

 神の祝福があるなら心強い。武藤は碑文にカメラを向け、シャッターを切った。続けて教会にレンズを向ける。

「あの教会、なかに入れるのかな」

 桐生は扉の前に立った。二枚の合わせ扉で、左右に引くよう記されている。試しに扉を引くと、するすると開いた。足を踏み入れ辺りを見回す。石造りで、ひんやりとしている。前方に祭壇があり、十字架が据えられていた。磔にされたキリストが、青白い光のなかで目を閉じている。人影はなく、静謐に満たされていた。あとから入ってきた武藤は祭壇に近づくと手を合わせた。桐生も武藤に倣い、祈りを捧げた。
 
 何枚か写真を撮り終えた武藤と元の場所に戻ると、久利生の姿は消えていた。周辺を探したが、久利生を見つけることはできなかった。電話も繋がらない。

「先に正木さんの家へ行ったんだろ。俺たちも追いかけようぜ」

 武藤は歩き出した。空を覆っていた雲は薄くなり、晴れ間が見える。

「追いかけるっていっても、正木さんがどこに住んでたのかは、久利生君にしかわからないよ」

 桐生はまだ湿っている傘を左手に持ち替え、武藤のあとを追う。

「昨日のうちに川瀬神父に連絡を入れて訊いといたよ。お前が十年前の祓魔式(ふつましき)の話を始めた時に、璃子が席を外しただろ? 川瀬神父のスマホに架けて、正木さんの住所も聞いといてくれたんだ。万が一のことがあっても、ちゃんと取材ができるようにって。ほら、久利生は悪魔憑きだから、とんでもなく辺鄙な場所へ連れて行かれて喰われちまうかもしれないだろ?」

「悪魔は人を喰ったりしないよ。たぶん」

「絶対とは言い切れないだろ。とにかく悪魔憑きなんて初めてのケースだからな」

 武藤はスマートフォンで住所を確認している。

「もしかして僕たち、GPSで追跡されてるとか?」

「ああ、璃子のパソコンでな。正午と夕方五時に無事を知らせることになってる」

 武藤は地図アプリに住所を入れ、方向を確かめるようにスマートフォンを道にかざした。

「ここから二キロの距離だ。三十分もかからない。昼前には着けるだろう。どこかで昼飯にありつけるといいんだがな」

「食事と食事の間隔を十四時間以上空けると、若返るらしいよ。オートファジー効果って、武藤さん知ってる?」

「じゃあ、俺はいつも若返ってるな。一日二食で、ときどき食いっぱぐれるからな」

 武藤は黒髪をかき上げ、余裕の笑みを浮かべた。

 歩いているうちに雲は薄れ、水色の空が広がっていた。どこかで鳥が鳴いている。ひんやりとした風が枯れ草を揺らした。辺りに人影はない。広大な草地にぽつりと茅葺き屋根の平家が二軒建っていた。手前の家の屋根には看板が設置され、色褪せた楷書体の文字は『正木木彫り店』と読める。とすると、手前は店で、奥の家が住居だろう。武藤は歩道に立ち止まり、カメラを向けた。

「いまも木彫りを売ってるのかな。ご主人が失踪する前に彫った作品がたくさんあったとか、地元の彫刻家の作品を置いてあげてるのかもね」

 桐生は草むらに分け入り、店に近づいた。シャッターが下ろされている。住居の玄関へ向かい、引き戸の横にあるチャイムを鳴らした。返事はない。窓も閉まり、カーテンが引かれている。

 二軒の間に大木が植っていた。木を取り囲むように黒い石が並べられ、枯れ葉が積もっていた。午前中の雨で濡れている。そのなかに艶のある黒いものが混じっていた。半円を描く石の囲いを覗き込み、黒い何かに手を伸ばす。

 ――……黒い……花。
 アクリル樹脂で作られている。花弁(はなびら)は薄く、幾重にも重なっていた。なぜ、こんなところに樹脂の花が捨てられているのか。

 ――死は眠る。黒い花のなかで。

 透明なアクリル樹脂の箱に刻まれた言葉が脳裏に浮かび、桐生は後ずさった。

「……何かが、埋まってるのかもしれない」

「そんなこと、俺に言われても困る。まだ俺たちは何も見つけちゃいない。引き返すなら、いまのうちだ」

 数歩後ろに佇んだまま、武藤は険しい表情で石の囲いを見詰めている。
「引き返すわけにはいかないよ。見つけるのが僕たちの仕事なんだから」
 武藤への返答というより、桐生は自分自身に言い聞かせていた。


 *****

 一粒の砂に世界を。そう書いた詩人は、幻覚を見ていた。砂は一粒一粒違った輝きを持っている。注意して観察を続けていれば、みな違った物語を語り始める。
 きみも語れ。
 そう記した詩人は、セーヌ川に身投げした。なぜ待てなかったのか。一粒の砂が輝きだし、新しい世界を創造する日を。
 
 R・Jはペンを止め、日記帳から顔を上げた。
 あの詩人が命を絶ったのは、いやしめられ、しいたげられたからだ。ときに神は過酷な試練を与える。あとに遺された者は、その試練の意味を考えなければならない。

 父はあの女と恋に落ち、R・Jと母を捨てた。感情の渦にあらがうことが試練なのか。それとも感情のままに突き進むほうがより勇敢なのかはわからない。どこかの時点で父は過ちに気づき、母に手紙を送った。

 母は父を許したのだろうか。母の遺品に、父からの手紙はなかった。祖父の日記を読むかぎり、母が病死したあとも手紙は送られていたようだ。祖父は母の死を伝えなかったのだろう。もしかすると、祖父が母になりすまして返信していたのではないか。祖父が手紙を書いているところを想像し、R・Jは口元を綻ばせた。

 きっとそうに違いない。だから祖父は、父がどんな生活を送っていたのかを詳細に知っていた。右手を負傷し、それまでのように彫刻刀を握ることができなくなった父を嘲笑っていたのかもしれない。

 この日記があった屋根裏部屋には祭壇があった。イエス・キリストが磔にされた木製の十字架が壁に打ち付けられ、小さな書机にはクリーム色のサテン生地が掛けられていた。燭台は金で、薔薇の花が刻印されていた。祖父の十字架と燭台は、いまはR・Jの部屋に設えた祭壇に置かれている。供犠として二人の血を捧げた。

 神と共に生きたければ生贄がいる。祖父の教えを実践したことで、いままで感じたことのない力が体中に漲っている。ペンを持ち直し、罫線の上に文字をしたためる。
 
   希望だけでは、望みは叶えられない。さらなる血が必要だ。
 
 R・Jは日記を閉じ、黒いスウェードの表紙を指でなぞった。


         つづく

貴重なお時間とサポート、ありがとうございます✨✨✨