藤本タツキ『さよなら絵梨』を読んだ。〜切り取った綺麗な物語を観たいのが人間だから〜
短編のページ数が明らかに短編のそれではない藤本タツキ先生の最新作だ。
主人公は難病に侵された母の願いで母が生きた記録を撮ることになった中学生の少年・優太。
何気ない日常から闘病生活まで余すことなく撮ったが、ついに母の臨終のとき撮影から逃げ出してしまう。
優太は文化祭で自主制作映画として母の記録を放映する。ラストシーンはなんと、爆発オチ。
炸裂する病院をバックに彼が「さよなら母さん!」と絶叫して駆け出す演出に、生徒や教師は「意味不明」「胸糞悪い」と猛批判。
生きる希望をなくしかけた優太に唯一話しかけたのは、映画ヲタクの少女・絵梨だった。
彼に才能を感じた絵梨は英才教育を施しながら、ある題材で新たな映画を撮るよう導いていく。
ストーリーは全編カメラで撮影したような一人称視点で進んでいく。
現実の話かと思えば作中劇というドキュメンタリとフィクションの境が曖昧な演出から見えてくるのは、この物語が監督の優太の手によって切り取られて編集されたものということだ。
藤本先生の読切といえば記憶に新しいのが昨年のルックバック。
あの作品は中盤で実在の事件を彷彿とさせるようなエピソードや犯人の描き方で批判も受け、web版は一部修正まで追い込まれた。
中学生の優太が受け止めきれるはずもない母の死をどんな想いで虚構に昇華したか考えず倫理を盾に総叩きを食らうシーンは、作品の趣旨を理解せず病や偏見を盾にした義憤を修正させられたルックバックを否応なく思い出す。
でも、この作品はそれに対する反論として描かれたものではない。
優太が撮影し編集した物語には、カメラにはあえて映さなかった真実や負の側面がある。
綺麗なところだけ見せたいのも、不快を感じたところを切り取って叩くのも、どちらも“編集”だ。
人間の意思が介在する以上、フィクションだけじゃなく現実にもそれは行われる。
中盤で優太の父が語る「創作は受け手の抱える問題に切り込んで感情を出させるものだから、作り手も傷つく覚悟がなきゃフェアじゃない」という言葉が象徴的だ。
現実を中途半端に意識した批判で作品を修正させられた藤本タツキがこう描いてくれたのはファンとしては嬉しかった。
この読切にいろいろな映画のオマージュが入っているのも、これは主義主張ではなく物語なのだと際立たせている。
特に思い出した映画はふたつ。
ひとつは『ぼくのエリ 200歳の少女』。
絵梨の名前や、優太が撮った映画で彼女につける吸血鬼という設定はこれを意識したものだと思う。
これは孤独な少年の元に訪れる謎めいた少女との友情を描く話だが、さよなら絵梨と同じように作中にはいくつもの嘘や秘密が隠されている。
「ぼくの絵梨」としなかったのは、優太にとっての彼女は切り取って編集して解釈を加えた虚像だけで、自分のものなんて言えるほど全てを理解できなかったという思いからだろうか。
もうひとつは『6才のボクが、大人になるまで』。
ひとりの少年の半生を大人になるまで本当に撮り続けたこの作品は、完全なドキュメンタリでもドキュメンタリ風のフィクションでもなく境界が曖昧だ。
絵梨がプロデュースした映画の完成を優太に引き継ぐのが、監督が出演者のイーサン・ホークに途中自分が死んだら代わりに仕上げるよう頼んだのに重なる。
こちらがいいときも悪いときも隠さず写し続けるのに対し、本作は虚構を現実の踏み台にする優太の母と、現実を編集して綺麗な虚構に昇華する優太で、創作へのスタンスを分けているように思えた。
信じたいところを切り取るは作者も読者も同じだし、作り手として生じた責任は受け入れるとした上で、批判すらも作品の一部に巻き込むパワーのある漫画だ。
お互い様の妥協点を示した上で、クソ映画としてのろくでもなさを最後に持ってくるのは作品を説教にしない配慮だと感じた。
ルックバックより爆発的なスピードのある本作はチェンソーマンの二部への布石にも感じて楽しみ。
読切を描いたらチェンソーマン2ができて、チェンソーマン2を描いたら読切ができる!
永久機関が完成しちまったなァ!!
これでノーベル賞は俺んモンだぜ!!
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