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「ハッピークラシー」読書メモ

途中眠くなりましたが、後半は特に面白かったです。
「幸せ(ハッピー)」に「支配(クラシー)」されているという造語です、ハッピークラシー。

ざっくり言うと、アメリカ発祥のポジティブ心理学などは、良い面もあるけど、最近は行き過ぎなんじゃないのかい?て内容ですかね。

幸せは自分で作るもの、というのが強くなりすぎると幸せじゃない人は病気で弱い人、自分のせい、のようにもなってしまう。

また幸せ産業が増えすぎていて、その背景には新自由主義的な考え、自己責任・個人主義・そして資本主義のマネーによって、もっともっと幸せにならないと、となってしまっている。

幸せというものはゴールがなく、もっともっととなりやすいですし、資本主義も資本を投下して利潤を生むことが無限に続く運動なので、こちらもゴールがない。幸せ産業と資本主義の相性は抜群ですし、宗教などの力も弱くなっていると、それに代わる「幸せ」「ウェルビーイング」というものが絶対正義みたいにもなる。それの行き過ぎを危惧している内容です。

ちょっとナナメに見過ぎな部分もありそうですが、大筋はとても共感し、こういった批判的な見方は大事だと感じます。素直に幸せ産業に乗っていると、搾取され続け、幸せを目指し続けることを強要される、そもそも幸せってなんだっけ?

セリグマン博士のポジティブ心理学。僕もそれ系の本を読んだりしましたが基本納得します。

幸せは測定可能である。「幸せは音のようなものだ」「音には、たとえばトロンボーンの音色からいがみ合う声まで、いろいろな質がある。だがどれもデシベルという単位で比較できる。」
幸せは測定可能なだけではなく自明の善である。

幸せという非常に主観的であるものをまずは測定可能にします。幸せが科学で証明されていきます。

「幸せ」を「誰もが追求する目的、測定可能な概念」とみなし「健康で社会的に成功し、最適に機能する個人のしるし」であるとした。

この定義をしたことがポジティブ心理学・幸せの科学がこれほどまでに広まっていく理由だ、と。確かに間違っていない気もする、、、

間違ってはいない気もしますが、ここでも「幸せは測定可能であるだけではなく自明の善である」や「幸せは誰もが追求する目的」となってます。

アメリカの独立宣言にも「幸福追求の権利」が書かれていて、幸せを追求することは、良いことで誰もが権利として持っている。と。

正しいとも思いますが、権利なのだから、追求しなくても良いのだよね?のはずが、いつの間にか「幸せは追求しなければならない」となります。

幸せということや、ウェルビーイングということがどういったことなのかをある程度定義付けられています。

世界保健機関(WHO)憲章の前文では、「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいいます

WHO

すべてが満たされた状態、、、そんなことが起きるのだろうか、、、
人間関係や、お金、健康状態をある程度満ち足りた状況に持っていく、仮に望んだ通りにいかなくても、最後は自分の気の持ちよう次第で幸せになれる。一生をかけて追求し続けなければならない、、、これがハッピークラシー状態ですかね。

幸せの追求は個人を終わりなき自己形成のプロセスに従事させる。

幸せの科学者や専門家たちは、人生の意味や目的を見つけることはより幸せな人生を送るために必要不可欠だと主張するが、いったい何が目的を与えてくれるのかを具体的に言うことはない。

幸せを追求し続けなければならない、という前提の元、多くの自己啓発関連ビジネスが増えていきます。

「数えきれないほど失敗した。それでも倒れるたびに、また立ち上がった。7年後の今、わたしは快活なパーソナル・トレーナーでオンラインコーチでもある。人々が挫折を乗り越えて自分の幸せを見つけられるようにエンパワーするつもりだ」このような幸せでポジティブな個人的勝利の瞬間が、人々が自身や他の人たちに示すべき人生の側面である。それに対して弱さや失敗や苦痛の瞬間は、その人だけが抱え、まるでそれがうまく適応できなかった精神の恥ずべき兆候であるかのように隠される。

確かに、大体大きな失敗して、その挫折を自分の力で乗り越えて成功して今は幸せ、だからみんなにもそのノウハウ伝えます。そんな感じですよね。

僕のような、のほほんと会社員やって、流されるまま生きていて、会社員に戻れるという保険をかけたまま会社辞めて、なんとなくの副業がうまくいって、そのまま法人化して、大した苦労や修羅場もなくくつろぎながら生きています。運が良かったです。大きな挫折も大きな成功もありません。ノウハウは特にありません。なんて話はイラつくだけですね。

市場が消費者に吹きこみたいのは、個人が完璧になることよりもむしろ、自己改善への強迫観念を正常化することだという点だ。

幸せにゴールってないですからね。常に目指し続けないと、今が幸せなら落ちないように維持し続けないと。そのためには、こんなサービスやプログラムがあるから受けないと、その過程での困難は自分を成長させるための必要なものだ、と。

多くの人々がいまもなお、いつか幸せの本当の秘訣がわかるのではないかという可能性を信じている。

あれ。。。そうじゃないの、、、?

かの有名なダライ・ラマ14世が言っています。

欲望は、海水を飲むことに似ています。飲めば飲むだけ、喉が渇くのです。

ダライ・ラマ

「欲望」を「幸せ」に変えても成り立ちそうです。

かの有名なMR.Childrenも歌っています。

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにある物

「名もなき詩」

「愛」を「幸せ」に変えても成り立ちそうです。

幸せのカルトはよくて心を麻痺させる気晴らしであり、守ってくれるものもなく無力で不安だ、という感覚を解消するものにはなりえない。従ってわれわれは幸せからの脱出路を見つけなくてはならない。

著者は幸せの科学や幸せ産業に対して批判的です、幸せからの脱出路、、、

やはりここは、「幸せ」を目指すのではなく「くつろぎ」を目指せば良いのでは、、、というのが僕の提案です。

幸せには限りはなく、いくらでも追求し続けられるけど、くつろぎにはこれ以上寛げないよというポイントもあり、もうそこで十分となる。。

「あなたは幸せですか」なんて質問、めちゃくちゃ聞かれたくもないけど「あなたはくつろいでいますか」という質問なら、「ああ、はい、くつろいでいます」と答えられる。

幸福追求から脱出してくつろごう。そんな時代も近い、、、?

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