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「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている。読書メモ

タイトルから想像できる通りの内容ではありますが、結構人類学者の著者が見たアフリカの先住民のブッシュマンのルポみたいな部分も結構長いです。

途中は結構飛ばして読みました。

ざっくりいうと狩猟採取民でもあるアフリカの先住民ブッシュマンは、自分たちを自然の摂理の一部と見なして、余剰を出さない生活をしている。今をしっかりと生きている。それでしっかり充足感を持っている。というものだと感じました。

一方で、その生活を私たちに当てはめてやろうとしても無理はあります。(いろいろ知ってしまった上でその生活は選べない)ブッシュマンもうまく現代社会と距離をおいてきたので、その中で知らないがゆえに充足していた、というのも感じます。パンドラの箱が開けられてしまったように、一度知ってしまった私たちがその上でどうしていくのが良いのか?それぞれが考えるのだと思いますが、ヒントもいくつかあったのでメモします。

ケインズが夢見ていた週15時間の労働時間は、おそらく現生人類が辿ってきた20万年の歴史の大半で標準的なものだったということ。

人類が農耕社会になったことで労働が増えたことを指摘する知識人は多いですが、もちろんそれによって豊かになった反面、労働(ここでは苦役に近い)が増えすぎている負の面も多いですね。過労死などというあってはならないことが起きてしまう日本においても、この価値観は転換していかないといけないですね。

狩猟採取民が満足しているのは叶うはずがない願望に支配されないからだ。
原初の豊かさ。いつでも手に入るもので満足する。

羨ましいですね。一方、現代社会では欲望を刺激する広告に溢れかえってます。その辺を知恵や知性、自律といったものでいかに抑制していくのかが現代は大事ですね。当時(狩猟採取時代)は、そんな広告とかなかったですからね。

彼ら(先住民)が自然環境の摂理に揺るぎない信頼を寄せて余剰を出さない生活を営んでいるという事。そのため取引に意味を見出さなかった。(バスコダガマがアフリカで出会った人と)

当時貨幣での交換などが主流だったヨーロッパなどがアフリカいっても、話が通じなかった、それは「余剰を蓄積する」といった農耕時代以降の常識を持っていなかったからですね。この辺の自然観については学ぶべき点もありそうです。

農耕牧畜への移行で、食糧の総量が増加して人口が増大したため、大半の人々の生活の質が著しく下がり、家畜からウイルス性感染症や凶作による大規模な飢餓など、狩猟採取民が想像もしなかったあらゆる危機がもたらされた。

人類最大の失敗は農耕社会になったことだと、聞いたことがありますが、そう言った負の側面が爆発的に増えるきっかけが、狩猟から農耕への移行だ、と。一方で、遺伝子目線で考えて、人口が増える(遺伝子が生き残り、増える)きっかけになったのは農耕社会ですね。

そうなると、結局、人類とは何か?とか人類はどこへ行くのか?的な話になって収拾がつかなくなりそうです。

土地と労働力を求めて野心を抱くヨーロッパ人は、交易や公認された労働市場に無関心な人間の存在を許す事はできなかった。

ほっといてくれよ!って感じですよね。
前にニュースで、若いキリスト教の宣教師が先住民の島に近づいて殺された(政府は先住民保護で誰も近づかないようにいっていたにも関わらず)というニュースを見ましたが、それも、先住民からしたらほっといてくれよ、だったのでしょうね。

即時リターン経済
労働努力のほとんどが、次の食事やその夜の寝所など当座の必要を満たすのに充点が置かれる社会。
繰延リターン経済。
労働努力は将来の利益を得ることに向けられる。農家なら畑にタネを撒いて、秋に収穫。サラリーマンの住宅ローンとか年金も、子供の将来のため、も。

今の世界は繰延リターンで回っていますが、その繰延リターン経済に資本主義という無限の富の蓄積マシーンが加わると、お金のためにお金を増やし、というよくわからない世界観になっちゃいますね。かといって、即時リターン経済でいけれるほどメンタルもタフじゃない私たちは、どのぐらいのバランスが良いのか、を考える必要がありますね。

即時リターンに不安はないのか?
必要な時にいつも欲しいものが手に入るという、自然環境に潜む摂理と自身の能力に対する、強い信頼があると大丈夫。

自然を受け入れる。委ねる。ということでしょうか。

狩猟採取民→自身を環境の一部。
農耕牧畜民→自身と環境は切り離された何かであり、操作できる。

自然は管理する、というのがキリスト教の価値観ですし、それで実際よくなってきた側面もありますが、それが行き過ぎた現代においては、東洋の価値観や狩猟採取民の自然観に立ち戻る必要性を感じます。

環境を修正・抑制・支配するには、狩猟採取と比べてはるかに多くの労働が必要になる。
苗の世話、害虫から守る、保存設備を作る、農具の修理、作る、とか。
子供の世話や家の維持、、、、勤勉は美徳という考えは、ここで生まれた。

そしていまだに勤勉は美徳という考えがありますが、それは為政者にとってはその方がいいですよね。現代においてはテクノロジーのおかげでかなり楽をできるハズの社会になりつつあるので、テクノロジーになんとかしてもらって、望む人が週15時間労働ぐらいでやっていけるようになってほしいものです。

労働は重要な人間の要素だとほとんどの社会がみなしている。労働は多くの社会で私たちが何者であるかを定義し、どこの国でも政治を支配している。

お金のためだけじゃなく、存在理由にもなってくる。と。
今後、会社と個人の関係性が希薄になってくると、ますます自分は何者なのか、というアイデンティティ喪失する人が出てきそうです。

ただ、働かないとという価値観は人類史においては割と最近、と思えれば、まあいっか、と思えるようになるんですかね。

男性優位社会ができるまで。
農耕牧畜は力がいる→男の方が優位。
道具作り、家畜の世話、食料保存など性別関係なしの仕事は多い。
仕事量が増えると子作りが重視(子供が重要な戦力)
子育てという重要な仕事→家庭内で過ごすことが多い。
女性は家庭、男性は公共の場という世界中心の構造。
生産性向上→コミュニティ拡大→階層化して秩序維持→資源配分、リスク管理となる。
女性は家庭に縛られるため、男性がコミュニティや公共の場への参加が増えた。

なるほどー!と思いますね。もう原始的に、男性優位社会になりやすい構図になっている。男性優位社会は宗教どうのとかの問題じゃなく、農耕社会になったことで生まれたものなんですね。そう考えると、力が昔ほど必要じゃなかった現代においては、男性優位社会である意味も必然性も全然ないですね。

ケインズは技術的進歩と生産性向上によって、最低限の労力で絶対的ニーズが満たされるのは間違いないと信じた。
絶対的ニーズが満たされた時、本当に重要なものは何かを判断する感覚が根本的に変化し、「貪欲は悪であり、高利の取り立ては不品行であり、金銭愛は嫌悪すべきもの」と理解するようになるだろう、とケインズは論じる。

人間の貪欲さを見誤りましたね。その貪欲とは何か、なぜ起きるのか?ということをしっかり考えて、変えて行く必要ありますね。

絶対的ニーズが満たされれば、「本当の問題、つまり暮らしの問題、人間関係の問題、想像と行動と宗教の問題」を解決したいという生来の本能によって、いかなる労働本能も抑制できる。

そうなって欲しい。社会起業家とかはそうですよね。

人間は労働によって定義されるのではなく、別の充足感のある生き方を十二分に送れる能力があるのだ。

今、必要な考えですね。

私たちが全段にわたり、すでに達成された豊かさを喜んで受け入れる唯一の方法は、おそらく隣人と張り合ったり、あるいは追い越したりするために懸命に仕事をする衝動と、妬みや怒りを引き起こす不公平への対処の仕方を見つけることだろう。

これをどう見つけるのか、ですね。

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