「労働の思想史」読書メモ
くつろぎながら食べていきたい。嫌な仕事はしたくない。出口治明さんの本で、充実した人生には「人・本・旅」と書いてあったので、人はおいといて、本と旅、本は読むのも嫌いじゃないので本も読もう。
世界をフラットに見るにはタテ・ヨコ・算数が必要だと出口さんの本に書いてあった。そんな中で図書館で借りたのが「労働の思想史」です。タテの歴史と、人生を充実させる「本」いい組み合わせじゃないか、と。
くつろぐためには敵の歴史を知らないと(労働が敵なのか、、?)
アリストテレスがいたころの古代ギリシャでは、労働の価値は低く、奴隷にやらせていた、とあります。
幸福についての本などを読むと、よくアリストテレスのエウダイニモアという「善く生きる」という言葉が出てきて、素敵だなと思っています。
うんうん、と思う一方、何かの本でアリストテレスが「贅沢なんかいらない、友だちとワインとほんの少しの奴隷がいれば、、、」みたいなのを読んで、ん?となったのを覚えています。
アリストテレスの言う「全ての人間」には奴隷は入っていなかったのでしょうか、当時の価値観などだと労働に価値はなく奴隷にやらせて、市民は思索する、みたいな時代だったのですね。
価値が低かった労働の立場が変わってきたのが宗教改革の頃です。
労働に価値がある、ではなく、禁欲的な生活に価値がある、と。面白いですね。
この頃は人生の意味は「幸福に生きること」よりも「神に従って天国に行くこと」が優先されていたのでしょうね、現世でのお金なんかよりも、死んだあとの天国。
ところが、神のために熱心に働き、禁欲的な生活をしていたらお金持ちになっちゃった、、、お金持ちになると欲がむくむくと湧いてくる、、、人間て面白い。
そしてこの時代、聖職者たちが金儲けのために「贖宥状」を売りまくります。お金払ってコレ買うと、罪が許されて天国いけるよ。と。
天国いけるかどうかもカネ次第。当たり前ですが、こんなふうになると「それはおかしいだろ!」という人も出てきます。
そこで「予定説」なるものが出てきて、天国に行けるかどうかは生まれた時から決まっている!と。
決まっているなら、働こうが何しようが一緒です、でも結果がわかるのが死んだ後となると生きている時は不安です。
そうなると、「自分は天国を約束されている人間だ」と思いたくなり、神は勤勉に働く人間を天国に選ぶはずだ、と思い、勝手に勤勉に働くようになっていきます。
そして、上にもある通り、勤勉に働くと富が蓄積されていきます。そうなると富の多さ=勤勉に働いた証拠、となってきて、金持ちの方が天国行きを約束された人間だ!となってきます。
そしてこの頃に近代資本主義が発達してきます。資本主義は、利潤の再生産、無限の拡大を目指すのですが、そこに勤勉な労働観が組み合わさると最強です。それでアメリカが資本主義大国になった、というので良いのかな、、
資本主義の発達と共に労働者は苦しい環境で働くことも多く、マルクスなどが資本主義を批判しましたが、労働そのもの自体を批判しているわけではなさそうです。
そして、100年ぐらい前にケインズさんが「孫の時代には労働時間は減っていて、余暇に何をするか考えるので忙しいでしょう」という予測をしたものの、経済はその通りに成長したものの、多くの人の労働時間は減っていない、あれ、、、
労働の価値が高いのか低いのかは時代によっても変わっていくものですし、誰も働かない、なんてことになったら世界自体が成り立たなくなってしまいます。
アリストテレスの時代にも市民が活動できていたのは、奴隷に労働をさせていたからだし、今の時代で働かなくても平気な人は、大きい資本主義の渦の中で、誰かを搾取もしくは地球環境を搾取している可能性が高いわけで、、、とか考えるとくつろげなくなってきます。
かと言って現代のホワイトカラー(古い)の仕事はクソどうでも良いブルシットジョブであるのもいっぱいあって、働く意味や意義すら感じられない人もいる、、、いろいろ頭が混乱してきます。
この資本主義が限界を迎えているんだろうなあ、、と思いつつも、何か行動を起こすわけではないワタシは、結局いつも同じところに落ち着きます。
資本主義のこのパワーには乗っかっておこう、となって株式投資などはし続けないとなあ、となり、一方で、資本主義が破綻しても平気なように自給とか、人との連携や相互扶助みたいなのを大事にしないとなあ、となります。
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