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〈会津若松への旅2024〉①火焔型土器がいっぱい♪国宝土偶もやって来た!福島県立博物館 企画展「縄文DX」

7月6日から9月1日まで、会津若松市の福島県立博物館で開催されている企画展「縄文DXー会津・法正尻遺跡と交流の千年紀ー」

学芸課長の高橋満さんの講演会「土器に宿る-縄文中期・ふくしまの人体文」に合わせ、13 日(土)、縄文土器に会いに行ってきました。

前回記事はコチラ↓

そして、わたし、この企画展の内容や感想を「誰かにわかりやすく伝える」ことを放棄いたしました😱

私なりに頑張ってみましたが、やっぱりまだまだ知識不足、力不足。

縄文時代のおおまかな流れはかなり頭に入ってきましたが、地域や時代による土器の形や文様の特徴や変化が、まだ「使える知識」として脳細胞に定着していない感じです。

というワケで、今回は「読んで楽しんでいただけるような記事」を書くのは、いさぎよくあきらめ、基本的に「わたしの備忘録」とすることにいたします。

役立つようなこと、楽しいことはあんまりないとは思いますが、ご興味のある方は読んでいただけると幸いです。

その前に…
“福島県民なら知っておきたい(かもしれない?)「法正尻(ほうしょうじり)遺跡」について、簡単にご説明しましょう♪

法正尻遺跡とは?

法正尻遺跡は、磐梯町と猪苗代町にまたがる丘陵地から発見された縄文時代中期の集落跡です。

磐越自動車道・磐梯山SA付近に位置し、高速道路の整備中に発見されました。その後の発掘調査により、約130軒の住居跡、750基の土坑が発見され、縄文時代中期に1000年以上続いた大規模集落の跡と判明しました。

詳しくは「まほろん」のページでどうぞ♪

遺跡があるのは、約5万年前の磐梯山の岩層なだれの堆積地を基盤とする標高約560mの丘陵地。起伏に富んだ複雑な地形で、周囲に湿地帯があることから、多様な資源に恵まれていたと考えられています。急に漢字が多くなってきました💦

また、遺跡からは漁ろうに使う石錘(せきすい)が大量に出土。これは猪苗代湖における「内水面漁ろう」が集落を支えた生業であったことを示しているそうです。

同様の石器は猪苗代湖畔の遺跡からも出土しており、磐梯町・猪苗代町の縄文人は磐梯山やその周囲で木の実を採集したり、動物を狩ったりするほか、猪苗代湖で魚を獲り、食糧としていたと考えられます。

以前、おそらく福島県埋蔵文化センター白河館「まほろん」でおこなわれた講演と記憶していますが、法正尻遺跡の縄文人は冬季の食糧を確保するため、大量の木の実(クルミかドングリかと記憶)を貯蔵していたと聞きました。

縄文人は、前述したように山で動物を刈ったり、川や湖、海で魚を獲ったり、森で採集した木の実を貯蔵したりして暮らしていました。そのなかで、食糧の煮炊きや貯蔵に使われたのが土器でした。

今回の展示のpoint

今回の企画展は、法正尻遺跡からの出土品が国の重要文化財に指定されてから15年目を迎えることを記念して、企画されたもの。

法正尻遺跡から出土した土器のほか、東北南部の大木式(だいぎしき)土器、新潟の馬高式土器(有名な火焔型土器も含む)、関東甲信の土器など、法正尻に影響を与えたと考えられる土器が展示されています。

法正尻遺跡の土器は、さまざまな土器型式の影響を受けており、他のムラとの交流がさかんだったと推察されています。
法正尻の縄文人たちは、大木式土器や馬高式土器を真似るだけでなく、自分たちなりのアレンジを加えたり、特徴をミックスさせていたりしました。そのアレンジの仕方もおもしろかったです。

こうしたムラとムラの交流によって、異なる文化が接触し、融合することで、特定のモノの仕様に共通化がおこります。「第二の道具」ともいわれる非実用品である「祭器」には、土器型式の分布圏を超えて、他の地域に広がっていったものもあるとか。

産地が限定される天然資源のヒスイやコハク、黒曜石、天然アスファルトなどもかなり広域的に流通していたようです。

知っておきたい縄文中期の土器型式

土器には地域や年代によって、特有の土器の形や文様、手法などの特徴が見られます。そうした地域や年代の違いを示す一群の土器を「型式」と呼びます……と書いたものの、まだ用語でしか理解できていません💦

今回展示された土器を理解するために、知っておきたい土器型式をご紹介。

〈大木式(だいぎしき)土器〉
仙台湾を中心とする東北地方で広く流行した土器。縄文前期の大木1式~6式、中期終わりの10式に分類されています。

ずらりと並んだ大木式土器

これを書くにあたり、いろいろ検索してみましたが、前期から中期終わりまで長期にわたってつくられていたため、時代によって特徴が違い、ひと言でまとめられませんでした! あえていえば、比較的ずんぐりとした安定感のあるカタチが多い印象です。

〈馬高式土器〉
大木式土器と同じころ、新潟県の信濃川流域でつくられていた土器。ゴージャスな装飾で知られる火焔型土器も含まれます。

特徴は「装飾過多」。だけど、なぜかまどまっていて、アートな雰囲気を漂わせており、「縄文土器といえば、アレ!」ぐらい有名な土器。

火焔新潟県三条市からやってきた火焔型土器

〈関東甲信地域〉
関東甲信地域の土器型式も、会津地方をはじめ、県内の広い範囲で見られるそうです。

①分布圏が接する北関東地方の阿玉台式土器
②分布圏が接しない中部高地にルーツを持つ勝坂式土器。それに伴う有孔鰐付(ゆうこうつばつき)土器が見られるそう。

……有孔鰐付土器ってなんだろう? 検索すればいいだけの話ですが、ちょっと脳のHDが「ギガ不足」を訴えるようになりました。いいや、今回はスルーで。だいたい毎回、こんな感じで「今回はここ(細部)は飛ばそう!」って感じでお勉強しております。

法正尻遺跡の土器の「口縁部装飾」へのこだわり

縄文時代中期中頃、法正尻の土器に大きな影響を与えた大木8a式土器はデザインの隆盛を迎えます。

特に土器の口縁部(ざっくりいうと上部の口の部分)の上端を彩る隆線文様が立体化し、大型の把手がみられるようになります。

隆線文様とは、横向きに粘土紐を貼り付けて、隆起した線を描いた文様のことらしい。こういう用語も頭に入れないと、講演の内容が入ってこない💦

文様はいくつかのパターンに分けられるそうですが、「過剰かつ大胆な構図」を取るため(つまりやりすぎ・盛りすぎってことでしょうか?)、最終的には独自の把手が出来上がっているそう(やっぱり盛りすぎなのか?)

これは特に会津方面で見られる特徴で、他の地域の土器と競っているような印象を受けることもあるとか。

大木式土器には、上部の口縁部と胴部の両方に、隆線で文様を描くという特徴がありますが、法正尻遺跡の土器には、特に「口縁部」の装飾にこだわりが見られるそう。その一方、胴部はシンプルな沈線文や区画文だったりと、装飾的な口縁部とのギャップが大きいのだとか。

それって、もしかして、「口縁部」に力を入れすぎて、胴体はどうでもよくなったり…とか? もしくは制作途中で飽きちゃったとか😁

などと、つくり手の縄文人の気持ちを妄想するとオモシロイ♪

波のような文様が美しい

縄文中期の会津の土器には、大木式をベースに各地域の土器の特徴が入っている!

前述したように、大木8a式土器がつくられる頃、新潟県の信濃川流域では、火焔型土器で有名な馬高式土器が作られるようになります。

馬高式土器は次の2つに大別されます。
①鶏頭把手が象徴的な火焔型土器
 これは鶏の頭みたいな把手がついてるって、ことなのかな?
②波状口縁が特徴的な王冠型土器
 口縁部が波型で、王冠っぽく見えるってことで、OKかな?

これは「鶏頭把手」らしい。下に「火焔型土器」と書いてあるから(見ただけじゃわかりません!)

馬高式土器の特徴は
①隆起した渦巻文様に丸みを帯びた線を沿わせ、文様で空白を埋め尽くす
②縄文をほぼ使わない
→大木式土器と対照的

馬高式はとにかく空白を文様で埋め尽くすのが特徴。制作者は、空白があると埋め尽くしたくなるタイプだったのかもしれません😅

福島県内でも、会津地域や中通り南部で、馬高式の影響を受けた土器が見られるそうですが、そのほとんどが馬高式にアレンジを加えたもの、または大木式と馬高式が融合したもので、新潟方面から直接もたらされたとみられるものは少ないそう。

つまり現地の土器を使っているのではなく、自分たちで真似してつくったってことでしょうか?

前述の「口縁部へのこだわり」と同じく、馬高式をまねつつも「あのムラの土器よりカッコイイ土器をつくってやる!」でアレンジしたのか、馬高式を完コピするだけのスキルと根性がなかったのか。馬高式、装飾が多くて真似るの大変そうだし😅

関東甲信地域の土器型式も、会津地方をはじめ広く県内で見られるそう。
分布圏が接する北関東の阿玉台式土器に加え、分布圏が接しない中部高地にルーツを持つ勝坂式土器、それに伴う有孔鰐付(ゆうこうつばつき)土器などが出土しています。

以下、土器コレクション♪
写真を撮影したはいいものの、どの土器がどこの土器なのか、さっぱりわからん状態になっておりますm(_ _)m

縄文人のイマジネーションをお楽しみください。

デコラティブ♪

縄文の女神とビーナスがやってきた!

ここからは土偶のお話です。
土偶は縄文時代草創期(初期の初期)には、すでにつくられていたようですが、大量につくられるようになるのは、縄文時代中期からのこと。

今回は「縄文のビーナス」(長野県茅野市棚畑遺跡から出土)と「縄文の女神」(山形県山形県舟形町西ノ前遺跡から出土)と2体の国宝土偶が展示されていました(「縄文の女神」はレプリカ展示。本物の展示は8月20日〜9月1日まで)

「縄文のビーナス」は、中期はじめの立像土偶。この時期から縄文時代は「土偶ブーム」が巻き起こります。
「縄文のビーナス」は、頭部以外に文様がなく、比較的シンプルな形ですが、妊娠した女性の特徴がよく表現されており、以降の土偶の造形に影響を与えているそうです。

「縄文のビーナス」は、残念ながら撮影不可! 写真は茅野市のホームページからどうぞ♪


おなじく国宝の「縄文の女神」。
縄文時代中期の土偶で、大きさは日本最大。こちらはレプリカのためか、撮影可能でした。

足がなんだかアニメのロボットっぽい♪

すらりとしたスタイルのよい土偶ですが、頭部のデフォルメなど、謎めいた印象もあります。なんとなく、鎧兜をつけているようにも見えます。

わたしはてっきり、この土偶に腕はないものだと思い込んでいたのですが、展示の説明によると「上半身は両腕を左右に開いた菱形をなし」ているそう。どこが腕なのだろう?

文様が少ない点は「縄文のビーナス」と共通。デフォルメされた頭部、長い足や腰回りに幾何学的文様が見られるのが特徴とのこと。

以下は二本松市の堂平遺跡出土の土偶の一部分。第一印象が「縄文の女神」と似ています。「縄文の女神」の影響を受けているのかも?

動物やヒト形の文様を描いた土器たち

勝坂式土器(関東地方や中部地方の縄文時代中期前半の土器型式)では、土器に動物やヒト形の文様を描くものが見られますが、同じような土器は福島県でも多く出土しているそう。

右の深鉢(土器の一種)はあきらかに「顔」だと思いますが、他はどうなのだろう?左下のカケラは、私には「イカ」に見えてしまいます

「壺を抱いた土偶」の壺に入っているのは、胎児の胞衣(えな=胎盤)ではないかと推察されているそうです。

郡山市の妙音寺遺跡から出土した「顔面把手付き土器」
栃木県岩舟台遺跡の「顔面把手付き土器」

法正尻遺跡から出土したヒスイが示すもの

ムラとムラとの地域間交流は、土器や文様だけでなく、黒曜石やヒスイなど天然資源ももたらしたそうです。

法正尻遺跡の大木8a式の時期からはじまる新しいムラでは、住居群の中央の墓壙からヒスイ製大珠が出土しており、新しいムラの成立に関わったリーダーの墓ではないかともいわれています。

こうしたヒスイ製大珠の“良品”がムラの中央部から出土する事例は、関東・中部地方でもみられるそう。これは「墓制」の共通化? 単なる真似? 

矢祭町のヒスイも大きい!

ここからは、再び土器コレクション♪

こちらは山梨県南アルプス市からやってきた「人体文様付有孔鰐付土器」
なんとなくエジプトの壁画を思い出してしまった
福島県柳津町の「土偶装飾付土器」なんとなく、このシンメトリーな感じもエジプトっぽい
把手や口縁部コレクション? この人面把手は、どこかで見たことがあるなあ(たぶん土偶)

ここからは赤彩をほどこした土器アレコレ。
赤色は何から取られたのでしょうか?

いわき市の大畑貝塚から出土した「赤彩深鉢」

大木式土器と土偶のカケラ

SやUの形を描く大木式土器
狩猟文深鉢

縄文時代後期の法正尻遺跡と、三島町の稲荷原遺跡

法正尻の集落は、縄文時代後期はじめまで継続しますが、ムラの中心部が別な場所に移動した可能性があり、出土品は少ないそうです。
縄文中期の大規模集落が後期前半まで継続するのは、福島県内に見られる傾向とのこと。

この時代の遺跡として注目されるのが、三島町の稲荷原遺跡。後期はじめ頃を中心とする墓が発掘調査され、大量の土器が出土したそう。

内容的には、大木10式に加え、新潟の三十稲場式土器、関東の称名寺式土器、群馬県の土器、関東地方の土器などがみられ、やはりそれぞれの特徴を掛け合わせた土器が目立ち、学芸員の皆さんも「福島県の遺跡なの?」と驚くほどだとか。

三島町の縄文人たちは遠方のムラとも広域的な交流をしていたのか、多数のムラと交流していたため、その中のムラが分布域が違う地域からの土器を三島町に運びこんだのか。

土偶もハート形土偶の各サイズがそろっているそう。

三島町といえば、昨年の「奥会津の縄文」、行きたかったなあ。三島町と柳津町の縄文土器の展示も、もう一度見てみたい。

確かに大・中・小、各種サイズお取り揃え♪

ハート形土偶について、詳しくはコチラ↓

今回は自分の知識不足をヒシヒシと感じながら書きました。
それでも、縄文時代のおおまかな流れはつかめてきました! 今後は土器の型式を覚え、地域間交流について理解を深めていきます!

〈会津若松への旅2024〉はまだまだ続きます♪ 旅というより、〈県立博物館の展示で見たもの、感じたこと〉という感じですが、読んでいただけると幸いです。


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