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【願いの園】第一章 01

いつも通りの帰路。交通量の多さと蝉のせわしない声が夏の暑さをかさしし、地球は私を蒸し焼きにして食べるつもりなのかという見事な戯れ言を発明した辺りで地下に下りた。少し冷房が効き過ぎてるのはいつものこと。最寄り駅に到着した。

 起点だから電車は待機していた。人が少ない時間帯で端の席に座れた。程よい冷房でほてった身体を休ませるようにじっとしていたらアナウンスがあって、あっという間に電車は動き出した。代わり映えしない景色。窓ガラスに冴えない自分の顔が反射している。

約束を交わして一ヵ月が経とうというのに進展はなかった。簡単じゃないと分かってはいたけど、凹む。凹むものは凹む。はあ……。

しばらくして電車は地上に出た。緩やかに上って高架線へと移行する。同時に強い日差しが襲ってきて反射的に目を閉じる。しばらく天気が悪かったから油断していた。
漫画でも読もうかな。そう思ってスマホを出し、漫画アプリを開こうとしたところで、ふと指を止めた。代わりにアルバムを開く。選んだ一枚の写真。

そこには、微笑ながら心から笑ってる私と、河西くんがいる。

つられるようにして笑みがこぼれた。

彼と出会ったのは中一の春、バスケ部に入るにあたり嫌々通わされることになった塾でだった。
個人事業の小さな塾で同学年の生徒は四人しかおらず、私も近い距離感を余儀なくされたけど、運が良いことに苦手な人がおらず、居心地が良いとさえ感じられた。

写真は二ヵ月後の六月、休日の昼過ぎで、晴れていた。

早めに着いて勉強していたら、河西くんが億劫そうにやって来て私の前に座り、申し訳なさそうに、
「なあ藤田、俺と写真撮ってくんない?」
と言い出した。
「なんで?」と訊くと、彼は心底うんざりした様子で、

「母さんが塾だけじゃなく塾生の様子まで教えろってうるさくてさ。人も込みで環境を知りたいんだってさ。頼む!」

と両手を合わせてお願いされた。

「もしかして、河西くんの親ってめんどくさいタイプの人?」

「そーなんだよー。まあ、でも、理由も分かるから断りきれなくてさあ。ためらう気持ちも分かるけど、協力お願い!」

そんな訳の分からない理由でお願いされても……。ただ、河西くんのお願いだ。軽率なノリばかりだけど案外まじめで、彼には塾の誰もが信頼を置いている。私も例に漏れない。

「分かった、いいよ」

「助かる! じゃあ、俺との関係性が見えるのが望ましいから、ツーショットでよろしく」

言いながら河西くんはスマホを出し、そして私の横でかがんだ。……近い。
「まあいいけど……」

関係性が見えればいいんだよね。だったら――真顔を選んだ。
「笑って笑って」
ツッコミ気味に指示された。

「自分で言うのもなんだけど、私あんま笑わなくない?」
「いや、笑ってるよ?」
「そう?」
純度百パーセントの懐疑を向けたけど、河西くんは一切動揺しなかった。

「自分では気づいてないだけだって。他のやつらにも訊いてみろよ、答え同じだから」

「ほんとに?」
「全然信じねーじゃん。なんだよ、笑いたくねーの?」
「そういう訳じゃないけど……」

「じゃあ安心して信じろって」河西くんは、そして胸を張って続けた。「ちなみに、俺が笑かしにいってるときは確実に笑ってるからな」

「凄い自信だね……まぁ、みんなは笑ってるけど」
「つまり俺の場を盛り上げる力――ってかお笑いセンスは間違いない訳だろ?」
「まあ、うん」

「それが証拠ってことさ。もはや芸人顔負けと言っても過言じゃないね」
「それは過言」

「あはははははは。そうだな」彼は大笑いしながら言った。「精進します」
「そうしてください」

「あっ、そうだ! いま最初の目標を決めたよ」
「何にしたの?」

「藤田に笑ってもらうこと」

「なにそれ」
と言いながら、不覚にも顔が綻んでいた。

そしてその瞬間を写真に撮られた。

「笑顔いただき!」
「あ、ちょっと!」

振り向いたときにはギリギリ手の届かないところまで彼は逃げていて、「いい笑顔じゃん」と写真を突き付けた。そして得意げな笑顔で言うのだった。

「だから言っただろ? 藤田は笑顔してるって」


やがて電車の角度が変わった。溜め息でもつきたい気持ちで顔を上げると、山の上に巨大な積乱雲がモクモクとそびえていた。綿菓子に近い。有名なアニメ映画を思い出させる。私の人生を変えてくれた作品だ。

機械仕掛けの島『ネシテニ』を巡って繰り広げられる冒険譚。その島は天空にあり、特殊な装置であんな雲を作って姿を隠している。規模を考えると実際は小さな台風だから、あんなものじゃ済まないんだけど。

それを承知の上で私は毎回思ってしまうのだ――あの雲の中にネシテニがあってほしい、と。我ながら子供じみていて笑ってしまうけど、妄想するだけなら自由だろう。
それに大切な言葉を思い出すきっかけにもしている。想像力は世界を包――。

前触れは無かった。

私は反射的に顔を伏せていた。自分でも理由が分からない。何かに恐れているのは分かる。ブルブルと身体が震えている。でも、そんな単純な言葉では片付けられない複雑な感覚だった。命の危険とか、暴力とか、幽霊とか、そういうのじゃない。いっそそれらが混然一体となっているような。

前方の車両から誰かが移動してきた。

その人は私の正面にどすんと乱暴に座った。脚を大きく開いてるのが見え、関わるのが嫌なタイプだと思って視線を更に下げる。直後、

「こっちを見ろ、藤田ふじた知仍ちよ

傲岸不遜な調子でその人は言った。声に聞き覚えはない。おそらく知り合いではない。それでも名前を知られている。
視線だけをそっと向けた。

見た目は男だ。
シャツから靴まで真っ黒で、フォーマルなファッションなのだけど、手錠を繋いだイカツいチェーンネックレスをしている。筋骨隆々で、髪は刈り上げにして原色の赤に染めている。そして気性の荒そうな顔立ち。対して表情が冷めているのが怖い。

やはり知らない人だ。

「そう警戒をするな」彼は尊大に言ってのける。「オマエに危害を加えるつもりはない」
そして短く溜め息をついて、

「俺ぁ、スサノオだ」

そう名乗った。スサノオと言うと神様の名前だ。何言ってるの、この人。


「少しばかりお願いされてここに来たんだ。世の中なんてなるようになるだけだが、今回は事情が違うからな」

 ちょうど次の駅がまもなくというアナウンスがあった。静かになったのち、彼は鼻をこすってから言った。

「天のその上――姉貴のいるところよりも更に上だ――そこで世界そのものを揺るがす事態が起こってるらしい。こんな面白そう……大変な状況を見逃す訳にはいかないだろう?」
 姉貴は放っておけと言ってたがな、と彼は付け加えた。

 ちょっと何言ってるか分からない。

「しかし」彼は値踏みするような視線を向けてくる。「オマエはどうにも不自由に見えるな。誰も救えそうにない」

 な……っ、はぁ? 突然失礼なこと言うな、この人。

「まあいい。そういう理由わけで伝言だ」

アナウンスが改めてあって、電車が駅に到着した。彼はよっと勢いよく立ち上がり、ポケットから何か取り出して私のそばに置きながら、

「河西祷吏を止めてやってくれ」


そんな言葉を残した。驚いて即座に振り向いたけど、彼はすでに消えていて、窓越しに駅の中を見たけどどこにも居なかった。まるで瞬間移動でもしたように。

ドアが閉まった。

身体の震えが収まっていた。
さりとてあっけにとられたまま、現実逃避でもするように元の姿勢に戻った。彼の居た席に凹みなどは無い。他の乗客も何事も無かったように平然としていた。夢と言っても筋が通る。

ふと思い出し、恐る恐る横を見た。

すぐそばに、拳一つ分の小さな剣があった。なんだか渦に吸い込まれるような感覚で手を伸ばして、拾い上げる。次の瞬間、それは木っ端微塵に砕けて鈍色の粒子となり、手に吸い込まれるようにして消えてしまった。

最後まで読んでいただきありがとうございます