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【願いの園】第一章 00

ザラザラと摩擦のある机の上を氷のように冷えてつるつるした手で撫でるのが習慣になっている。やめた方がいいんだろうけど……と苦笑しつつ、リュックを背負った。


「じゃあね~、知仍ちよ~」と隣の席の友達が手を振って、私は小さく手を振り返しつつ口の動きだけでじゃあねと答えた。

教室を出て顔をしかめる。今は七月上旬であり、その蒸し暑さは午後四時でも衰えない。校門を出てすぐ折り畳みの日傘を差し、私は足早に駅へと向かった。

学校は県内で最も都会な地域にあって寄り道の選択肢は広い。カラオケ、ボーリング、小物を見て回ったり……これが目当てで学校を選ぶ人もいるぐらい。でも多くは放課後も勉学に励み、寄り道するにしても勉強目的が多い(そういった人向けのプロモーションを仕掛けているから必然的に多くなるのだけど)。

私も似たようなもので、放課後はほとんど勉強や読書に費やす。そのためにさっさと帰ると言っても過言じゃない。

ただし、最近に関して言えば別だ。
私には二年近く抱えている問題がある。

それは主に母さんのせいであり、また少なからず父さんのせいであり、そして私自身にも多大な責任がある呪いのようなものだ。

私は自分が怖くなったのだ。

全てが決壊したあの日、その呪いによって、私は躁鬱病を患った。しばらく酷い生活を送っていた。改善しようにも衰弱した脳機能の前に意思など無力だった。
それでもなんとか克服して、そしたら今度は染みついた習慣が立ち塞がった。長く刷り込まれた陰鬱とした思考回路によって憂鬱に囚われ、気力を悉く奪われる。

呪いは深く根を張り、悪臭を振りまいていた。

頑張っても変われない。つらいだけ。だったらこのままでもいい。

しかし、二年になって香坂こうさかレイと出会う。


彼女の第一印象は「近づきがたい」だった。表情が作り物っぽいと言うか、顔からして人形のように感じられる無機質感で――失礼にも程があるんだけど――そのせいか、月の住人と言われても信じてしまいそうな妙な雰囲気を漂わせている。実際に接して見れば、なんてことはない、普通の人間だ。しかしマトモと言っていいか怪しい。

彼女は人間をまるで自分とは違う生物のように見ており、それは実験用のマウスに向ける眼差しが近いと思う。もしくは、宇宙人が地球人を観察してると言ってもいい。そのくせ、ペットを可愛がるような態度――言い換えれば下等生物に向ける独善的な愛情も窺えるから、軽く狂気を感じ取ってしまう。

一方私も、物理学的な見地から人間を人間として見ていない側面があって、あと人間関係を夏場の蚊のごとく煩わしく思っていた。


そんなだから、二人とも、高二の初日からクラスで浮いていた。話しかける人も少なかったし、話が噛み合わなくてみんな立ち去って行った。別に問題はない。無理してまで友達を作る理由が無いし。同様の理由で、同じ余り者だからといって仲良くするつもりもなかった。でもレイは違ったみたいだ。


翌日の放課後、さっさと帰ろうとした私の前に、胡散臭そうな笑顔をたたえてレイが立ち塞がった。不吉な予感がして、詐欺師に目を付けられたかと警戒した。

帰り道を付き纏われ、仕方ないから会話をしてみれば、事前の印象とは違ったけれど、ろくでもない人間なのは間違っていなかった。しかし、どうにも憎めない。むしろ気楽なぐらいで、自分でも不思議ながら一緒にいるようになった。

しばらくして、レイが漫画を読んでいるという驚愕の事実が発覚し、それも趣味が似ていて、これが決定打だったと思う。

要するに、居場所ができた。


鬱蒼とした森に木漏れ日が見られるようにして、二ヵ月ぐらい経った頃には精神的に充分な回復が見られ、去年の憂鬱にちょっとした喪失感を覚えたぐらいに余裕ができていた。

残すは呪い本体だけだった。

しかし相手は中三から付き合ってきた問題であり、すっかりなじんでいる。その解決はもはや新しい自分になるような大胆な行為だ。

そう簡単には踏ん切りがつかなかった。


それは六月半ばのことだった、食堂で向かい合って昼ご飯を食べていたとき、レイがふとこんなことを言ってきた。

「他者とはなんだと思う?」

質問の意図が読めず私は難しい顔で箸を止めた。
レイは構うことなく一方的に続けた。

「理解できない何か、思い通りにならない何か、否定してくる何か、不愉快な何か、無関心な何か、無関係な何か……私ではない何かが絶対的にそこにいるよね」

「自然なんかは言うまでもないだろうけど、例えば、私が○○だと言う。すると誰かがそれを否定するだろうね。そしてその否定を誰かが否定して、更にそれを否定する人が現れ、また否定する誰かが現れ……そうやって他者はエンドレスに発生する。否定する人を否定した人は味方かもしれないけど、第三の立場かもしれない。いずれにせよ、他者はとめどない」

「つまり無限の他者があって、無限に煩わしい。でも、考えてみれば、それは絶対的に悪いことかな?」

「精神科医であるフロイト先生はこう言ったらしい、『否定と出会うことが出発点である』。それを踏まえると、要するに、他者とは無限の出発点を与えてくれる存在と言える訳だよ。あとはどこから踏み出し、どう糧にするか」

そんな哲学みたいなことを言われても困るだけ――と思いつつ、

「知仍はどうする?」

その煽りに私は見事なまでに揺らいでしまった。彼女の顔を見れば答えを見透かしているようであり、甚だ腹立たしい。時期を見計らっていたと疑うレベルだ。

分かったよ。
私は答えた。

レイに言いくるめられた感じが不快だけど、解決を考えていたのは間違いない。

それに、河西くんのことを思い出した。
堂々と彼に会うためにも、このままじゃいけない。

私は解決することを友達と約束した。


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