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【願いの園】第二章 06(1)

ちょうどサスペンスドラマで犯人が追い詰められるような崖に降り立った。いや、隠岐の摩天崖のように鋭く突き出て切り立っていると言った方がいいのかな。とにかく、先端にいる。下が巨大な湖になっていて、数百メートルはある。落ちたら死ぬ高さだ。

森の境界線は崖から随分と離れていて、仮にムカデの登場に狼狽してしまっても落ち着きを取り戻せるだけの余裕はありそうだ。

「きっつ」

と悪態をついて吉岡さんは勢いよく手を離す。腕の負担は大きかったと思う。重力の影響は弱められても私を抱き寄せておくには力が必要だし、結構な距離を移動したから。

「お疲れ様」
振り返りながら労いの言葉をかけた。

「ホント疲れた。背中筋肉痛になりそう」
言いながら疲れを取るように腕をぐるぐる回す吉岡さん。その視線が私の胸元に向かう。

「にしても、それってほんとにネシテニの石なんだね。びっくりした」

「一応ね」これについては話を広げたくない。「とりあえず座って休もう」

有無を言わさぬようすぐさまその場に座ろうとしたところ、「そだね」と一言あって、彼女はまさかの崖のふちに足を投げ出して腰かけた。そして手招き。

「藤田さんもこっちこっち。景色いいよ」

景色がいいのは認める。広大な森は宝石のようにきらきらと輝いていて、間違いなく絶景。綺麗だ。壮観だ。

しかし、ここからでも見える。ちゃんと見渡せる。そこに座るのはありえない。
実にありえない。

吉岡さんはニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。
「まさか藤田さんがここまでビビリだとは」

「ビビッてはない。安全を確保してるだけ」

「それを人はビビリと言うんだよ」

「〝この場合において〟と条件付けしたとしても、ビビリは言い過ぎだね」

「その屁理屈こねる感じは藤田さんらしいけどね」

私の印象酷いな。いや、吉岡さんならそう思っても当然か。

つい口をへの字に曲げてしまうものの、仕方ない、慎重な動作と丁寧な注意でやけくそ気味に腰を下ろした。「おお」と彼女は喜び混じりに感嘆をこぼすが、すでに後悔している。昨日私が立っていた崖よりは間違いなく低いけど、やっぱこんなことするもんじゃない。充分に休憩したらすぐに移動しよう。

「今言うことじゃないと思うけどさ」

突然、改まったように彼女は言った。

「私、藤田さんのことずっと嫌いだったんだよね」

確かに今じゃないと思う。冷静にツッコみかけたけどそれは飲み込んで。

「知ってる」
あっけらかんと答えた。

「でも、今は少し違う」

そんなことを言って彼女はこちらに向いた。横目で確認すると、とても真剣な眼差しが向けられていた。深刻と言った方がいいかもしれない。少し憂いを帯びていた。

「ごめんけど、親から家の事情を聞いたんだ」

一瞬、胸が締め付けられるようで。
「……そっか」
なるほど、同情してくれたん――

「それで思ったよ、ざまあみろって」

「ああ、そっちなんだ」
勘違いしちゃったよ。恥ずかしい。

「我ながら性格が悪いと思うけど、やっぱ嫌いだったし、私に腹いせしやがってって思った」

「それは……ごめん」
私は素直に頭を下げた。

「ただ、私も考え方を変えなくちゃいけなくなった」

彼女は前を向く。感情の読めない曖昧な表情で遠くを見る。

「高校でできた友達に、藤田さんと似た考えを持つやつがいるんだ。ほとんど真逆な人となりではあるんだけど、それでも『人は構造に囚われている』って言うんだよ」

ほう。

「色々言ってたけど、一番大きいのは無自覚の存在だってさ。無自覚を容認した時点で不自由を認めることになるって。でも、そのうえで、『自由に選んだと勘違いできるのも人間の特権だ』とか言うんだけどさ」

そこが藤田さんとと違うよね、と彼女は小さく笑った。

「あいつ、こんなことも言ってたんだ――『俺も人をカテゴライズすることがあるけど、それは自分の理解できる範囲に落とし込むためのツールとしてだよ。まずは当てはめて、当たりを付けて、そこから調整する。じゃないと怖くて喋れないから』――だってさ」

今の私なら、その人とは仲良くなれそうだ。
ちょっとレイに似た部分も感じるし。

「それでも仲良いんだね」
「うん。大事な友達」

だけど、と言って、彼女の雰囲気が張りつめていく。
短い吐息を一つして。

「死んだんだ、あいつ」

静かな、しかしあっけらかんとして。

「一ヵ月前、自殺しようとした親を助けて、代わりに死んじゃった」

そう言った。
心がぐちゃっとかき回されるような錯覚をおぼえる。まさか、そんな……。

一ヵ月前――
まだ一ヵ月しか経っていない。

「こんな言い方良くないと思うけど、子供の方が大人の命より重いでしょ? あいつは自己犠牲を厭わないようなやつだったから、本人は満足してるだろうけど、こんなことなら否定しておけば良かった。自由にさせちゃいけなかった」

明るさを維持したまま彼女は言う。
もう充分悲しんだからと言わんばかりの気丈さがひしひしと伝わってきた。

……自由の否定か。
みんな違ってみんな良いと素朴に信じていた吉岡さんにとって、これは二重でつらい出来事になったと言える。

私とは少し形は違うけど、似た経験をしたから。だから私にこんな話を……。

「こんなこと、現実の藤田さんに言わなきゃ意味ないんだけどな……」

はあと溜め息をついて、彼女は自嘲的に力無く猫背になる。

……どうしよう。
何か気の利いたことでも言った方がいいのか。
それとも何も言わない方がいいのか。

たぶん後者だと思って、私は前を向く。

「人間なんて、不自由なぐらいに多様的だよ」

私は空虚に言った。
感情を排したつもりだけど、それがかえって嫌味っぽく聞こえたかもしれない。もしくは排除しきれないぐらいべっとり皮肉がついていたかもしれない。
吉岡さんはあははと呆れたように笑った。

「シニカルなところが藤田さんらしいや」

愉快そうに聞こえたのは勘違いじゃないと思う。

「私は……藤田さんにそう言ってほしかったのかな」

夢の中だから。
きっとそんな風に思ったんだろう。

これ以上の言葉は不要。
と判断してひそかに息をつく。

視界には無尽蔵に広がる森があって、彼女の悩みも、それを知って少し重たい気持ちの私も、この森にはなんの影響も持たないようだった。変わらない。何も変わらない。

そりゃ意思とか気持ちで世界が変わるなら、そんなの超能力に他ならないし、当たり前と言えば当たり前だ。それに何より、自然の中で生き物は常に死んでいる。死ぬのが普通で、それありきで成立するのが自然というものだ。復元力を超える攪乱が起きない限り、ずっと。

ただ、その亡くなったという友達は、比較的珍しい死を迎えたと言える。
それは、倫理的で自由で幸福な終わり方。

せめて私は、その人に正しかったと言ってあげたい。

社会的動物であり、虚構を扱えるという不思議な特技を持ち、他の種より無限に膨大な選択肢を有するという意味で限りなく自由に近い、ヒトという種として、正しく死んだのだと。

ふと。
目の前に妖精がやって来た。

最後まで読んでいただきありがとうございます