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【願いの園】第二章 01

アラームがけたたましく鳴っている。
寝惚け眼には見慣れた天井。朝だった。

なんだか凄く疲れる夢を見た気がする。凄くだるい。二度寝したい。早く夏休みになればいいのに。怠け者な私とは対照的に枕元ではスマホが一生懸命仕事しており、うーんとうめきながらガシッと掴んでアラームを止めた。入れ替わるように蝉の声が聞こえてきて、起きなきゃなぁと。ふわあ、とあくびしながら部屋を出る。

午前七時前であり、汗をかく手前の暑さだった。
それにしてもなんの夢を見たんだろう。思い出さなきゃいけない気がするけど全然思い出せない。

もどかしく思いながら洗面所に入ろうとしたとき、すぐそこ、リビングのドアを開けて父さんが出てきた。私は驚いて固まってしまう。一方父さんは不快そうに一瞥だけ寄越して何食わぬ顔で歩いていった。

私は不意に、本当になぜか分からないけど、声を掛けようと思った。
でもいつも通り声は出なくて。

そのときだった。急に夢の内容がフラッシュバックした。河西くんと島を旅して、声が出せるようになって、『願いの園』という場所で働くことになって。

なんで忘れてたんだろう。驚愕混じりの後悔が脳みそを埋め尽くす。真っ暗闇に落ちたような錯覚にほぼ思考停止へ陥って。

バタンとドアが閉まる音がして我に返る。父さんの姿はもうなかった。
沈黙が落ちている。それは慣れたものだったけど、今は無性に打ち破りたかった。

……意識的に声出さないとダメなんだっけ。

大きく深呼吸して、今度は誰に向けるでもなく「いってらっしゃい」と言ってみた。
出たのはかすれ声。慎重に耳を傾けてもらわないと言葉と認識してもらえそうにない酷い音だった。付随して喉に痛みと疲れ。

ちょっとずつ慣らしていくしかないか。
私は気楽にそう思うのだった。


朝のホームルームが始まる前、そのことを文面にしてレイに伝えた。
流石に『願いの園』の話は荒唐無稽過ぎて取り合ってもらえないと思ったので、家の近所で河西くんと偶然逢い、懐かしい話から色々あったことにした。
渡したスマホから目を離し、レイは興味深そうな表情を浮かべる。

「ふーんふーんふーん、ひとまず良かったじゃん。おめでとう、新しい世界だね」

いつも通りの他人事めいた調子で、それでもちゃんと祝ってくれているようだった。
ありがとうと大きく頷きつつ、スマホを返してもらった。

「しかし、そんな素敵な出会いがあるなんて、神様は見てくれてるんだねえ」

冗談めかして言うレイ。
いや皮肉かな。そばにいて私の日頃の行いが良いなんて思う訳がない。あと、それとは別の意味の皮肉が、神様の存在を肯定した語り口から窺えたけど、そういえば、トメちゃんが言っていた創造神という存在を、私はどう処理すればいいんだろう。

『レイって神様信じてるの?』

純粋な疑問の顔をして尋ねてみた。

「信じてるけど信じてないね」
適当な返事だった。
それでも質問を続けてみる。

『仮にいるとして、どんな姿だと思うの?』
「どこの神様の話?」
『レイが思うやつ』

そりゃそうだ、と笑い、「これは私にしては珍しく真面目な話なんだけど」と前置きして、レイは指を三本立てた。

「大きく三つある。

一つ目、ドロドロとした混沌状態。実体が不安定と言った方が……これも抽象的だね、例えるなら水分の多い泥だね。指からこぼれ落ちるようなやつ。

二つ目、神様は宿るものだから形は無い。まさに霊体って感じだね。

三つ目、自然の姿をしてる。山でも雲でも動植物でもいいよ。もちろん人間を含む。

ってな感じかな」

本当に珍しく真面目な様子で語るレイだった。ちょっと驚いてる。
きょとんとする私に、レイは意味ありげにうっすら笑った。

「だから存外、人間の姿でそこら辺にいるんじゃないかな」

恐ろしいことを言う。
脳裏に昨日のあの男が浮かんできて、すぐに振り払った。

『二つ目、三つ目は理解できた。でも一つ目がよく分からない……』
小首を傾げてみせると。
レイはいつものお面のような固い笑顔で無味乾燥に言った。

「知仍の考える神様のことだよ。つまりシステムだね」

なるほど。

ガラガラと勢いよくドアを開けて担任教師がやってきた。生徒たちがガヤガヤと着席していく。私も話を切り上げて前を向いた。そのとき耳元にレイが一言ささやいた。その行為にも驚いたけど、内容の方に大いにびっくりして、勢いよく振り向く。

そこには悪い笑みがあった。まさに悪ガキといった腹立たしい表情である。文句を言ってやろうと思ったけど、「ホームルーム始めまーす」と先生が言って、渋々諦めて前を向いた。

まったく。

「河西くんに『また会おう』ってメッセージ送ったの?」

余計なお世話だ。


今日で期末試験の返却という特別授業が終わり、来週一週間の通常授業を乗り越えればついに夏休みだ。逆に言えばあと一週間もある。めんどくさいなぁと適当にホームルームを聞いていたら放課後になった。気づけばいつものくせで机を撫でていて、苦笑しながら立ち上がる。

「一緒に帰ろう」

スクールバッグを肩に掛けながらレイが言った。いつもは自習して帰るのに珍しい、と思ってすぐ、理由を察した。今朝のことだ。

悩む必要はない。いいよと頷いて、リュックを背負った。

レイとは駅までは一緒に帰れる。そこから電車と路面電車で別方向だ。彼女は元々出雲に住んでいて、高校進学のタイミングで親が転勤することになったため、今はこの近くに住んでいる。行ったことはないけど。

「で、どうだった?」

自分から仕掛けておいて興味無さそうな調子で訊いてくるレイである。
今日も今日とて蒸し暑い午後四時だけど、彼女といると少し涼しく感じるから不思議だ。

『既読すらついてない』

スマホを見せると、レイは大袈裟に残念そうな顔を浮かべた。
「あちゃあ、せっかく勇気出したのにねえ」

『想定内だから問題ない』

「言って、残念そうな顔してるよ?」

誤魔化しきれなかったか……。

『イチイチ言わなくていい』

あははごめんごめんとレイは悪く思ってなさそうに笑った。

「しかし知仍は、中学の話となると、河西くん関連しかしないよね」
愉快げに言うレイ。

『別にそんなことはないと思うけど。バスケとか』

「割合を考えてごらん」

自覚がないけど、そんなに?
でも……まあ。

『ろくな思い出がないからだと思う。親もそうだけど、私自身ただの嫌なやつだったから』

「人間って簡単に変われないよね」
 イタズラな笑みだ。
『類は友を呼ぶらしいよ』
 そのままの笑みをお返しした。

「知仍のそういうところが好きだよ、私は」

『悲しいことに私もそれは嫌いじゃないんだよね』

あははっ、と愉快そうにレイは笑った。
私もつられて少し微苦笑してしまう。

やっぱりレイといると気が楽だ。この世界の全員がレイや河西くんみたいになればいいのに。
なんてね。本当にそうなったら社会は回らなくなる。不自由を感じてもこればかりは仕方ない。

やがてレイと別れて、私は一人で電車に乗った。
今日も今日とてガラガラの電車の端っこにぼんやりと座る。

……中学時代か。

私なんかと仲良くしてくれた唯一の人が小林さんだ。彼女には散々迷惑をかけた。トゲトゲしていた私を常に受け流してくれて、私が学校に行けなくなった後も心配してくれていた。本当に頭が上がらない。高校に上がると同時に疎遠になって、もう連絡は取っていない。小林さんにとって間違いなく幸せな選択だ。

迷惑をかけたと言えば――それを言うと関わってきたほとんどの人が当てはまってしまうけど――特に迷惑をかけたと限定するなら、あともう一人いる。

母さんが比較対象にしたあの人だ。

彼女は何も悪くないのについキツく当たってしまった。特にあのとき――私の考え方を正面から正々堂々否定してきたときには思いっきりカウンターパンチを食らわせてしまい、あれは本当に反省している。

ああ、黒歴史だ。
自業自得に悶絶してしまう。

なんとか気持ちを持ち直して、無事帰宅。またうっかり掘り返してしまいそうだったから本でも読んで気を紛らわせることにした。
昨日と同じ本を開いたとき、ふと、思い出した。

今日はあの男に会わなかった。

別に二度と会わなくても問題ないんだけど。なんとなく気になった。

最後まで読んでいただきありがとうございます