私の人生、こんなはずじゃなかった…#my story1
「契約更新はできない」
リーマンショック直後
妊娠がわかった途端に告げられた
上司からの一言。
そして、とても事務的に
”自己都合退社” に◯をしたことを
今もはっきりと覚えています。
2009年6月
私は無職のまま待望の第一子を出産しました。
とてもあたたかい陽の光が降り注ぐ病室で
私たち夫婦の元に新しい家族が誕生した日。
今思えばそれは
私の長いモヤモヤ期の始まりの日でした。
ドラマティックなんてない
ファッションコンサルタントの池田絹代です。
この記事を見つけて下さりありがとうございます。
名のある会社を渡り歩いて
大好きな仕事中心の生活から妊娠を機に生活は一変。
いつしか私は自分の感情を置き去りにして
生活するためだけに仕事をしていました。
周りから見たらごくごく普通の「幸せ」街道を
歩んできたように見られてもおかしくない。
キラキラしてないし
ドラマティックな展開もない。
でも、そんな私が
本当の「好き」を見つけて起業することになるとは ‼
これまで辛い!苦しい!大変!
って自分のプライベートをさらけ出すことは
美しいことじゃないと思っていました。
私にもできたから
あなたにもできる!
そんなメッセージを込めて
そして私を支えてくれる家族や友達
仲間やクライアント様に感謝を込めて
はじめて語るmy story。
今だからようやく素直に
「私」を伝えられる気がします。
お付き合いいただけたら嬉しいです。
天才は存在する
私が社会人生活をスタートしたのは
パリコレ常連のアパレルメーカーでした。
海外営業 ⇒ マーチャンダイザー
というブランドの中心的存在で翻弄した20代。
※マーチャンダイザーとは...
当時の会社内ではデザイナーとともに商品計画を担当
ブランドのまとめ役だった私の仕事は
商品計画から予算管理、ビジュアルカタログ製作などなど。
日々、各部署と連動することで
チームが一丸となっていく感覚が嬉しくて
目の下にクマ作りながらも無我夢中でした。
若さもあって、ずっと駆け抜けていたような
それでいてキラキラした日々でした。
世界的有名デザイナーが
一枚の布からものの見事に美しいデザインを創造し、服というカタチに変えていく。
まるでマジックのようで
まぎれもなく本物のクリエイションが
目の前で色鮮やかに繰り広げられていました。
独自の素材と製法で
軽くて着心地が良く、簡単ケアで便利。
美しいデザインはもちろんのこと
高い機能性を併せ持った服はお客様のことを一番に考えられたデザイナーの想いが宿るもの。
デザイナーの想いが宿るもの。
それらは言うまでもなく毎シーズン世に出ると
瞬く間に世界中のお客様を魅了していきました。
「天才は存在するんだ。」
天才の頭の中はわからないことだらけ。
ただ、この時代に学んだことは
本物の最高級クリエイションとブランディング。
そしてチーム力と伝えることの楽しさ。
美しく、上質な素晴らしいものに触れ
この世にある美しいものを美しいと言える
そして伝えることが私の喜びであり、原動力でした。
ここでの素晴らしい学びは、今でも私の中の深いところの一番太い根っことなって私を支えてくれています。
凸凹30代のはじまり
そして楽しみにしていた30代突入。
それを機に新しい挑戦がしてみたくなって意気揚々と異業界に転職。
さらに様々な業界に身を置き、ヒット商品に恵まれ、たくさんの有形商品のブランディングに携わってきました。
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日本有数のアパレルメーカー(海外営業、MD)
⇒「オシャレ家電」メーカー(営業)
⇒ 世界初出店のMoMA Design Store Tokyo(チーフバイヤー)
⇒ 広告の企画/デザイン会社(キャスティング業務 )
⇒ インポートベビー雑貨の日本代理店(バイヤー兼営業課長)
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この5社を渡り歩いてきた間に
私は結婚、妊娠、出産を経験しました。
冒頭に書いた
「契約更新はできない」
2008年のリーマンショック直後
世の中がザワつく最中に妊娠がわかり
その翌月に告げられた課長からの一言。
そんな予感もよぎりつつも
子どもを授かる喜びの方が大きくて
なんとかなるでしょ!って
それからの生活を完全に甘く見ていました。
出産という女性として最大のライフイベントに
喜びと不安を持ちつつ迎えたその日。
生みの苦しみというものを存分に味わい
小さな小さなわが子を腕に抱いたとき
そのへんにある言葉では
表現しようもない喜びの
もっと先にあるような感情が湧き出てきました。
泣き虫の私より先に号泣していた旦那さんを見て
泣こうにも泣けずに爆笑していました。
女性として、この上ない「幸せ」な光景。
でもここからが長く続くモヤモヤ期に入っていくのです。
ポイントゼロ
ニュースでは知っていた待機児童問題。
保育園に入るためには
両親が働いていることが必須。
我が家は主人のみのシングル収入で
無職の私はポイント“ゼロ”。
働いていない=“ゼロ”
カウントすらされないのです。
仕事大好きだったのに、妊娠きっかけで職を失い
大きなお腹を携えて転職なんてできるわけない。
働きたくても働けない状況。
甘く見ていた夫婦の元で
わが子は2年間待機児童となったのです。
ごく自然な流れのように。
ブラック企業なんて言葉がまだ存在しなかった頃
夜中まで働くことが普通だった私の生活は
いきなり赤ちゃんと未知の世界で二人おこもり生活になったのです。
旦那さんは海外出張が多くワンオペ状態。
そして友達はみんな働いてるので話し相手もいない。
友だちからも、社会からも
疎外されたようで【 孤独 】そのものでした。
劣等感、罪悪感の「ちゃんと」
泣く、飲む、寝るだけの
赤ちゃんに放浪されて寝不足の日々。
でも働いていない劣等感や罪悪感から
「ちゃんと」家事しなきゃ、
「ちゃんと」育児しなきゃ、
「ちゃんと」全部ウチのことは私がやらなきゃ...
すべてを「ちゃんと」で自分を苦しめていました。
普段は大雑把な私が
はじめての育児でものすごく神経質になって
「ちゃんと」3時間置きのミルク時間を守り
「ちゃんと」なにもかも消毒しまくって
「ちゃんと」赤ちゃんの身の回りを清潔にキープ。
赤ちゃんとの生活は昼夜逆転当たり前。
寝不足も加算されて離れるとすぐ泣く息子にイライラしっぱなし。
トイレに行くのも、お風呂で自分の身体を洗うのも、ヒカリの速さ。
息子がやっと寝た~ってときは抜き足差し足で移動する毎日でした。
こんなはずじゃなかった。。。
リーマンショック後で経済全体が傾いている中で
我が家も余裕があるとは言えない状況でした。
少しでも無駄遣いしないように、とことん節約生活。
毎週土曜午後5時、
近所の八百屋さんで行われるたたき売り。
1週間分の野菜を超激安でゲット。
常連様の60~70代のオバさまたちがひしめき合う狭い店内。唯一黒髪の若い私はその中にまみれて野菜を奪い合う。
たたき売りのゴングが鳴った瞬間、腰が曲がったオバさまも我先に野菜を奪うためなら腰も伸びる伸びる!(いくつになっても女性は逞しすぎる!)
「今日もこんなに野菜たくさんゲットしたよー!」って笑顔で帰宅。
両腕に感じる野菜の重さより
何とも言えない虚しさの方が重く私にのしかかり
毎週坂道をとぼとぼ歩いていました。
愛用していたデパートコスメは
ドラッグストアの300円化粧水に変わり…。
肌もココロもガサガサでした。
私が思い描いていた新しい家族の生活は
こんなはずじゃなかった…。
想像と全然違う…。
そして、私の息子はいつしか
笑わない赤ちゃんになっていました。
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