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卵子凍結の自己注射に震えていたはずなのに得意になってしまった

卵子凍結。個人的に今年前半の一大プロジェクトだった。

多くの病院では卵子凍結の年齢制限を39歳にしていて、今年四十路を迎える前に滑り込みでやることにした。3回トライして2回採取し、約5ヶ月間にわたる卵子育成の日々は無事終わりを告げた。

大変なことはいろいろあったが、最初の難関の1つが自己注射だった。久々に、物理的に怖いと感じたのだ。

普段、私は注射を怖いと思わない。注射の機会があるといつも針を凝視し、刺さっていく針をウムウムとうなずきながら確認する。そんな余裕をかましているのに、自分で刺すとなると、なんだこの気持ちは。怖すぎる。針が自分の肌に触れて、チュッと皮膚の中に入る、その瞬間が怖い。

でも納得がいかない。たまに毛穴が詰まったりすると毛抜きで両側をギューッとしたり、眉切りばさみでプチっとしたり、それはできるのに。若かりし学生時代のニキビはコンパスをプチっと刺ししていた時期もあった。コンパスよりずっと華奢な注射針の方が、なぜ怖いのか。

答えは出ない。わかるわけがない。子ども時代のトラウマと自己注射への恐怖が繋がって、なるほど、となるころには、自己注射のタイミングをとうにすぎているはずだ。分析を待つことはできない。

私にはパートナーがいない。普段「あ〜誰かいないかな」というのは日常だが、この時ほどパートナーの助けが欲しいと思ったことはない。自己注射を助けてほしい。不純な動機かもしれないが、無防備なお腹をさらして針を刺すときの助けなんて、求められるのは想像上のパートナーしかいない。

自己注射を見届けてもらうために一夜限りの相手を探す作戦も考えた。一夜でなくてもいいが、短期でいいのだ。そう、違うアプローチで人と会ってみるのもいいはずだ。

しかし、自己注射を見届けてもらうところまで漕ぎ着けるには、まず話しがちゃんとできる相手であり、普通に一夜限りのことが起こっても良いくらいタイプの相手でないといけない。つまり普通のお相手探しと同じような条件だという考えに行き付き、今までのウン年を振り返った。消耗した。やめだ、この考え、やめ!

じゃあ友達は?となるだろう。お腹に針を刺すのを見届けてくれるかもしれない友達もかろうじて2人思い浮かんだ。しかし1人は遠方だし、もう1人は仕事、子育て、ボランティアで駆け回るスーパー人間だ。「自己注射を見届けておくれよ」なんて舐めたこと言えない。

いや、言ってもよかったのか。わからない。遠方の友人にはビデオ通話で見届けてもらえばよかったかもしれないし、スーパー人間ならすでに超稼働しているから、舐めた人間が1人挟まるくらい気にならないかもしれない。まあとにかく、相談しなかった。

そんなこんなで、初めての自己注射の日になった。

ちなみに卵子凍結のプロセスでは、個々人に薬摂取の予定表が組まれる。体質に合った飲み薬や注射を決められた日時に摂取する必要があるのだ。

いつもの部屋で独り注射器を握り締め、私は目を閉じた。今、この時。やるしかない。

年明けからまだ日が浅かったその日、私は正月に実家で見た時代劇の切腹シーンを思い出していた。

あれは、新撰組の話だったか。

名前を忘れてしまったが、切腹の様子を見せつけるようにしていたあの侍の形相。脳裏に浮かぶ、あの侍の眼。

現実に戻れ、戻るんだ。

刺す時には直角に刺してくださいね、と言われたのを思い出した。つまり、繊細な角度調整とかそういうのはいらないのだ。これは適度に勢いをつけて、サクッとやるしかない。

覚悟を決めた。眼を開き、お腹のぷよぷよした部分をつまむ。握りしめた注射をスッと直角に刺した。何センチかある針がすべて、脂肪の中に吸い込まれていく。

うん?と思った。全然痛くない。

拍子抜けした私は眼を見開き、親指に力をこめて注射液を体内に注入した。グググと押すごとに、液体が周囲の組織を鈍く圧迫する感覚がある。しかし痛くはない。

全部注入し終えたら、刺した状態で10秒待ってくださいね、と言われたのを思い出す。

静かな気持ちで10数える。

そして変わらず独りの部屋で、私は腹から針をスッと取り出した。

自己注射が怖い理由なんて、わかるわけがない。そう思っていたが、単純にやったことがなくて見当がつかないから怖かったのかなと今なら思う。なぜなら初回以降はまったく怖くなくなったからだ。

私はそれから毎日「さっ今日も注射注射」という感じでちゃきちゃきと自己注射を行い、病院で自己注射した際には看護師さんに「もうすっかり慣れて!」と褒められた(多分みんなに言ってるかもしれないがいいのだ)。

もう怖くない。しかも得意になった。こんなふうに、すべてが試してみたらそんなに怖くなかった、なんて感じだといいのにな。振り返ると大したことではなくなっている。

あの時一夜限りの相手を探さなくて本当によかった。そっちがこじれて震えていた可能性だって大いにある。でも友達に頼るのはしてみてもよかったかな。もう自己注射は怖くないけど、次に未知の恐怖に震える時には相談してみようかな。

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