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幼少期、すごろくの思い出

 ぼくがまだ幼稚園児だった頃、お正月の何かの付録にワンピースすごろくが付いてきた。それがぼくの人生で初めて遊んだすごろくであったと同時に、すごろくと縁深い人生の始まりでもあった。
 そのすごろくは所詮は付録らしいペラッペラな作りにふさわしく、ゲーム性ではなくエンタメ性に全振りした作品だった。そのすごろくでしこたま遊び、「このマスに止まった人は、自分の名前を逆から読み上げる!」を経験しすぎたことによって自分の名前の逆さ読みを暗記したりしたぼくは、やがて児童ホームで人生ゲームなる存在に遭遇し、その(付録程度のすごろくに比べた際の)圧倒的なスケール感に魅入られることになる。そしてその後、たまに帰省してきた孫に何か買ってやろうという祖父の心に擦り寄りまくって、おもちゃ屋で念願の人生ゲームを買ってもらったりするのだ。
 そこで買ってもらった記念すべき作品が、この「人生ゲームEX」だった。

(以下、全ての画像は拾い物)

 なんとこのゲームには、平成ど真ん中の時代の作品ながら「付属の別面を上から重ねることで、2種類のステージを楽しめる」というなかなか画期的な機能が搭載されている。表裏で2面あったり独立した面が2つあるすごろくなら珍しくもないけれど、重ねることでステージが変化する作りは令和基準でもそこそこレアな代物ではないだろうか。
 しかも本作は、ルーレット部分だけではなく山や橋の部分まで別面にすっぽりと収まりマス目ごと流用されるという、洒落た機能美まで成立させている。紙幣もなんだかオシャレだし、当時の子どもの心はそれはもう踊りまくりだった。
 とはいえ、児童ホームで初めて人生ゲームの存在を知った歳の子どもなんて足し算引き算もまともに出来やしないので、当時のゲーム中の計算は全て親に任せていた記憶がある。自分の所持金もなんとなくしか分からず、マス目に書いてある日本語は半端にしか理解できず、保険も投資も約束手形も、ゲーム中の意味ならともかく現実的な意味の方はよく分からない。そんな状態で遊んでいたのだけれど、子どもだった頃の自分にとってはそれでもすごく楽しかったことを覚えている。
 ワンピースすごろく同様、人生ゲームEXもしこたま遊んだ。それがどれだけのことだったのかというと、やはり最も分かりやすいエピソードは「遊びすぎて壊れた話」になるのかと思う。
 正月付録だったワンピースすごろくはその作りの安さからあわや盤面が千切れ飛びそうになるほど繰り返し遊ばれ耐久性を試されたけれど、人生ゲームEXは盤面に関しては無敵の丈夫さを誇る一方で、小道具やパッケージの方がやられていった。
 パッケージの四隅がちぎれて開いてしまい蓋の役割を果たせなくなったので、母が毎度ビニールテープで縛り合わせることで収納していた。紙幣は出番の多い物(金額が低い順)からぐしゃぐしゃになって行き、紙幣立ての箱はくたびれたクッションのように起き上がらなくなった。そしてそうなる頃にはぼくも成長して、足し算引き算くらいはちゃんとできるようになっていた。
 しかしそれだけ長い間遊んでいれば、いくらお気に入りのゲームでも飽きが出てくる。そんな折にちょうど我が家にプレステ2が導入されて、父親おすすめの桃鉄がぼくの心に大ヒットし、我が家に空前のデジタルすごろくブームが訪れた。……つまり、それは人生ゲームEXを過去の物とするには十分な出来事だったのだ。
 そんな流れの中、小学校生活も半ばにさしかかったぼくは、ある日すごろくの自作を試みた。桃鉄のようなデジタルすごろくのカロリーの高さに少々疲れていたのだろうか? 動機の起こりはもう忘れてしまったけれど、かつて自分を虜にしたワンピースすごろくのような「小道具のないアナログすごろく」なら自分にも作れるはずだと思い立った日があって、コピー用紙と鉛筆を手に、意気揚々とフリーハンドでマス目を引き始めたのだ。
 何マス戻るとか進むとか一回休みとか、誰かと場所を入れ替えるとか振り出しに戻るとかジャンケンで勝った人に有利なことが起こるとか、定番のネタを思いつく限りマス目の中に書き込んでいく。サイコロは家にあったし、駒は鉛筆のキャップやおはじきを使えばよかった。そういうわけで完成したすごろくをさっそく母に見せて遊んでみる。……が、なんだか全然パッとしなかった。
 こじんまりとしすぎているのだろうか? おそらくそう思ったのだろう当時のぼくは、次なる改善作として、コピー用紙をセロハンテープで繋ぎ合わせた大作を作ろうと試みる。一度落ちるとなかなか抜け出せない無限ループゾーンを作ってみたり、サイコロの出目で分岐する分かれ道を作ってみたり、思いつく限りのことはやってみた。……が、出来はやっぱりパッとしない。
 どうもすごろくというのは、素人が作って面白くなる物ではないらしいぞ? と、ぼくはそのあたりで気づき始めた。そして自作すごろくの改善は諦めて、世間には五万とあるはずの新しくて面白いすごろくを求めた。
 するとちょうどその頃、世間でのブームが終わりかけていたところに安売りでもされていたのか、突如としてまたしても祖父にすごろくを買ってもらえた。それがこの「たまごっち星ツアーゲーム」だった。

 よく見てもらえれば分かる通り、このゲームには「ゴール」の概念がない。回り道状の分岐を経ながらも、マス目はきっちりループしている。……つまりこれがぼくの初めて触れた「ゴールのない形式のすごろく」だった。
 はっきりとしたゴールマスが存在する人生ゲーム型のすごろくや、ゴールの位置がその都度変化する桃鉄型のすごろくとは明らかに性質が異なる。そんなたまごっちすごろくはいったい何をするゲームなのか? というと、このゲームの目的も人生ゲームや桃鉄と同じように「得点」を稼ぐことになっている。ただ、その得点とはお金のことではない。
 プレイヤーたちは各所のマス目に従ってカードを引くのだが、そこに書かれている星マークの数がそのまま得点になる。より得点の高いカードを目指すためのリソース要素として本作にも「お金」の概念が採用されていたりするのだけど、それにしたってとにかく「サイコロを振ってカードを引く」というのがこのゲームの全てだった。
 ……で、ゴールのないこのゲームはどうやって終わるのか? というと、その答えは桃鉄に近く、「太陽っちが動ききったら試合終了」となる。
 盤面中央のやや上にある、緩やかな弧を描いたゾーンが太陽っちゾーンだ。各所の太陽っちマスやカードの効果によってそこを一マスずつ太陽っちマーカーが動いて行き、マーカーが終点まで行くと試合終了になる。……つまりこのたまごっちすごろくは、ランダムな速度で動く太陽っちマーカーが試合時間を定義する、世にも珍しい「残りの尺がはっきりしないすごろく」なのだ。
 しかもそこにゲーム性はほとんど存在しない。かけっこレースが開催されたりカジノ的なイベントがあったり、一定期間しか解放されていないボーナスエリアがあったりするのだけど、それはただそこにそういう要素があるというだけで、べつに戦術的なことには一切結びついたりしない。プレイヤーのやることはゲーム中常に「引いたカードに一喜一憂すること」に一貫している。それがこのゲームの全てであり本質なのだ。
 けれどもよく考えてみてほしい。「一喜一憂を一生繰り返すだけで、戦略性はない」というゲーム性は、人生ゲームだってほとんど同じである。ということは、すごろくにおいてそれは必ずしも悪いことではないと考えられるし、何より当時の自分はこのたまごっちすごろくを物凄く楽しんでいた。どのくらい楽しんでいたのかというと、毎回太陽っちができるだけ動かないことを祈りながらプレイするくらい楽しんでいた。少しでも長く遊んでいたかったのである。
 しかし、それに付き合う親にとって「残りの尺に見当がつかない」というのはたまったものではなかったのだろう。太陽っちが動くたび、子どもは悲鳴を上げ大人は歓声を上げる。そんな特異なエンタメを本作はもたらした。今ではぼくにも大人側の気持ちがかなり分かるようになってしまったので、子ども時代にこの作品と出会えていたことは本当に幸運だったと思う。
 ところで、当時の我が家は千葉県に住んでいたのだけれど、両親の実家は大阪にある。盆と正月には毎年大阪へ帰省していたわけだけれど、そのたびにいちいちプレステ2を運びセッティングする気にはなれず、帰省中はデジタルゲーム断ちをしていた。……となるとその分、子どもの退屈と、それに伴う不満のコールは増すことになる。アナログすごろくとはぼくの親にとって、退屈退屈とやかましい子どもに対する解決のアプローチその物だったのだ。ゆえにたまごっちすごろくは大阪の実家に保管された。
 しかし、毎年甲子園に熱中できる大人と違って、子どもは同じすごろくをいつまでもは続けられない。小学校卒業を待たずして、ぼくにもたまごっちすごろくに飽きを感じる日がやってきた。そろそろ別のすごろくが遊んでみたいなぁ……。
 ……と思っていたところに、三度祖父からのプレゼントが舞い降りる。それがこの「劇場版どうぶつの森すごろく」だった。
 そう、若い人は知らないかもしれないが、どうぶつの森は一度映画作品としてアニメ化されているのである。

 なぜか画像は逆さまなので多少分かりづらいが、見ての通り本作はオーソドックスな形式の盤面をしている。スタートからゴールまでを進み、道中でなんやかんやする。普通のすごろくだ。
 このすごろくも例にもれず得点を稼ぎ競うタイプのゲームなのだけれど、少し特殊なのは、稼いだ得点に一定の法則でボーナスが付くことと、「手札」の概念が存在すること。
 どうぶつの森すごろくには、春夏秋冬の計4エリアがある。得点となるアイテムカードを引くと結構な確率で「家具」が出てくるのだけど、この家具を一つの季節で5つ集めると得点にボーナスが付く仕様になっている。
 そして先述の「手札」の概念。これは、アイテムカードとは別にイベントカードを引くことでそれが手札としてストックされて、任意のタイミングで使用することが出来るというもの。その効果にはサイコロの出目を自由に選べたり、好きな季節のアイテムを引いたり、他プレイヤーと家具を交換したり……と、なかなか強力なものが揃っている。
 つまり要するに、このどうぶつの森すごろくは、これまで遊んだアナログすごろくの中で一番戦略性がある物だった。
 手札には持てる枚数に上限があり、相手からの妨害を防ぐカードもある。一度通り過ぎた季節には戻れないし、5つ集まりきった家具を横取りすることは出来ず、ゴールに早くたどり着くほどボーナスとしてカードが引ける……と考える要素が多く、またその思考をプレイングに反映する余地がある。
 ぼくはこのすごろくを遊んだ時に、あぁアナログすごろくにもこんなに深いゲームがあるんだ……と感心させられた、ような気がする。いや、実際は昔の自分にそんな感性が備わっていたのかは分からないが、とにかくその優れたゲーム性が今でも印象に残っているのだ。本作は、子どもの誤飲防止に駒に苦味を塗ってある商品らしからぬ傑作の出来だったと。
 しかしそんな傑作に触れながらも、その後小学校を卒業して中学生になるにかけて、ぼくはしばらくアナログすごろくからは距離を置くことになる。それでもいただきストリートというデジタルすごろくにどハマりしたまま今に至ったりするのだけれど、すごろくその物には関心がある一方でアナログすごろくからは距離を置くことになった理由は、たしか「興味の分散」と「世間体」であったように思う。
 歳を重ねるにつれて、デジタルゲームだけではなくカードゲームにまで本格的な興味を持ち始めたりしたことで、おもちゃを買ってもらえる場面ですごろくをねだっている場合ではなくなったという点は大きい。また、コンピューターと戦うことなどは出来ず必ず生身の人間が対戦相手として必要になることもあり、中学生にもなってそんな子ども向けっぽいすごろくを欲しがるのもどうなのか、という気持ちも芽生えていたように思う。さらに言えば、退屈退屈とごねる時代を終えて一人遊びを確立する年頃になっていたことも、まわりの大人があえてすごろくを勧めたりはしなかった理由としてあっただろう。
 そうしてぼくはアナログすごろくを卒業してしまった。……かと思われたある日、のんきに陰キャオタク中学生としての日々を送っていた自分に突然、一度は挫折したあの企画にもう一度挑戦する動機が降って湧いた。
 それは、ダークソウルというアクションRPGにどハマりしたことがきっかけだった。ぼくはそのゲームがあまりにも気に入ってしまい、どうにかして二次創作を行うことで、その愛を表現したいと考えるようになった。そしてその欲求が、物語的な創作とは別の方向へと向かったのである。
 かつて挫折し諦めた、自作すごろくの成功作を作るという野望。それとダークソウルへの愛が超合体して「そうだ、ダークソウルのすごろくを作ろう」という一大プロジェクトが突如として始まったのである。
 その頃の自分はTRPGというジャンルを認識し始めていて、その文脈がすごろくに流用できるだろうと考えていた。原作同様にまずは職業を選んで、すごろく形式で各ステージをクリアしていく。レベルの概念は複雑すぎるから廃止して、各所で拾える装備品によってキャラを強化していく仕様にしよう。戦闘はサイコロの出目で表現すればいいし、原作の名物的なイベントやキャラクターを配置していけば、それらしい物ができるはず! ……構想は踊るように捗った。
 また、当時の自分には「俺はいろいろなすごろくを知っている」という自負があった。桃鉄やいたスト、マリオパーティやWiiパーティのような比較的メジャーなデジタル系はもちろん、人生ゲームのようなオーソドックスなアナログ系だけでなく、尺が特殊なたまごっち、子どもにも分かる範囲で高い戦略性を有したどうぶつの森、エンタメ特化のワンピース(付録)……といった個性豊かな面々が、経験として自分の中に生きている。それぞれの作品の良い点を吸収してきたはずの自分ならば、今なら面白いすごろくを作ることができるはずだ! そう思った。
 そしてその結果、ぼくは二度目の挫折を味わうことになる。構想をいざ形にしていくと、やはりどうしても、すごろくとして面白くはならなかったのである。
 問題は多々あった。まず、原作がアクションRPGであることから「体力がなくなったら死ぬ(X回休みになる)」という仕様を採用してみたのだけれど、これが恐ろしくつまらない。「蓄積された何かが臨界点に達した時、初めて効果が発揮される」というシステムの「ただ蓄積されているだけの時間」の退屈さは半端じゃなく、人生ゲームやたまごっちで学んだはずの「一喜一憂」という概念は、自分が思っているよりももっとずっと複雑な物だったのだということを理解させられた。しかしその一方で蓄積の概念をなくしてしまうと、それはただの「X回休み」の言い換えにしかならない。
 また次に、戦闘面について。原作の緊張感に富んだ戦闘を再現するためにターン制のやり取りを採用したのだけれど、そこでぼくは「サイコロを振るという行為は、思っているより遥かにしんどい」ということを初めて実感した。
 自分がサイコロを振って攻撃、敵がサイコロを振って攻撃、また自分がサイコロを振って、敵も振って、体力が減ってきたから回復薬飲んで、また敵がサイコロを振って……。……というやり取りを、たった一人のプレイヤーがコロコロコロコロ延々とサイコロを振りながら繰り返している場面をテストプレイしていて、我ながら目が死んだ魚のようになってしまった。ゲームとして論外のテンポだと思った。
 さらに言えば、職業ごとに異なった面白さを確保するということも難しかった。手数重視と威力重視(または安定派か博打派)に分けてみたり、射程の概念を作ってみたりしたけれど、結局はそれが「サイコロを振る」という行為に集約される以上、手触りの差別化が上手くいかない。また先述の冗長な戦闘を解決するためにできるだけダイスロールの回数を絞ろうとすると、こちらの問題がなおさら深刻化していった。
 結果として、ぼくは再びの……なおかつ一度目よりも深い挫折を経験して、この企画は頓挫した。やはり自分に面白いすごろくを作るというのは無理なことのだろうと思ったし、後々にTRPGのことをより深く理解することで「TRPGの戦闘もかなりの長丁場だが、それは物語の中の重要な局面であることで許されている」という性質に気づき、「すごろく×戦闘」の相性の悪さをなおのこと実感することにもなった。
 ……そして、そんな無念の経験を重ねながらも時が経ち、ぼくが高校生になった頃のことだ。ある日、我が家に久しぶりの新作アナログすごろくがやって来た。
 それがどんな経緯で購入された物だったのかはもはや覚えていないけれど、千葉で買って千葉で遊んだことは覚えている。……あまり面白くなくて、ものの数回しか遊ばなかったということも。
 その微妙なすごろくというのがこの、「世界の果てまでイッテQ 大司令ボードゲーム」だった。

 ……もうすでにレイアウトが悪い。見づらい。初めて電車の路線図を見て、現在地を見つけるのにも苦労した時の気持ちになる。
 さて、このイッテQすごろくのルールは、最も早く100万円を集めた人が優勝!という、ゴールでも期間でもなく目標達成によってのみゲームが終了する、いただきストリート形式のすごろくである。そしてそのお金の稼ぎ方は、与えられた司令に従ってチェックポイントを飛び回り、その後スタート地点に戻ってくるという物。
 要するにロケをして映像を持ち帰ってお金にしようね、というフレーバーを備えたルールになっている。このチェックポイントを回って金を稼ぐという形式もまたいたストに似ているけれど、あちらとの相違点はモノポリー的な「物件」の概念がないことと、移動速度とお金がトレードオフの関係にあることが挙げられる。
 世界地図を模したこの奇天烈なマップを走り回るに際しては、とあるルールがある。それは空路や海路を使うと、その分の料金が手持ち金額から引かれていくということ。つまり移動速度に対する投資の概念があることがこのゲームの特徴であり、その点では若干の桃鉄らしさを感じると言えないこともない。
 それで、そんな本作のいったいどんなところがいまいち面白くないのかというと、「戦ってる感」がないこと。これに尽きる。
 ゲームの仕様上、各プレイヤーは各々が別々のチェックポイントへ急ぐことになるわけだが、そのくだりにはプレイヤー間の駆け引きはおろか連帯感すら存在しない。どんなルートを使うのか自分の持ち金と相談しながら考える……というのは個人の頭の中で完結してしまう戦略性であり、駆け引きにはなり得ないし、各々目指す場所(概念的な目標ではなく座標)が違うせいで、レース的な競り合いの感覚も薄いというわけだ。
 ぼくはイッテQすごろくから新しく学んだ。すごろくには、駆け引きか連帯感、少なくともそのどちらかが必要なのだと。それがないとどこか空疎な感じがしてしまう。その空疎さは、オンライン上の人間関係だけでは拭いきれない「咳をしても一人」のように寂しい感覚であり、面白さには程遠い物だ。
 と、そんながっかり感も冷めやらぬうちに、我が家にもう一本のすごろく……またはすごろくらしき物が現れる。こちらについては購入の経緯もはっきり覚えていて、それはクリスマスに血迷った父が買ってきた物だった。
 年々子どもが成長していく我が家にもたらされた最後のクリスマスプレゼントであり、現状最後のアナログすごろくでもあるそれは、名を「2WAYボードゲーム 逃走中&戦闘中」という。

 

 ……ぼくはこのゲームの内容をほとんど覚えていない。覚えているのは、自分の心を抉るようなつまらなさがあったことだけだ。
 おぼろげな記憶を頼りに説明すると、本作はサイコロを振ってステージの各所を転々とすることで、事務的な処理によって動き回るハンターから逃げおおせることを目指すゲームである。
 本作がぼくの心を抉った理由は、そのゲームシステムの煩雑さにある。いわゆるGMのような専属の司会者(ただのすごろくに……?)がいない限り、プレイヤーのうち誰かしらは自キャラの操作に加えてハンターの動作まで担当することになるわけだが、その時点でかなり作業量が多いのに、その上このゲームにはハンターに接近された際の「逃走フェイズ」的な物がある。
 逃走フェイズで何をするのかというと、自分がサイコロを振り、ハンターがサイコロを振り、それによって盤面左上の表を頼りに追いかけっこをすることになる。その繰り返しで距離を離せれば逃げられるが体力がゼロになれば捕まってしまう……という面倒な仕様なのだけれど、これがゲームの本流とは別の臨時のイベント事として存在しているわけだ。
 ……なんだかとっても、どこかの誰かが作ったテストプレイの時点で心折れてしまうくらいの膨大なダイスロールにそっくりな仕様である。これが公式のゲームなのか……?
 おまけに、プレイヤーやハンターは画像下の方に映っているスケジュール表通りに行動するわけだけれど、パッと見でも分かる通りこのスケジュールには法則性がない。このせいで本作は、他のすごろくのように「プレイヤーは手番が回ってきたら一連の流れで行動する」というわけにはいかなくなっている。毎回毎回、今は何をする場面なのか? とスケジュール表を眺める必要に駆られ、ゲームのテンポは死ぬ。
 父がどうしてイッテQのすごろくにマッハで飽きたあとでわざわざこのテレビ番組原作のすごろくを買ってきたのかは分からないけれど、こう言っては悪いが、二度とプレイしたくないと感じたアナログすごろくはこれが初めてだった。自分の過去の無念に重なる点も大きいのかもしれないけど、しかしそれにしたって「テンポが悪い」というのはすごろくにおける絶対悪である。それは人間でいうところの「敬語が使えない」に匹敵するだろう。
 ちなみに本作には商品名の通り、逃走中とは別の戦闘中モードも遊べるようになっているのだけど、確かに一度は遊んだはずなのに、そちらの内容はマジで欠片も覚えていない。しかしもしそれが楽しかったのであれば、逃走中モードとのギャップによって印象に残っているはずだ。そうなっていないということは……。
 ……何にせよ、これが完全にトドメになった。一口つまんだあとは物置の肥やしになったこの逃走中の負の存在感は薄くはなく、もう我が家がアナログすごろくを買うことはないと思われる。だからぼくがすごろくに対する知見をこれ以上深めることはもうないだろうし、自作すごろくを成功させられる日もたぶん来ない。
 ぼくのアナログすごろくライフにおける太陽っちは、こうして日没に達してしまったのである。



 ……というのが、今ぼくがこのnoteを書くために記憶の底をさらって考えた「比較的よくまとまった話」である。
 大事なことなのでもう一度言う。
 ぼくはこれまでの話を、記憶の底をさらうことによってとはいえ、今適当に考えた。
 ……どういう意味かというと、「ぼくの話したこと」と「事実」が必ずしも一致するとは限らないという意味である。
 それを表す証拠として、このゲームの話題を上げることにする。かつて確かに我が家にあり、確かに遊び、わりと面白かったはずなのに、何がどう面白かったのかどんなゲームだったのか、まったく記憶に残っていないアナログすごろく……「ドラえもん 日本旅行ゲーム4」を。

 このゲームは各地方のご当地ドラえもんを集めることが目的のゲームで、リソース要素としてお金の概念があり、ひみつ道具という名のイベントカードがあり、それをめぐる駆け引きがあった……ような気がするのだけれど、なぜか詳しいところはほとんど記憶に残っていない。このひみつ道具が手札としてストックできるタイプの物だったのかどうかすら覚えていない。リソース要素のお金を何に使うのかもだ。
 それどころか、上記の画像をググッて見た時に、ぼくは「そんな馬鹿な」と思った。4つのマップで4つのゲーム? ……記憶に残っているマップは2つだけである。
 ちなみに調べてみたところ、タイトルにある「4」とはマップの数だけを表している物ではなく、単純にシリーズのナンバリングの意味も含んでいるらしい。ドラえもん日本旅行シリーズには計5作品が存在しているらしく、画像を見た限り作品ごとにルーレットの形が違った。ぼくの記憶に残っているルーレットは確か4の物だったはず……という理由だけで、今この4を紹介している。
 なぜこのゲームはぼくの記憶に残っていないのか? 可もなく不可もなさすぎて印象に残らなかったのか? ……ググッて出てくる情報を見るだけでも、そのわりには手の込んだゲーム性をしているように思える。では単純に、遊んだ回数が少なかったからだろうか? ……それはあり得る。
 しかし、ではそもそもなぜ少ない回数しか遊ばなかったのか? と考えた時、候補に挙げられる理由として「逃走中が我が家のアナログすごろく文化にトドメを刺したから」は考えづらい。ドラえもんが逃走中の後に買った物だったら、そもそも懲りずにそれを買ったこと自体が印象に残るはずだけれど、ぼくにはその記憶もないからだ。
 というか、内容にせよ時系列にせよ、本当にこのすごろくについては「確かに遊んだ」ということ以外の記憶がない。しかし一つ言えることとして、逃走中すごろくのつまらなさなんかには関係なく、ある時から我が家のアナログすごろく文化は勝手に滅んでいたという話がある。
 我が家でアナログすごろくを遊ぶ文化が滅んだ理由。それは準備と片付けの面倒くささだった。Wiiが導入されたことで、プレステとは違って弟を含めた家族4人でスムーズに遊ぶことが出来るようになり、マリオパーティのような新手のすごろく系ゲームにも恵まれた。その結果我が家はすっかりデジタルの便利さに浸かって、アナログには戻れなくなってしまったのである。
 しかしぼくの記憶には、いつ頃からそうなったのか? という点が刻まれていない。何度も言うけれど、時系列が分からないのだ。どの時点で我が家がデジタルに染まったのか、それはどのアナログすごろくを遊んだあとの出来事だったのか、まったく記憶にないのである。……だから適当に上手くまとまるように話を作った。事実にはできるだけ沿ったつもりだけれど、完全に沿えているかどうかは分からない。本当は逃走中のあとに購入された作品があったかもしれないが、分からないのだ。ドラえもんすごろくの記憶が、自分の人生のどの段階にあった物なのかが分からないことと同じように。
 また、幼少期から高校時代までを適当にまとまりよく遡る中で端折られた作品は、ドラえもん以外にもまだある。これまたいくら記憶の底をさらっても時系列がはっきりしないけれど、それが前代未聞のシステムを取り入れたすごろくであったことだけは覚えている。そのすごろくとは、「ゲゲゲの鬼太郎 怪奇!妖怪横丁冒険ゲーム」のことだ。

 このゲーム最大の特徴はパッケージにも書いてある通り、なんとゲーム進行に合わせてDVDを使用するという点にある。
 各チェックポイントで敵妖怪との戦闘を突破しなければ先へ進めないルールがあるのだけど、本作はその勝利判定をサイコロまたはDVDのどちらか好きな方で行う。基本アナログ一瞬デジタルのスタイル……というわけだ。
 で、そのDVDによる戦闘では何をするのかというと、ゲーム進行に合わせた項目をリモコンでパパッと選んで、あとは映像を見るだけ。映像の結末はランダムに変化するので、それをもって戦闘の勝利・敗北を判定する。
 ……要するにパチンコと同じシステムである。それがわざわざDVDまで使ってすることか!? と思わずにはいられないけれど、この鬼太郎すごろくに関する記憶がDVDについてのこと以外ほぼ残っていないことを思えば、印象付けの戦略としては見るべきところがあったのかもしれない。まぁこのDVDを起動するのが面倒で、そのうちサイコロだけで遊ぶようになっていったあと、間もなくして本作は物置の肥やしになっていたと記憶しているけれど……。
 パッケージのアニメの世代が古いこともあって、本作はそれなりに昔の作品であることが察せられる。実際、自作ダークソウルすごろくが迷走した時に、ぼくも一度は思ったものだ。戦闘がDVDで行えれば何か解決するんじゃないか……と。もちろんそんな妄想には何の意味もなかったけれど。
 それから、そういえばこんなすごろくも遊んだことがある。まさかのサイコロだけをデジタル化したアナログすごろく、「Newスーパーマリオブラザーズ コインアドベンチャーゲーム」だ。

 パッケージに書いてある「サウンドルーレット」とは、押すと短い前奏のあとにコインを取得した音が1~3回鳴る装置のことであり、その回数をそのまま1~3の出目として扱って本作のすごろくは進行していく。
 パッケージからなんとなく察せられる通り、アイテムやイベントのような手元に貯まる小道具とは別にステージに配置するタイプの小道具が多く、まずそれが煩わしかったことが記憶に残っている。……が、このゲームの悪い点の本題はそんなちゃちなところにはなかった。
 本作最大の問題点はラスボスのクッパ戦に現れる。サウンドルーレットには「成功音か失敗音のどちらかが鳴る」という第二の機能も備えられているのだけど、その機能で成功音を三回連続鳴らせることがクッパ撃破の条件になっている。そしてこの条件が達成されるまでは一生ゲームが終わらない。
 逃走中と同じく、ぼくはこのすごろくを遊んだ記憶が一度しかない。クッパ戦が死ぬほどダレたからだ。いつ終わるんだよこのゲーム……と思いながら黙々とボタンを押して、三回に一回は聞こえてくる失敗音にため息を吐くゲーム。それが本作の印象になってしまった。
 考えてみれば、そもそもルーレットをサウンド形式にしたことの価値に疑問が残る。成功・失敗の判定は要するに「サイコロで偶数が出れば成功」みたいな話とやっていること自体は同じなのだから、必ずしも装置が必要なわけではないはずなのだ。装置の中に設定されている確率がどのような物になっているのかが分からないので一概に断言することはできないけれど、その確率だって結局ゲームをダレさせる程度の調整しかされていないなら評価には値しないだろう。
 また、通常のダイスロールに短いとはいえいちいち前奏が鳴る点もテンポを削いでしまっている。何につけてもこのサウンドルーレットが足を引っ張っているのだ。DVDという飛び道具を搭載しながらサイコロだけでも遊べるようにあらかじめ設計されていた鬼太郎とはそのあたりが大違いである。
 ……という具合に、逃走中に匹敵する酷評作品としてぼくの胸の中に残っている本作だけれど、これを買ってもらったのがいつ頃のことだったのかはまったく覚えていない。ドラえもんと鬼太郎は千葉で遊び、マリオは大阪で遊んだことだけは覚えているのだけど、なぜかそのマリオを千葉に持ち帰った記憶がある。なのにそれに関連する事情はまったく覚えていない。
 ……という風に、出会った時系列が怪しい作品がこれだけあり、ドラえもんに至っては内容すら覚えていない……。こうなってしまうと、自分の記憶の信用自体が落ちてしまう。さも全てを覚えているかのように語ったすごろくたちの中に、忘れている重大な点は本当にないのか? ド忘れしているだけで、本当は名作と呼ぶにふさわしい作品がまだ他にもあったのではないか? あるいは語ったことのうち、実はどこかしらに虚言が混じっていたのではないか? ……疑念は湧けども真実は闇の中である。
 けれどそれだって、言ってしまえば当たり前のことである。普通の人は自分の半生について、歴史の教科書のように詳細には覚えていないだろう。ぼくもその普通の人の一人だったというだけのことだ。だから昔に体験した何らかの作品について語る時、記憶だけを頼っていると無理が生じる。本来は別のアプローチが必要なのだ。「改めて、再び体験する」というアプローチが。
 全てのすごろくは、本当に今の心にある印象通りの内容だったのだろうか? 大人になった今こそ改めて確かめてみたいものだけれど、実際のところぼくがそれを叶えることは不可能に近い。……アナログすごろくをデジタルすごろくに比べた際の欠点は準備と片付けの面倒さだけにはとどまらず、「保管する際にかさばること」も挙げられるものだから、もうここで語ったすごろくたちはどれ一つとしてぼくの手元にはないのだ。何年も前に一斉に処分されてしまった。
 ……子どもの頃は、すごろくのゲーム性について考えたことなんてなかった。そんな発想すらなかった。でもそれが、どうぶつの森で感じた戦略性や自作すごろくの経験を機に……、いや、もしくはそんなこととは関係なくただ年齢を重ねたことによって少しずつ変わっていって、やがては今のような性格になった。だけど皮肉なことに、その性格を得て以降のアナログすごろくには印象に残る物こそあっても、名作と称賛したくなるような作品には出会うことができなかった。
 しかしそれは、ぼくの出会ったすごろくの質の問題なのか? それとも昔と比べて変化したぼく自信の問題なのか? 改めて思い出の作品を遊ぶことも叶わなくなった今ではそれすら分からない。たとえばたまごっちすごろくには、イッテQすごろくになかった連帯感があったのか? 思い出補正ではないのか? ……だとか。そういった疑問に一つとして答えが出ることはなく、事実上の全てが記憶の闇に葬り去られてしまった。
 だけどそんな今でも、すごろく自体への感心は生きている。ショッピングモールや電化製品店を訪れた時に、ふと、おもちゃコーナーのすごろくが目につくことがある。何やら時代に合わせた進化という名の奇抜化の一途を辿っているらしく見える人生ゲームシリーズや、鬼滅の刃や呪術廻戦などの話題アニメを題材にした商品たち。今改めて自腹を切る気にもなれなければ、家族を「これで遊ぼう」と誘う気にもさらさらなれない、子ども向けのオーラを持った作品たち。……その前を素通りする時にいつも思う。
 本当はこの中に、遊べば心に残る画期的な名作が眠っているのではないか。そしてそれに触れる経験が、今度こそぼくに自作すごろく作成を成功させるきっかけをくれるのではないか。
 そうは思えども、2023年9月下旬の現在、我が家の面々が購入を検討しているすごろくゲームはただ一つ、新作の桃鉄だけなのだった。
 
 
 

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