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ノールーツ・ノーラブ

 正月には親戚一同で顔合わせをする家庭が多い。よってその時期に人と雑談をしていれば、それに関するエピソードを聞く機会も多くある。
 その中でも、女友達が一人、親戚のクソガキ(男)から殴られたり、容姿を馬鹿にされたという話をしていた。
 聞くも明らかに、穏やかではない話である。が、それはもちろん、戦いごっこが趣味で、言っていいことと悪いことの区別もつかないクソガキがしたことだから、成人男性が同じことをした場合とは訳が違う。……だからといって看過できることではないのだけれど、しかし人によっては「子どもだから」で納得することも出来るだろう。
 問題は、「子どもだから」を踏まえた上でもなお許せない点が、その話にはもう一つあることだ。
 全ての子どもが、異性にごっこ遊びという名の拳や蹴りを仕掛けたり、人の容姿を無邪気に馬鹿にしたりするわけではない。世の中には躾のできている子どもと、そうでない子どもがいる。特にぼく自身は、父により「女の子には優しくしなさい」とそこそこ厳重に言い聞かされていたこともあり、幼い頃から女性に乱暴な絡み方をしてはこなかった。だからそのように、そういった点……つまり親の躾から、「男の子が女の子に戦いごっこを仕掛けるか?」という事が分岐したりすることをぼくは知っている。
 だから、それを踏まえてもう一度言う。この世には、躾のできている子どもとそうでない子どもがいる。……言い換えると、この世には「子どもの躾ができる親」と「子どもの躾ができない親」がいる。許せない問題点というのはここだ。
 全てのクソガキが悪い大人に育つわけではない。人生のどこかで節度や道徳を習得して、人を傷つけるどころか救える人間にだって大いになり得るだろう。それはよく躾られていた子どもが必ずしも良い大人に育つわけではないことと同じである。その前提があるからこそ「子どもだから大目に見る」という対応が成立することもよく分かる。……が、すでに大人である者の場合は話が違う。一人前に人を罵ることことが出来る歳の子どもを持つ親なんて、大抵はいい歳をした大人であるが、その歳で背負った欠点はそう簡単には消えない。子どもの躾ができない大人は、死ぬまで子どもの躾ができない大人として生きる可能性が高い。
 もちろん、子どもを躾ける能力が人間の全てではない。その欠点一つでその人の人間性が地に落ちるわけではない。……が、しかし、我々はたとえばそうした「躾のできていない子ども」を通して、「人の欠点が、誰かを傷つけること」を実感させられてしまう。いい歳した大人の……選択的に人の親になったはずの大人の、その人の全てではなくとも大きな欠点である一つが、巡り巡ってこのように人を傷つける。世の中がそういう風に出来ていることを、子どもの乱暴さから実感してしまう。
 その大人というのが赤の他人ならまだ良い。しかし親戚の子どもの親となると身内だ。身内の中から「人を傷つける欠点」が浮き彫りになるのはつらい。男尊女卑を自覚もしていないだとか、親戚においてはそういった欠点と同種の物なのだ、「躾ができない」という物は。
 ……けれども、肝心のその女友達に上記の見解を示して「気の毒に……。クソガキに絡まれるのもつらいけど、それより何よりこれが一番つらいよな……」と語ってみると、向こうはいまいちピンと来ていない様子だった。「そこまで考えたことはなかったな」とでもいう風に。
 まぁ、深く考えないことで精神的ダメージを避けられるなら、あえてそこへ回り込むこともないだろう。ぼくはその話を一度そこで打ち切った。……すると別の女友達から、今度は「着替えをしていたら甥っ子(男)が部屋に入ってきた」という被害報告が入った。
 大人なんだからガキに着替えを見られたくらいで動じないぜ、……という話なのかと思ってそれを聞き始めたけれど、どうもその友達は、着替え中に部屋へ入って来られたことに関して、きっちり人としての不愉快を感じているようだった。そうなってくるとぼくはまた同じ話をすることになる。気の毒に、しかし何より一番きついのは……。
 ……と、そんな話をしたところ、その女友達は一人目の友達の時よりもさらにキョトンとしていた。そして、
「そんなことは考えないな」
 と返事があった。
 何度「本当に?」と聞き返しても、「考えたことがない」ではなく、「考えない」と答えが返ってきた。
 詳しく聞いてみると、着替え中に侵入されたことは不愉快ながら、甥っ子は甥っ子なので可愛いだとか。子どもとは原則的にクソガキなのだから、べつにそれ自体に異存はないだとか。甥っ子の親自体も悪い人間ではないことを知っているから、べつにそのような考え方はしないだとか。……人の話をちゃんと聞いていたのか? と思ってしまうような答えばかりが返ってくる。
 「悪い人間ではない、身内の親」の中に「躾ができない」という致命的欠点があるからこそつらいんじゃないか。悪い人間にだけ欠点があれば話は簡単で、受け止めることも楽だろうに……と話しても、その友達にはまったくピンと来ていないようだった。
 そしてその問答の末に、彼女はこんなことを語った。
「自分は教員免許を持っているし、塾講師をした経験もある。その経験から、この世の子どものほとんどがクソガキであり、それと同時にその全員が愛すべき存在であることを知っている。クソガキから絡まれるストレスはおそらく君よりよく知っているけれども、それでも私はありのままの子どもたちを愛している」
 ……ぼくはそれに反論した。
「ぼくの父には兄弟が多く、全員が既婚者かつ子持ちだから、親戚一同の集まりでそれなりの人数の「子ども」と「親」を見る。そこで知ったおそろしいことは、「大人として魅力的な相手」と「子どもとして付き合いやすい相手……の親」が一致しないということだ。魅力的な大人の子どもがクソガキで、賢い子どもの親が頼りなかったりするのだ。他にも、かつてのクソガキが、パッと見て模範的な好青年に成長する様を見てきた。一方で同じようなクソガキが、ある時期を境に陰キャに傾くところも見てきた。大人に近づくにつれてあからさまに愛想が良くなる子も見た。あまりにも欠点がなさすぎて「こういう子がグレる時が怖い」と部活の顧問が親に話したという子もいた。……しかしそれら全ての子が、昔はせいぜい「クソガキか、賢い子か」くらいの違いしかなかった。またこれはネットで聞きかじった話だけれども、「人の気持ちを考えて行動できる小学生なんて、いじめられっ子や精神病の予備軍だ。子どもは自分勝手なくらいが健全なのだ」という見解もあるらしい。ぼくが見た「魅力的な大人」が昔はどんな子どもだったのか、その根にどんな人間性を持っているのかは、そう考えてみると分からない。しかしだからこそ、全ての子どもに関して、何がその子たちを分岐させたのか、親や教育の与える影響とは何なのか……と、そこに興味を持ったりはしないのか? 身内の人間が抱える「人の親としての欠点」が子ども本人と、その子どもが今後関わっていく人たちに何をもたらすのか、不安になったりはしないのか? 自分の目に見える「良い人間・悪い人間」の根に何があるのか、気になったりはしないのか……?」
 ……と、意図していたよりも勢いで強くまくし立ててしまったところ、「何を怒ってるの?」と困惑した相手から、最後に一つだけこの話題に対する返事があった。
「君の言うような話には興味がない。根がなんであれ、私は全ての子どものありのままを愛している」
 ……それを聞いてぼくは悟った。
 あぁやっぱり、誰かの欠点は、その誰かに関わる人を傷つけるのだ。世の中はそういう風にできている。
 全ての子どものありのままを愛すると豪語するその女友達というのは、この話をする数週間前に、ぼくに対して「君の全てを受け入れるよ♡」みたいなことを言っては、ぼくの本性に耐えかねて前言を撤回したその人だった。
 ぼくはそういうケースをそろそろ片手では数え切れなくなるくらいに体験している。インターネットをさまよって異性と仲良くなると、時々、そういう出来もしないことを言う人が現れるのだ。全て受け入れるだなんて、そんな言葉を口にしたくなるほどの好意を向けてもらえたことは嬉しいけれど、人生で初めてその言葉を撤回された時には、ぼくはちょっと本気で泣いた。ぼくが怪我の痛みや病気の苦しみ以外で涙を流したのは、進路相談あるいは人生相談において両親が絶望的に自分を理解してくれなかった日の夜を除いて、その時だけだった。
 だけど同じことが数度重なるとさすがに慣れてくる。「全部受け入れるよ♡」と言われたら、まぁ確実に嘘だし、さっさとその嘘を暴いて、ちょうどいい距離感の関係に戻ろう、あるいは縁を切ろう、お互いに傷が深くなる前に……と考える。そしてその考えの実践と成功には、いざ手を打ち始めてしまえば、決まって五分もかからないのだ。
 けれどぼくはずっと不思議に思っていた。どうしてこちらに好意を向けてくれる女性は、「全部受け入れる」なんて絶対に出来やしないことを言うのだろう? 本人やその身のまわりにいる人間が全員善良すぎて、どうしようもない人間のサンプルを知らないから想像のしようがなくて、その結果としてそんな軽率なことを言うのだろうか? きっとそうなのだろうな……とぼくは思っていた。
 けれど今回、躾と子どもと親の話を通して、ぼくはもう一つ別の結論を見た。
 全ての子どものありのままを愛すると豪語する塾講師経験者は、ぼくの話に興味がないのだという。
 何が子どもの人間性を分岐させるのかについては、考える必要もないのだという。
 そんな人間が、全ての子どもをありのまま愛しているのだという。
 ぼくがもし、彼女の愛の言葉に救われた子どもの一人だったら、そして救われた末に、「君のルーツには興味がない」という見解を叩きつけられた子どもだったら。きっとこう思っていただろう。この偽善者は許さない。
 最悪のケースを想像するためのサンプルを持っていない善良な世界の人たちが、善良であるがゆえの致し方ない想定の甘さで「全てを受け入れる」とか「ありのままを愛する」とか口走ったりするのだろうとぼくは今まで考えてきた。けれど今回のケースを見るに、実際の仕組みは必ずしもそうではないらしい。
 思考停止をしている人が、適当な言葉を雑に並べるのだ。想定するべきことを想定せず、関心を向けるべきところに関心を向けず、出来もしないことを出来ると言う。そんな振る舞いがかつて一度だけ、両親にも迫る精神的密接の距離からぼくを傷つけた。どこかの誰かの心だって、ぼくの知らないところで知らない時に、同じように傷つけられているだろう。
 人の欠点は人を傷つけるのだ。「馬鹿」、「無知」、「思考停止」。これらは人の欠点であり、従って上記のように人を傷つける。思わぬタイミングでそのことがよく分かった。
 ただ、フェアな話をするために言っておくと、「人の欠点は人を傷つける」の法則から考えると、「サディズム」とは欠点である。
 裸に剥かれて、ぼろ雑巾みたいになりながら咳き込む女性のAVを見て勃起するぼくのことが、その友達は女として許せなかったらしい。

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