見出し画像

ヴィトンと赤ちゃんと私

はむはむはむはむ……。

赤ちゃんが、ヴィトンのバッグを噛んでいた。

スーパーに着いて、今日の夕飯は何にしようかしら、と考えるともなく考えていたら、すれ違った家族に、というか、赤ちゃんに、目を奪われた。
まだ髪の毛もしょろんしょろんで生えそろっていない、ガーゼのつなぎみたいなのを着て買い物カートのチャイルドシートに乗せられているその子は、ハイブランドでおなじみの、ヴィトンのバッグを両手で抱え、その持ち手を、ばっちり噛んでいたのだ。

それたぶん高いやつだよとか、お母さん! バッグ噛んでますよ! とか、てか近所のスーパーにヴィトンのバッグってどうなの? とか、とにかくいろんなものが一瞬頭をよぎったが、すぐに、そんな風に考える自分が、ばかばかしくなった。

きっと、あの場で一番純粋にあのバッグの価値をわかっていたのは、あの赤ちゃんだけだっただろう。

私は、ファッションやブランドに疎い方だが、雑誌や百貨店で見かけるから、なんとなくそのロゴや価格の高さを知るようになった。
でも、そのブランドのロゴを知っているから、高いやつだ、と思うわけで。
ロゴがついているだけで、その物体に、価値を見出す人たち(私も含めて)は、果たして、本当に、その価値をわかっているのだろうか、と思った。

もちろん、そのブランドなりのこだわりや、その価格に見合った手間がかかっていることや、そのブランドのものを持つこと自体に価値を見出す人たちがいることは、わかっている。
しかし、同じ商品を、安いとか高いとか、どこのブランドだとか、誰が持っているとか、そういう表面的なところで見ている自分がいるのではないかと思ったし、たぶん自分はそうやって見ていると思った。

一方で、バッグを噛んでいた赤ちゃんは、バッグとしての機能性は完全に無視していたが、噛み心地に関しては一番その価値を、体感的に、理解していたのだと思う。
私は乳児の成長を見た目で判断することはできないのだが、おそらく、歯が生えてくる時期で、何かを噛むことを自然とするのだと思う。
そして、たぶん、その噛み心地は何でもよいというわけではなくて、快/不快という判断基準があり、快と感じたものを噛んでいるのだと思う。
だから、自分が噛むことに適している、という一点のみにおいて、あの子はあのバッグを噛んでいたのだと思う。
そこに、高いから噛みたいとか、このブランドだから噛みたいとかは、なかっただろう。

ヴィトンのバッグを噛む赤ちゃんを見て、大人の自分は、そのブランドやバッグそのものの価値がわかるようになったのではなく、むしろわからなくなったのではないかと思った。
いろんなプロモーションや口コミや日々の生活の中で、何も考えずに、因果関係がないところに勝手に因果らしきこじつけをして、価値がある、いいもの、と評価を下す、というか、評価することさえも放棄している。
この世界にいることが長くなるにつれて、ものを見る目はかすみ、こころは鈍感になっている。
あれ。
じゃあ、どうしようか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?