わたしのルーツ④

父は家事や、月々の支払など、家のことすべてを母に任せっきりだったので、それこそ「爪切りの位置もわからない」状態だった。          私は、当時一緒に生活している男性もいたし、仕事もあったし、そもそも父と一緒に暮らすとか、面倒みるとかという類の気持ちは一切なかったので、とにかく一人で生活できるようになってもらう必要があった。      とにかく、炊飯器や洗濯機などの使い方などを父が理解できるまで説明した。                                 幸い、元調理師だったので食事を自分で作ることには問題ないのだが、とにかく食材を買うときに値段を見ずに好きなものを好きなだけ買ってしまう。 

月々の光熱費・家賃・食費など、生活保護の少ない支給額の中で、母がやりくりしていたのを、これからは父が自分でやらなければならない。    今までみたいに、好きなものを好きな時に買ってはいられない。      一番苦労したのは、お金の管理を自分でさせることだった。

2週間ほどで、そういったことを全て父に詰め込んで、私は自分の生活に戻った。                                                       月に一度、父のところに様子を見に行くという約束で。         「大丈夫だ」                               という父の言葉を信じて…というより甘えて。

3か月ぐらいの間は私も気になって、支払日や、引落日、買い物でいくら使ったかなど、確認の電話をしたりしていた。父も気を張っていたのか何とか一人でやっていたが、母の死からだんだん時が過ぎていくうちに、父はやっぱり一人で生活ができない人に戻っていった。          

「電気が止められた」                             「病院に行くバス代がない」                          「3日間、水しか飲めてない」                      そんな電話を職場にもかけてくるようになり、私もとりあえず、          「これで最後だからね」                             「最初はできてたんだからちゃんとやってよ!」                        「ちゃんと節約して来月には返してね」                     などと言いながら、その場しのぎでお金を振り込んだりしていた。     

そのうち、父のところに行く度にケンカになったり、荒んでいく家の中を見るのも嫌になって、月に一度行く約束だった実家には理由をつけてなかなか行かなくなった。                           

私は母に似たのか、ちょっとだらしなかったり、破天荒な人に惹かれるところがあったせいで、30歳を過ぎても未婚だった。             とにかく私も飽きっぽいのか、なかなか一人の人と長続きしなかったり、二回り以上年上の人と付き合ってみたり、妻子のある職場の男性などと関係を持ったり、とてもじゃないが自慢できるような恋愛は少なかった。    中には結婚を考えた相手もいたが、具体的にそうならなかったのは、私が飽きっぽいからだけではなく、私自身に問題があったのだろうと思う。   

父と、そして「結婚」を諦め始めたころ、職場のアルバイトの女の子に誘われて行ったコンパで現在の旦那と出会った。

破天荒な雰囲気は全くなく、容姿も正直好みではなかったが、コンパでは周りに常に注意を払って、会話が途切れないように、つまらなそうな人には積極的に話しかけて、男性陣を盛り上げることも忘れず、取り仕切っているところを見て、                           「この人、たぶんすっごい疲れるだろうな~」                   とか思いながら、常に自分勝手で自分本位の私にはとてもできることではないと尊敬の気持ちが沸いた。                      というより、純粋に話してると楽しかったし、                     「この人ってホントはどんな人なんだろう」                     という気持ちになった。それは今までで初めて生まれた感情だった。

二人で会うようになって、二人で暮らすようになった。              私は33歳、旦那が37歳。初めて具体的に結婚を見据えての同棲だった。  

私は、父の話しはもちろん、母のことも、今までの恋愛遍歴についてまで、旦那には何でも話していた。                         特に父の問題は、旦那も一緒に考えてくれた。                このまま父の生活をその場しのぎで助けながら暮らすわけにはいかない。  

弁護士に相談して、父の生活を立て直す。                   旦那が提案してくれて、まずは旦那と二人で弁護士に相談に行った。    お金の管理ができないのは、ある意味病気のようなものだから、直すためには周りももっと本気で向き合わなければならない。

父を弁護士に会わせ、生活保護費の受取人を私に変更し、月々の支払は毎月私がやることになった。食費は必要な分だけ父に渡し、買い物は一緒に行くことにした。父は、毎日家計簿をつけることを弁護士から命じられ、月に一度は弁護士にそれを提出する。                       家計簿なんてつけたことも見たこともない父も、もう言うことを聞くしかないほど、一人の生活は崩壊していた。

父は必要な支払を滞っており、光熱費はほとんど滞納があったし、家賃も払えないでいた。家賃はとりあえず生活保護から引き落としてもらうように変更し、滞納分は分割にして払うようにし、毎月支払いには旦那が車で連れて行ってくれ、その時に父を弁護士のところに連れていく生活が始まった。

本当に旦那には感謝しかない。                      父は、自分の生活保護費を私が管理することでかなりストレスになっていったらしく、家計簿も最初のうちだけは文句を言いながら、少しはつけることもあったが、弁護士に怒られても一切つけなくなった。          私にも、                                   「俺の金を勝手に何に使ってるんだ!」                   「もう二度と金貸してくれなんて頼まないし、親子の縁切ってくれていいから俺の金返せ!」                           と、一日に何回も電話をかけてくるようになり、私はもう諦めた。

弁護士に絶縁状を作成してもらい、いろいろ細かい条件を決めて、それを父に郵送し、父の同意のもと、私たちは絶縁した。                悔しかったし、腹も立ったが、いつまでも共依存している方がお互いのためによくないのだ。

そうして、私は結婚し、父とは全く音信不通となった。            電話番号も変えたし、引っ越しもしたし、結婚して苗字も変わったので、万が一にも父が私を探しても見つからないだろうと思った。           

現在、結婚して10年を過ぎても、父とは一切連絡を取っていない。     何年か前に、どうしても消息が気になり、絶対に会わない約束で実家の様子だけ見たいと、旦那に頼んで連れて行ってもらったことがある。        私たちが暮らした実家は、もぬけの殻になっていた。             出て行ったのか、亡くなったのか、こうなると気にならないわけはなく、役所で戸籍や住民票を辿って、そのときの父の現住所は精神科が併設されている病院になっていた。                        それから数年経って、それ以来父の消息は調べていない。                          

私はひどい娘だ。                             母には心配と迷惑ばかりかけて、父にも可愛がってもらったのに…。                               今でも、そんな風に自分を責めることはあるが、そんなときは旦那が、  「お母さんは親だもん、子供が親に迷惑かけるのは当たり前だよ」     「お父さんは自分からあなたの手を振り払ったんだよ。あなたが捨てたわけじゃないし、やれることは全部やったよ」                と、私の心を救ってくれる。                       

こんな環境、こんな風に今の私が出来上がっています。              何でもない主婦のどうでもいい生い立ちにお付き合いいただき、ありがとうございました。                

これから、父や母や旦那とのエピソードなども書いていけたらな~と思っています。                        

旦那曰く、「さんま御殿」に応募できるネタいっぱいあるらしいので(笑)  

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