文系こそ論理的であるといえる根拠

私はよくまわりから論理的だと言われます。
そのためよく理系と思われるのですが、
文学部で日本文学を専攻したバリバリの文系です。

文系は論理的でないと言われるけれど、私にはその根拠がよくわかりません。
なぜなら、論理的思考を行うには言語が必要であり、文章の世界こそが論理そのものだからです。
論理学も文学部の科目ですよね。

デカルトが「Cogito ergo sum(我思うゆえに我あり)」として、我を証明しました。
ですが、思っているという行為と行為の動作主である我がどうして結び付くのか。思っているという行為が証明されても、行為の動作主である我は証明されないと思います。
このように考えるのは、日本語では主語と動詞は切り離されているからです。
ラテン語の「Cogito」は主語と動詞が結び付いているため、ラテン語を用いて証明を行う限りにおいて我は証明されます。
つまり論理は言語に依存するのです。

大学で行われる学問としての文学とは、(少なくても私が通った学校では)文学を鑑賞する行為ではなく、仮説に対してそれの論拠となる証跡を積み上げて実証する、極めて論理的な行為です。

また、いわゆる鑑賞対象としての文学の世界は、文章の中に情緒や感情を見出だしますが、それは文章を扱う側の見方のによるものであり、文章そのものは世界からは独立していると思うのです。

理系の学問では数学も同様だと思います。

それに対して、物理学や生物学は世界のありようを解明することを目的としているため、この世界に依存しています。すでに存在するものに対して法則性を当てはめているため、当てはまらないものが発生します。
例えば、生物の遺伝の法則。3対1で形質が発生するべきなのに、赤×白でピンクが発生したり、突然変異が発生したり。

私はこれらの理系学問のこのようなデジタルでない部分が受け入れがたかったし、論理的でないと考えています。

さらに言えば、言語についても生きている言語はどんどん新しい言葉が生まれたり、意味が変わったりすることがあります。
文章の流れとしての論理性は担保されるとしても、それぞれの言葉が流動的であれば論理が崩れてしまうことがあります。
そのため死んでいる言語を用いる必要があります。
中世ヨーロッパで哲学のためにラテン語を用いた理由もうなづけます。

真に論理的であるためには、世界とは離れる必要があるのでしょう。

というわけで、理系は論理的で文系は論理的でないというのは本当に当てはまりますかね?
論理的に証明してみてください。

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