読書メモ:『難しい本を読むためには』(山口尚著、ちくまプリマー新書)

 哲学者山口尚(*専門は形而上学、心の哲学、宗教哲学、自由意志について、とのこと。)による読書の方法の指南書です。ちくまプリマー新書は、中高生向きの学問入門書を多く出版するレーベルです。
 本書『難しい本を読むためには』では、文章の「キーセンテンス」を発見することを軸として「全体と部分」を循環的に(「グルグルと」)読み込むことで、読解を進めていくという方法が提唱されます。それは、まったくその通りで、文章読解の「正攻法」であることは間違いないところでしょう。
 他方で、どれがキーセンテンスであるかを一般的に確定する方法はありません。それは文章の全体と部分との相互関係から解釈されるものだからです。しかもこれを解釈し、特定するのは、(私のような)読者という能力的な制限のある人間の仕事です。全体を誤解すれば部分の理解はおぼつきません。逆に、部分の理解ができないと、全体として何を言っているか分かりません、確信が持てないという事態です。
 理解のあやふやなままに読み進め、全体の論理の流れを見失ったまま書籍の終盤にさしかかると、もうちんぷんかんぷんです。字面だけを目で追って、読んだことにして終わり、というみじめな読書を何度も経験しました。

 この点に関し、私が面白いなと思ったのは、次の一文です。

まずは全体と部分の意味を「仮説的」に予想して、それがたまたま嚙み合ったときに文章は理解される、とならざるをえません。(中略)与えられた文章を理解できるかどうかに(根本的な次元で)偶然性が関与することは否定できません。(中略)頭を悩ませたあげく、部分の意味も全体のつながりも分からずじまいだったということもありうるのです。

『難しい本を読むためには』84p

 私のみじめな読書経験も、読書にはよくあることであって、そんなに落ち込むようなことではないようです。

 もちろん、本書は、理解のあやふやなまま放置することがいいことだと主張するものではありません。理解する努力を惜しんではならないことが重点的に述べられています。

私たちは本や論文を読んでいて「ここは抽象的だな」と感じる箇所に出会ったら、めんどうを厭わずに具体例を考え出す必要があります。

同上186p

  具体例を考え出すことができるかどうかは、その書籍と自分とがある程度近い関係にある必要があります。人間は、自分とまったくなじみがなく、かけ離れている物事を理解することはできないからです。古典を読みこなすには知識や教養が必要だということです。これらの素養を身に着けるために古典を読むのですが、前提となる素養がなければ古典は読めない。このグルグル関係を潔く受け入れて読んでいくしかないのでしょう。

 ところで文章、ひいては書籍の全体を理解するうえで、該当する分野の入門書は役に立ちます。もちろん定評ある入門書を選ぶべきでしょうが、目的とする本に取り組んだ際の良いガイドになってくるれるだろうとは思います。しかし、結局、その入門書に答えが書いてるような気になってしまうこともあります。頑張って読んでも、入門書に書いてある要約や「キーセンテンス」を確認するだけで終わってしまうのです。そうであれば、入門書を読めばそれで済むのであって、何も難解で長大な書籍に時間をかけて取り組む必要はないようにも思えてしまいます。
 しかし、この入門書で十分だという考えは、受け入れることができません。原著を読む経験でしか得られないものがあるという確信めいたものが確かにあるのです。古典を古典たらしめる要素には、歴史的に多数の読者をひきつけ、そうした読者らから新たな思想を生み出されてきたという実績が(1つには)あります。そういった歴史的な思想体系の片隅に自分も連なりたい、歴史の中に自分の存在を感じたいという欲求が、古典それ自体を紐解く動機となっているのではないでしょうか。この点は、またゆっくり考えてみたいです。
 

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