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九嶋のひとりごと④

先日日記を書いたばかりだが。色々と考えては色々と悩んだり、晴れたりと少々浮き沈みをしている。春だから調子も悪くなり、気温差や気圧の乱高下についていくことができずにいる。季節の変わり目はとにかく消耗してしまうので、これはいつものことなので致し方ないとは理解しつつ。

思えば創作活動は自分を成長させる認知行動療法だったと思える。
「やりたい!」で始めたものだったが、かなり歪んだ認知を、かなり低かった自己肯定感を人並みに押し上げてくれたのは同人活動・創作活動だったと思える。

その効果が出てきたのがまさしく、去年の9月ごろで、そこから「自分」というものを確立できているのが、「今」でもあるんだと思う。


作風を変えたい、自分でありたい

2024/03/28 唐突に「全部捨てたい」と思った。

いや、何度か思っていたことではあった。何度も捨てたいと思いながらも、欲張りな俺は捨てることができない。せっかく・もったいないという意地とプライドと欲張りがいつも邪魔をする。

元々、俺はロリィタが好きで、ゴシック、ヴィンテージなものが好き。自分自身の服装も、生き方も部屋も集めるものも全てそれがいい。

だけれども、いろんなことがこれを邪魔していた。
一番邪魔していたのは、俺なんだけども。
俺は性別がないというか、あるというか。でも男でもないし、女でもない。

それなのに少女趣味では女に見られてしまう。それがとてつもなく嫌だった。女だから着ているわけじゃない、好んでいるわけじゃない。

その、つまらない他人軸の意地が、俺をどこか変えていったんだと思う。
でも、それはそれでいいと思う。俺はかっこいいものも好きだし、少女趣味でありながら、とてつもなくかっこいい絵を描ける姿が俺の理想だ。

でも、いろんなことに揺さぶられ、他人軸ばかりで俺はどんどん俺じゃなくなっていった。イベントでもそうだ。
本当は黒い布量多めのロリィタ服が着ていたい。でも、女に見られるのが嫌だったから、Tシャツにズボンで過ごすようになった。まあ、忙しいのでそのくらいの軽装の方が楽ではあったけれども。

作風だってどこかそうだったのかもしれない。女であることが嫌で、本来ならキャラたちに少女趣味の服装をさせたいのに、どこか知識だけになっていって、それが義務感を増していた要因だったのかもしれない。

さらには、俺は男女関係なく少女趣味であって欲しいので、
それを女装とか男の娘という言葉で表すのが嫌いなくらいなので

単なる個人的な「趣味」なんだけれども

そういう、他から見られた時のラベリングにずっと怯えて
反発したいと思いながらも、従順になっていたこと

それを捨てたい、と心の底から思ったんだと思う。

もう、好きに見られていい、と自己肯定感や、わかってくれる人がわかってくれるならそれでいい、と安心感を得たからこそ
自分というものを守る、いらない殻がどんどん剥がれているんだと思う。

何年もかけて作ってきた殻から出るのは、そりゃあ体力気力も消費するだろう。多分、春だから摩耗しているのもあるが、これもあると思う。
自分自身が変化することに、かなり体力や気力を使っているのだと思う。


自分というものが確立されてきてるせいか、言語化ができるようになってきた


唐突に元素への愛を語り出した

作品を委託している白鳥の停車場さんの、長、まあ、駅長さんに
「元素が好きな理由を三つ、ただそれを書けばいいだけなのよ」
と言われていたんだが

俺は「好きなものは好き」としか理解できていなかった。
好きに理由を言われても…

だって、小学生の時に沼に落ちてからこれしか考えてこなかった。ずっとそばにいる隣人だった。ずっと隣にいるものに、なぜ隣に置いてる?と聞かれても、理由が言語化できなかった。

何より、俺は言語化を封じられてきた闇の過去があり、特に自分の気持ちも自分の考えも言語化することがかなりの苦手であった。

だけれども、いきなり昨日、語り始めた。
捨てたい、と思う前なんだが。

俺も理由はわからない。いきなり出てきた、としか言えない。

少し分析すると、「俺は俺」と思えたところがあるのかもしれない。

人はたくさんいて、人の数ほどたくさんの価値観があって、それは許されることであるということ。
自分の解釈というのは、自分のものであり、それは批判されるものではないということ。つまりは解釈に正しいもクソもない、というごくごく当然のことをちゃんと理解できたのもあると思う。

かつ、やはり、自己肯定感が上がり、自分が何を話しても(まあ程々にだが)肯定してくれる人がいるという安心感もあるだろう。

そして何より、話して思ったのが
これこそがみんなが知りたい核心なのではないか、ということ。

元素がどうして好きなのか、ということ。

ずっと、どうして?と言われても、だって好きなものは好き、で押し通してきたからこそ、俺の本心的なものが見えず、「よくわからない人だなあ」と思われていた面があったのではないか、と思った。

というのも、俺は面白いほどに「何考えてるかわからない」とコンボ決めるほど言われてしまうので。サイコとも言われますね。いいですよ、認めませんけど。

まだまだ生まれたての自分

何度も同じ話をしている気がするが…

人生、色々ですね。
何十年と生きていても、俺は空があるように空っぽな人生でした。
中身もなく、芯もなく。ただ、怯えて生きてるだけの、歳だけ重ねた子供。

そこからやっと少しずつ自分ってものを獲得できて、浅い悟りと言われてしまうような、「自分らしく生きたい」なんて考えて。

今までの人生をもったいないなあ、なんて1%は思ったりしますけども、これがなかったら今がないわけで。さらには気づくのが今で良かったとも思います。60歳ぐらいで気づいていたら泣いてたでしょう。

まあ、まだまだすっ転んで、上手くできなくて喚いたりするんでしょうが。
少しずつ、ちょっとずつ自分らしく、自分として、

たかが、人間一人ですよ。こんな俺に批判とか揶揄とか、構ってる方がおかしいぐらいですよ。俺がロリィタで歩こうと、派手だと言われようと、俺は俺なんですよ。女じゃないなんて、俺や俺のことを理解してくれる人が理解していればいいことなんですよ。
みんな自分の人生で精一杯です。俺も、自分の人生で精一杯なら、それがちょうどいいんだと思います。

「俺は俺」
です。

それは押し付けることではなく、こうであるから、ほっといてくれ、の表明だとも思っています。理解できないなら、そっとしておいてほしい。理解しろ、と殴ったりなんかしません。無理に理解できるまでそばにいろ、なんて思いません。

多分、俺は俺だから、と一人で立つことも、自律とも言えるのかもしれません。


まあまだまだ、色々変化がありそうなので
その度に日記として書いて残しておきたいと思います。

終わり

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