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自分のほんとうに欲しいものを作るということ

俺はアマチュアの作家だ。今の今まで自分勝手に、自分の好きなように作品を作ってきた、つもりだった。

でもここ最近になって自分が本を作る意味、みたいなものを考えている。欲しいから作り始めたはずだった。
あれ?でも今、俺はほんとうに、「自分がほしいものを作っているのか…?」


みんなが食べられるカレー

結論から行こう。

俺は自分が作りたいものを作ってはいたものの、喩えていうならば「みんなが食べられるカレー」を作っていたんだと思う。

俺は元々自分でいうのもアレだが、独特でクセが強い。パクチー的な、好き嫌いがはっきり分かれるタイプ。人間的にもそう。

小さい頃からそんな自分は結構否定されてきた。いきなり闇。
好きなものも否定されやすくて「そんなものが好きなんて、」と揶揄われたり疎まれやすいタイプだった。


だから元々から自分の好きなものを「おいしいものです!!!みんな食べて!!!」と堂々できるタイプではなかった。自分は好きで食べるけど、みんなはそうじゃないかも…と、自分を出せる性質ではないのだ。

それでも自分が好きなものを食べたい。自分の趣味なものを作りたい。でも、みんなが、と 需要が、と
イベントに出て必要とされたこと、言われたこと、そういう方向性。勝手に受け取ったり鵜呑みにして、需要があるような

「これならみんなが食べれる程度の、俺好みかな…」
って作品を作ってきたんだと思う。

無意識に。意図していたわけじゃない。自分の背景とか自己肯定感の低さからそういう感じの弱々ないきものとしてふるまうしか出来なかったんだと思う。

そこから、自己肯定感が上がってきた今、やっとチリ積もりになってきた違和感と対峙したんだと思う。その違和感こそが、「自分が本を作る意味」でもあるんだと思う


ほしいものがなかった

元々、自分がものづくりをしている理由は、単純にほしいものがなかったからである。
特にそれは本で感じていた。図書館や田舎にある小さな書店には、自分のほしい本はなかった。子供向けのカラフルが特に嫌い。今みたいにくすみカラーが流行ってる時代でもない、レトロが流行ってた時代でもない時だったので、余計にだったと思う。

その飢えがあったから自分はものづくりをしている。
元々の自分が本を作る意味は、「自分がほしい本」を作るためだったはずだった


鈍麻な感覚

闇ないきものである俺。
とある友人から言われたことがある。
「九嶋さんは、本当はものすごく敏感なのに、わざと何も感じないように振る舞ってる」

うん…。自覚はあった。でも、その部分さえも正直鈍麻として見ないふりをしていたかった。

自分の違和感や嫌なことも、なんでも 感じないようにしていれば楽だから。ある種の思考放棄である。
自分というものがそこまで肯定されるいきものではないと自覚があるせいか、自己肯定感の低さからか、どちらもからか。

何年も作品を作ってきたのに、自分の中にある違和感を我慢できてしまったのはこのせいでもある。
いや、こうでもしないと俺は存在できなかったから、こうだったんだと思う。上記のように、そうふるまうしかできなかったんだと思う。

違和感を自覚し、以前の記事にもかいたが、「何もかもを捨てたい」とさえも思った。
自分の感覚ではないこと。自分が自分のために本を作っているのに、完全な自分好みカレーを食べれてない飢えがあまりにも高まったのもあるんだと思う。

自分が食べたいカレー、つまりは自分好みの作品が、もう俺以外が食べれないようなクセ強すぎカレーを食べれないまま俺は死ぬんか?自分で作ってるのに?誰のために?みんなって、誰…?

「お腹がすいた」が、はっきりわかったんだとも、いえる

鈍麻な自分が、殻を破って、自分の感覚で生きることを選択したのだとも思う。作品作りって、自分とこんなにも関わってるんだと実感する。


自分の感覚と、自分の「いいもの・好きなもの」

俺が尊敬しているイラストレーターさん、Neg先生。
配信で「良い絵ってなんですか」と質問したことがある。

回答としては「なんかいいって思うもの」と返ってきて、それが正直自分にはよくわからなかった。でも、回答していただけたことは嬉しくて、ちゃんと覚えている。

自分が今まで作品を作る上で常々考えてきたことは
「これだと、正しくないかもしれない」とか
「この色だと違うかもしれない」とか

自分が「好きだな〜」ってことは鈍麻、つまりは感じないようにして作ってきたところもある。全部がそうではないが。ちゃんと自分の好きにもやってきたはずだったが、振り返れば特に我慢したのが色の部分だった。

俺はあまりカラフルというものが好きではない。カラフルはカラフルでも、統一感のあるカラフルが好き。彩度は低めが好き。
でも、CPK配色とかを勝手に変えちゃダメだよな…とか。子供ははっきりした色合いがいいよな、とか。コントラストは高めの方が目につきやすい、とか。

作る上で考えていたことは、それらは、俺の「好き」ではなかった

なんかいいな、で作品をあまり作ったことがない。あるはあるが、いつもどこかに自分以外の価値が存在している。自分の主観的な「いいな」ってものはすぐに押し潰してしまって、下手に入手した他人の価値観がいつも先に陣取っていた

自分が、なんかいいな、はどこかで出会うだろう。と、遠い感覚だった。自分がものづくりをしているのに、自分がものを作れるのに。一番自分がほしいものを作れるのは自分だというのに、作れるちからが欲しくてものづくりしていたはずなのに

需要がなんだ、みんなってなんだ。

自分がほんとうに欲しいものが誰一人手に取らなくたって、別に良くないか?
売れないことは怖い、でも、自分がほしい本を、棺桶に一緒に入れる本を作れずに違和感と愛想笑いで死んでいく方がもっと怖い


本当のほしいものを作ろうとして、画面に向かっている今

自分という自我を押し潰してきたが、最近はニョキニョキと生えてきている。たけのこみたいな感じ。一気に伸びてきてる。

もし、自分が作るものが自分だけにしか需要がなく、自分だけしか食べられないクセ強すぎカレーでも、今は良いと思える。それでいい、と思える。何も怖くない。

自分を見てほしいと思っていた。けど、本当の全力の原液な自分を出してないから、分かりづらさに拍車がかかっていたのだと思う。中途半端ってものを作ることになっていたんだと思う。


色々がわかってきて、楽になって。
そうしたら気楽に作字ができた。


本のタイトル「元素蒐集」

自分がほんとうに欲しい、が少しずつわかってきている。
こういうのが俺は好きだったんだ、こういうのが「良い」って感じるんだ、と。
死ぬ前に気づけたことがほんとうに幸いだったと思う。


そして画面にまた向かってるわけだけど、
「これはいい……」
って思いながら色を塗ったり、編集しているのが新鮮で、新鮮で、すごく不思議な感覚だ。

この、不思議で、楽で、新鮮な感覚がある、ということをかきたくてこの記事をかいた。未来の自分がまた迷ったりした時に、これを読んで欲しいと思う。
今までだって楽しくなかったわけじゃない。やれる中で好きなことをやってきたから、過去だって辛いものだったというわけではない。

でも、心から好きなものを作るって、他人の事を考えなくてよくて、自分の感覚だけを信じて良くて
ものすごく楽で、ものすごく楽しいことなんだと思ってる。

迷ったら、自分の感覚に素直に頼ってね、俺。



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