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「考えることをやめる」とアドレナリン・ジャンキーのはなし


このままではしんどい、と気がついたときから、がんばって、意識して、「考えること」をやめるようにしています。人は望むと望まないにかかわらず「長く考えている方」に引っ張られるものだから、考えると落ち込んでしまうことの方が多いと人生はそちらに引っ張られてしまう。てことはあまり考えないで、脳ミソ空っぽお花畑状態でいるほうが、ヘンに考えるよりはるかにマシなのです。

たとえばわたしは視覚や聴覚で受けた刺激によって考えがあらぬ方向へ走りだすことにも気づいたので、なるべく自分にとって都合のよくないものは見ない、聞かないようにしています。味覚や嗅覚、触覚については、自分にとって美味しいもの、食べたいものを食べること、そうでないなら思いきって食べない(残す)、自分に望まない匂いがまとわりついているのがイヤなので整髪料関係はなるべく匂いのないものにする、あまり肌触りの良くないものは身につけない、ぐらいで特に敏感と言われるものではないと思っています。知らんけど。

自分がどの刺激に対してどの程度反応するか、なにが快や不快なのか、というのを改めて思い返すことは、自分のストレスを減らすことにつながりますよね。ストレスを減らすってどうしても自分勝手とかワガママと言われがちだし、「がんばって立ち向かう」「逃げちゃダメだ」を良しとする風潮の中では知らないあいだに罪悪感を抱えてしまうことでもある。だけどなんとなく、ほんとうに逃げちゃダメなことは自分でわかることなんじゃないかとわたしは思っている。そのときはわからなくても、「これ、逃げ続けてたらマズいヤツだ」といつか気づくときが来るか、ツケとして回ってきて痛い目にあうか。それまで逃げ続ければいいんじゃないかと思うんです。逃げ続けられたらラッキー。それは逃げ続けていいヤツかもしれない。

最近は「アドレナリン・ジャンキー」というのも気になります。そういう言葉があるのかどうかは知りません。アドレナリンが出る状態、なにかをやった、やり終えたという達成感だけを追いかけている状態。アドレナリンが出る、達成感が味わえるなら、極端な話、なにをやってもいい。こわいのは、それを「好きなこと」だと思っていることで、脳内で「好きだから夢中になれる」にすり替えてしまう。要は「依存」ですね。確かにそれは「好きなこと」ではあるんだけど、ときどきは立ち止まって、わたしは「好きなこと」に依存してないか?「焦り」からそれをやろうとしてないか?と振り返ってみようと思うのです。それをやらなくても、何もしなくても、誰の役にたたなくても、自分はそこにいていいのだ、と思えるかどうかだなと。


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