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その善意や正義は自己顕示欲や承認欲求かもしれない


マスクをしないなんてけしからんという風潮が行き過ぎると、「自分たちがマスクをしていない人に注意喚起をしてまわろう!」という善意で正義(のつもり)のボランティアが発生して、これが「すばらしい」「いいことだ」と賞賛され、「マスクをしていないのは悪」「マスクをしている自分たちは正義なのだから悪に対して何をしてもいい」となり、さらに進むと、戦争のときにお互いを監視しあった隣組みたいになるんじゃないだろうか。なんてことを想像したりしています。


このあいだ見た、あるYouTube動画で印象に残った言葉が、善意や正義のつもりでやっていることは自己顕示欲や承認欲求の可能性がある、ということ。たしかになあ、と思いました。ボランティア(日本で言われるボランティア)という言葉が、わたしはむかしから気持ちが悪い。小学生のころ、「みんなんでボランティアをやりましょう、優しい気持ちがあるならやるべき」的なことを強い口調であるクラスメイトに言われたことがあって、「は?」となりました。知らんがなと。やりたいなら自分だけで黙って、またはやりたい人だけでやればヨイのです。わたしのように「それ必要?」と思っている人にむりやりさせるものではないし、やらないからといって非難されることでもない。ほんまごめんやけど知らんし、って感じでした。いくら正義、正論であっても、やりたくないことはやりたくない。自分が冷たい人間なのかな、と思ってこともあったしそれも多々あるんでしょうが、ボランティアに限らずなんでも「やらないのはひどい、ずるい」と言ってくる人は、ほんとはそれをやりたくてやっているのではない人、つまり「ほんとはわたしだってやりたくないのにあんただけやらないなんてずるい」と思っている人です。ほんとにやりたくてやっている人は、やらない人にとやかく言ったりしません。


自己顕示欲や承認欲求は、程度の差がありこそすれ誰もが持っているもの。なので、それを認めて、自分の中で「良かれと思って」とか「これが正しいのに」とかが出てきたときは「いやこの気持ちは単なる自己顕示欲では?」「良かれや正しさを言うことで承認欲求をごまかしてないか?」と自分を点検したいものです。



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