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【代表インタビュー】起業のルーツは貴族に憧れた幼少期? 人を守り助けるために、強く、そして豊かになりたい

オフィスづくりを通して〈「やってみよう」が自然と生まれる“場”をつくり続ける〉をミッションに掲げる木下商会。

木下商会のオフィスはというと、代表の村山さんを中心に四六時中さまざまな話題(たまにSOS?)が飛び交っています。

進行中の案件の話題はもちろん、雑談からいつの間にかビジネスの話に切り替わって熱い会話が繰り広げられていることも……。
メンバーにとってはこんな光景も日常ですが、こんなにも自ら社員とコミュニケーションをとる社長はそう多くはいないはず。

今回はそんな、ちょっと変わった村山さんを知るべく、学生インターンによる前半・後半二本立てのロングインタビューを実施しました。幼少期から現在までのエピソードを通して、起業に至った経緯や現在の仕事観から組織づくりについてまで、深堀りしていきます!

村山 太一
株式会社木下商会代表。インテリア雑誌の編集やオフィス家具の販売・オフィス構築を経験したのち、ヒトカラメディアでオフィスのプランニング事業部を立ち上げ、マネジメントを行う。その後独立し木下商会を創業。現在はオフィスが機能性やナラティブ以外のポテンシャルを発揮できるようにすることを目指し、「働く場」をより面白くする仕掛けや仕組みづくりを展開している。

人を守りたいし助けたい。そのために強く、豊かになる

━2024年の1月で会社を設立して5年が経ちましたが、現在の木下商会をどのように捉えていますか?

人が増えて組織が大きくなりましたし、仕事の量はもちろん、幅が広がってきたのはとても嬉しく思う一方で、まだまだ「力」が足りないなと思っています。これからはもっと「強い」会社にしていきたいんです。

強い会社いうのはつまり「力のある会社」。会社にも、そして自分にも「力」が欲しいです。
力が欲しいと言うとなんとなく聞こえが悪いけど、自分の信念を貫いて何か行動を起こしたいとき、僕たちは「力」がないと何もできないんですね。

僕の場合は昔から「人を守りたい・助けたい」という想いがあって、それが会社を立ち上げる原動力にもなりました。ただ、こういった想いを実現しようとするとき、「力」がないとできることにすぐに限界が来てしまうんです。

それこそ最近、オフィスでの雑談のなかで「もっと力があれば」と思ったことがあって。「社員の海外研修プログラム」の話題だったんですけど、海外研修は会社として社員の「助け」になれることですし、僕的にはすごくアリ! 行かせてあげたいと思ったんですが、まだそれを実行できる「力」が自分にも会社にも足りていないんです。こういうときに力不足を感じますよね。

自分と会社が「力」を持って強くなることで誰かを守りたいし助けたい。だから強く、豊かになるっていう順番で考えています。

いつも通り、リラックスしながら話す村山さん

起業の原体験、「貴族」に憧れた幼少期

━先ほどの「守りたい・助けたい」という言葉ですが、なにかそういった想いが芽生えるきっかけがあったのでしょうか。

きっかけがあったというより、物心ついた頃にはすでにあった感じですかね。というのも僕、幼い頃は「貴族」になりたかったんですよ(笑)
小さいときから本や物語が好きだったんですけど、そういうものの影響で貴族に憧れがあって。

当時の僕の貴族のイメージって、「王様の下にいて、何かいいことをしている人」。もうちょっと言うと、「余裕があって人を守る人」、「市民を緩やかにリードする人」みたいなイメージでした。

その頃は幼かったので自分が努力すればなれるものだと思ってたんですけど、物がわかっていくうちに気付いちゃうんですよね。「あれ、普通の家からだと貴族になれない!」って(笑)
それはもう物凄いショックを受けましたよ。今でもめちゃくちゃ覚えてます。

そんなこともありつつ、その後の学生時代も「人を違うことがしたい」って常々思っていましたし、完璧主義で目立つことが好きなタイプだったので、中学校では生徒会長をやったり、進学先の高専(高等専門学校)では「建築シンポジウム」(現:全国高等専門学校デザインイコンペティション)という、全国の高専生がデザインや設計を競う大会の実行委員長をやったりしていました。

今思うと僕が起業を志したのは「貴族への憧れ」という原体験があったからかもしれないですね。
生徒会長や実行委員長の経験ももちろん影響していると思いますが、それも幼少期の「貴族への憧れ」があったからこそ立候補して請けた役割ですし。

お子さん2人の成長と共に、自身の幼少期を振り返ることが増えたという村山さん

「今の自分にはなんの力もなくて、何もできないじゃないか」

—起業・経営の原動力とも言える「守りたい・助けたい」という想いを幼少期にすでに抱いていたとは驚きです!

ただ「想い」と「力」の関係を考えるようになったのは20代になってからです。
きっかけは東日本大震災でした。

当時僕は東京にいて、新卒で入った出版社を辞めて転職活動をしながらアルバイトをしていました。連日の被災地についての報道を横目に面接とバイトに追われる生活です。そしてある日ふと思ったんですよね。
「あれ、俺なんでこんなことしてるんだろう」って。

「何のために勉強してきたんだっけ」、「何のために働こうとしてたんだっけ」、小さい頃から人を守りたくて、助けたくて生きてきたのに、大人になった今の自分にはなんの力もなくて、何もできないじゃないかと。

もういても立ってもいられなくなって「誰かのために何かしたい」と想いのままになけなしの2000円を赤十字に募金したんです。しばらくして領収書と「ありがとう」って書かれた手紙が返ってきたんですけど、2000円の寄付に手紙を返してたら、実際に現地に届くのはごくごくわずかな金額ですよね。

優しさや思いやりをもって行動を起こしたいというときも、「力」が足りないと本当にわずかな変化しか起こせないと。そのことに気付いてさらにショックを受けました。
「想い」はあっても「力」がない。そんな自分自身が恥ずかしくなり、このとき明確に「力」を持ちたいと思いました。

「江頭2:50」という「実力」

震災のときに本当にかっこいいなって思ったのが、江頭2:50さんの話です。
彼は当時、被災地に救援物資が届けられていないという報道を目にして、「ならば自分が!」と自ら福島に駆けつけたんですよ。

被災地でガソリンが入れられない時期に、 自分自身の知名度や人脈を使ってトラックを借りてガソリンを積み、食料も自前で調達して、自らの運転で現地に向かうんです。
現地での目撃情報が拡散されるまでは話題にもならず、ひっそりと支援を繰り返していたらしくて。

この話を聞いて、そういうのってまさに「力」だなって。ガソリンも食料も、当時誰もが切実に求めていたものを自分の力で被災地に届ける「力」が彼にはあったんだなと。

彼は「 江頭2:50という実力」を使って現実を動かすことができた。
結局は現実を動かせる・変えられる「力」があるかどうかなんだなということを、さらに強く思いましたね。

—震災時の経験が冒頭の「力を持ちたい」に繋がるんですね。

そうですね。人の助けになりたい、なにかしてあげたいって思ったとき、頭で考えることは簡単だけど実行するためには「力」が必要なんです。

僕は、2000円を寄付したときのような力不足の中で絞り出す優しさではなくて、「幼少期の僕が憧れた貴族」のような余裕のある優しさで人を守りたいし助けたい。そのために自分自身に「力」を持たせなくてはいけないと思いました。特に「実行力」、現実を動かす力です。

「こうしたい、ああしたい」という想いやアイデアは、実行して現実を変えて、そこではじめて意味のあるものになる。仕事でも困ったときには実行力こそが効いてくるし、本質的には社会はそれしか求めてないんだなとさえ思いますね。

「クリエイティブな仕事」があるのではない。「どんな仕事でもクリエイティブにできる」

江頭さんの話を効いてかっこいいと思うと同時に自分自身に本当に落胆しました。けど落ち込んでいるだけでは現実を変えられないですよね。とにかく自分も被災地の力になりたいと思って状況に詳しい友人に電話したりボランティアの求人を調べたりしました。そこで「損害保険の査定の人員が不足している」っていう情報を耳にしたんです。

当時はアルバイト生活で身軽だったので、すぐに東京を出て現地に向かいました。正直「自分なんかに何ができるんだろう」って思ってたんですけど、行ってみたら思ったより役に立ったし、得たものも大きかったんです。

たとえば僕は、会社で頻繁に「クリエイティブな仕事」があるのではなくて、どんな仕事でもクリエイティブにできる、という話をするのですが、このように考えるきっかけになったのがこの損害査定の仕事です。

損害査定というのは、保険金額を算出するために損害がどの程度なのかを調査する仕事なんですが、集まった人は自分含めて素人でした。
とにかく人手不足だったので、現地に着いたらすぐに軽く仕事の仕方を教えてもらって、「じゃあ行ってきて」みたいな(笑)
もう、行くことの方が優先みたいな状況で始まりました。

もちろん分からないことや判断に迷うタイミングが出てくるんですけど、その場合は専門家に問い合わせれば後で教えてくれます。けどそうなると、僕は目の前の人にすぐに対応できない。そういう瞬間に何度も遭遇するんです。
これってものすごく心苦しくて。

ただでさえ大災害によって大きな損失を被っている人たちに、保険の説明もまともにしてあげられないのかと。

村山さんが撮影した当時の写真

ただ、「どうにかこの状況を変えなくてはいけない」と思ったとき、「自分が専門家と同じくらいの知識を持っておけばいいんだ」ってことに気が付いたんです。

保険の概要と中身を詳しく調べたり、どうやってお金が支払われるのか、政府の方針がどうなのかっていうのを知識のある人に教えてもらったりして、取り込めるだけの情報を取り込みました。そうやって得た情報を査定の話に織り交ぜてお客さんに説明するようにしたんです。
そしたら分かりやすくお客さんの反応が変わってきて(笑)  ものすごく喜ばれるようになったんです。

お客さん自身も分からないことが散在してる状況で、査定の仕事の範囲だけじゃなくてその周辺情報を伝えることで一種の不安みたいなものを取り払えていたんだと思います。

仕事だから最低限のラインをクリアできればいいっていうスタンスの人もいたし、状況的に神経質になってしまっているお客さんが多いのもあってクレームの絶えない仕事ではあったんですが、僕が担当するお客さんは「丁寧に教えてくれてありがとう」「不安が減った」とみなさんものすごく感謝してくれて。嬉しかったですよね。こんな自分でも誰かの役に立てるんだって思いましたし、仕事のやり方を工夫するだけで大きく結果が変わることに気づかされました。

成果を認めてもらえたのか、最終的には派遣先の社長直々に責任者という役職もいただきました。結局半年くらい現地にいましたね。

クリエイティブと聞くと、いわゆる「クリエイター」と呼ばれる人がいて、そういう人たちにしかできない仕事があるのかなと思いますよね。制作や出版などは「クリエイティブな仕事」というイメージだし、憧れる人も多い。過去には僕も「出版社への就職」にこだわっていた時期がありました。
けど実際には、「クリエイティブな仕事」があるというより、「クリエイティブに働くか/働かないか」でしかない。どう工夫するか、すなわちどう働くかがクリエイティビティで、「クリエイティブな仕事とそうじゃない仕事」みたいに業界で区別する認識は間違っているかなと思います。

—あらゆる仕事が「クリエイティブに働くか/働かないか」という話は私も好きです。今まではなんとなく「クリエイティブな仕事と、そうじゃない仕事」という線引きをしていたんですが、この言葉で仕事や職種に対する考え方が変わりました。

たとえば木下商会はオフィスの内装が事業のメインですが、僕たちは「内装のデザイン」という業務そのものに工夫を凝らすのは当たり前で、その上でコミュニケーションの仕方や発信の方法、組織のあり方にまで思考をめぐらせて試行錯誤することではじめて「クリエティブに働いている」と言えると思っています。


前半では「貴族」に憧れた幼少期から、自身の「力の無さ」を実感した二十代前半、そして保険査定の仕事を通した「クリエイティブ」の解釈など、村山さんの仕事観の原点となるようなお話を伺いました。

後半では起業のきっかけや組織づくりの苦悩、これからの木下商会について、語ってもらいました。更新をお楽しみに。

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