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つまらない授業

大学を出てすぐに見た「子ども達主体の授業」

大学を出てすぐの時の話。
バイト先で知り合った小学生から「うちの学校の授業見においでよ!」と誘われた。興味があったので、誘われるままに保護者の方から資料をいただく。都内の有名な大学附属小学校の公開研究会だった。

そして当日、国語の授業を参観した。
その時の感想を今でも覚えている。

「教師は見ているだけでほとんど何もやってないじゃないか」
「何の勉強にもならない。授業の上手い先生はどんな言動をするのかを知りたかったのに…」

今思い出しても浅はかで、未熟な感想だったなと思う。
私がその時参観していたのは、5年生の国語の授業。
最初の5分程度、授業者が前時の内容と本時の流れの確認を子ども達と行い、あとはグループごとに動き出した。細かい内容は忘れてしまったが、あまりにも授業者が動かないので「つまらない授業だなぁ」と思いながら、ただ漠然と子ども達の動きを見ていた。
そしてそのまま授業終了の合図となり、参観が終了した。

研究授業への期待

今私が教室で行っている授業は、いわゆる「一斉授業」の反対をいくスタイルです。最近は板書をほとんどしていませんし、学びのペースも子ども達が決めています。(もちろん「一斉授業」をする日もあります。その時々、子ども達の実態にあわせていった結果そうなったという話です)
そしてふと思い出したのが、先に述べたある大学附属小学校での研究授業です。「つまらない授業だなぁ」と思ったあの授業の様子と、今の自分の授業の様子が重なるんですね。当時の私が今の私の授業を見たら「つまらない授業だなぁ」と言うでしょう。
授業者の素晴らしい教育技術を期待して参観していたのだと思います(教育技術ももちろん大事)。そのため、子ども達が「どのように学んでいるか」は全く見ていませんでした。
「学習者からの視点」に考えを巡らせていなかった当時ですが、最近の私の興味の大半はその「学習者からの視点」です。学校の授業中、どんなことを考え、どんな学び方を選択し、力をつけているのか。そしてその前提として必要な学習環境とはどのようなものになるのか、授業者として彼らの学びを支えるために必要なことは何なのか…といったことです。

さて、学校という場所は「学び方」を学ぶ場として機能しているでしょうか。
当然ですが、「自分なりの学び方」が自分の中にない人は学習効率が悪いです。基本的に授業をデザインするのは授業者である我々であるため、子ども達は受け身になりがちです。授業内容がどうこうという話ではなく、システムとしてそういう構造になってしまっているということです。
ではこの「授業をデザインする」という部分を少しずつ子ども達に委ねていけば、子ども達の学習力は上がっていくのではないか、ということを今年度のテーマとして実践を続けてきました。

また気が向いたらまとめます。

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