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広い世界に誰か一人くらいは #私だけかもしれないレア体験

こんな経験をしたのはわたしだけかもしれない。
だけど世界は広いんだから、もしかして似たような経験をした人がいるかもしれない。いないかもしれない。日常的に電車が走っている地域ならあるかな。無いほうがいいけど。

20代の頃、東京に住んでいた。
その日は仕事で遅くなったのだったか、それとも友だちと飲んでいたのかもう忘れてしまったが、まださほど深夜でもない時間にひとりで電車に乗っていた。電車は東京の割に混んでおらず、座れなかったけれど人と人との間は十分に空いていた。わたしはドア脇のポールにつかまってぼんやり暗い外を眺めていた。

降りる3つくらい前の駅に着いたとき、もたれかかっていた側のドアが開いた。目の前を何人かが降りていく。そして入れ違いに何人か乗ってくる。最後の人が電車に乗ろうとした時それは起こった。

その前の一団と同じように、最後の人もサラリーマン風の男性だった。少々酔っていたと思う。酔ったサラリーマンなんて夜の電車にはゴマンと乗ってくるからどこにでもある風景だ。だけど乗り込もうとした瞬間、わたしの目の前でそのおっさんは、消えた

いや消えてない。正確に言えば、半分、消えた。

わたしは咄嗟にその人の片腕を自分の両手で掴んだ。ショルダーバッグを肩にかけていたから両手が空いていたのだ。消えたのはその人の下半身で、その酔っぱらいサラリーマンはホームと電車の間のわずかな隙間に片足を落としたのだった。

「だ、大丈夫ですかっ?」

あまりのショックにわたしは叫んだ。
叫びながら自分より大きなおっさんをよっこらしょとひっぱって引きずり上げた。もちろん本人も自力で這い上がったのだけど。とにかくあまりにも突然で驚いた。

「大丈夫です…」

その人は小さい声でモゴモゴ言った。

大丈夫ですと言われたので次の言葉が出てこない。でも怪我をしているかもしれない。本当に大丈夫なのか、と思ったとき、その人はキョロキョロとあたりを見回したかと思うと突然電車を降り、スタスタとどこかに歩いて行ってしまった。

(ええええええ?)

ドアが閉まる。電車が動き出す。

(ええええええええ?)

割と空いた電車の中で、さっき「大丈夫ですか!」と大きな声で叫んだ自分だけがドア脇にぽつんと立っていた。人々がこちらを見ているような気がする。わたしは突然、猛烈に恥ずかしくなってどこかに隠れてしまいたくなった。

なんで?

なんでこんないたたまれないの?

恥ずかしいのは片足落としたサラリーマンだろうが!

だけど電車に乗り合わせた人々は、みんな目を合わせないようにこっそりコチラを見ていた。まるで酔っ払って落ちたおっさんの幻影がわたしに映っているみたいに。
やーん!!


そんなわけで降車駅に着いてドアが開いた時、心底ホッとして逃げるようにその場を離れたのだった。

階段を降りながら、改札を通り抜けながら、わたしはちょっと怒っていた。何で自分が後ろめたいような恥ずかしいような気持ちにならなきゃいかんのか? 恥ずかしいのはあのおっさんだろうが。理不尽だ。理不尽に恥ずかしく情けなく、モヤモヤを持て余しながら商店街を抜けて家に帰った。20代の半ばでまだ独身の頃だ。

あのサラリーマンは今どうしているのか。足は絶対どこかぶつけていたし、下手すると股関節とか腰とかやっちゃってたんじゃないか。
今はもうモヤモヤも覚えていない。遠い昔の名も知らぬ彼の健康を願うばかりである。

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