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ライターさんからもらったアドバイス

 大学生の時、父親に自分の書いた文章を見せたことがある。
 そんなことをする理由は知れていて、父親に向けた承認欲求である。と言いたいところだが、父親が偶然ライターで、ぜひプロの胸を借りて添削をしてほしい、という感情もあった。

 僕が二十歳前後だったので、父は四十前後の時だ。仕事に脂がのっている時期で、信じられないほど素早く目を通した末に、期待に反して父はそっけない態度で「これ、俺なら半分くらいにできるよ」と言った。それから「誰に向けて書いてんの?」と続けた。

 むっとしたが、何も言い返せなかった… と思う。ひょっとしたらその場しのぎで何か言い返したかもしれないが、本質的には自分が誰に向けて書いているのか、分からなかったはずだ。(なぜならそれは、いまだによく分からないからだ)

 そしてその後、父は僕に推薦図書を紹介した。ヘミングウェイ、ブローティガン、キング… どの作品もドライでつきはなしたような文体がかっこよかった。アメリカ文学の特徴なのか、はたまた訳者の好みなのか。これらのほかにも、さまざまな本を僕に紹介し、貸してくれた。

 いう通り、確かに僕は冗長になりやすい。あの時の「半分にできる」は、大切な忠告だった。

 しかし、もう一つの指摘はどうだろう。
 「誰に向けて書いている?」それは今も悩む。肉の繊維質の部分ようにずっと飲み込めず、口の中でくちゃくちゃになって残っている。

 妻は日本画家だ。「どうして作品を描くのか」という根源的な疑問の答えを、僕は彼女に見た。すなわち「試したい表現がある」だとか「あれが描いてみたい」とかいう気持ち。そういった動機で絵を描く。

 しかし彼女の中に「誰のために」という事はなさそうである。自分がやりたいことをやるようだ。そうしてできた作品に、価格が付いて売れていく。 描きたいように描いて「一体誰が受け入れてくれるのか」と試すような道を辿っているのを、僕は見ていた。

 最近「市場はキングを待っている」という山田玲司先生の言葉が、僕の奥深いところに刻まれた。

 売れるために作品を作る作家が、結局は読者および市場の奴隷になってしまう、という比喩があった。その文脈で「読者はキングの降臨を待っているのにね」と言ったのだ。読者としては、これほど的を得た表現もないと思う。

 とはいえ食っていくために「売れるために」という思考があったとしても、それは戦略的な証拠であると僕は思う。

 僕はサラリーマンなので、売れるためにはという焦りとは別の次元で書いていられる。それは大変、結構なことだと思う。

 いうまでもないことで、書きたいように書くことと、キングになれるかはまったく別の話だ。

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