『AIの遺電子』に見るサイボーグとしての人間

現在放映中の『AIの遺電子』(原作2015-2017)は高度に進化したAIを持つヒューマノイドが一人種のごとく人間社会に溶け込んだ社会を描いており、一見まさにSFという物語だが、そのテーマ性はむしろ人間に馴染みあるもののようでもある。

人間と機械

例えば第1話の「バックアップ」は『攻殻機動隊』におけるゴーストダビングだが、本作の対象は人間ではなくヒューマノイドだ。第4話の「賢者スイッチ」は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の一行目から登場する情調(ムード)オルガンと同様で、やはり人間ではなくヒューマノイドが使用する。第5話の「治療すべきなのか」という問題もまた人間の精神疾患治療(特にパーソナリティ障害)では頻出する。

「我々はサイボーグである」という言葉があるが(ダナ・ハラウェイ)、サイボーグとは人間と機械の混成体であり、機械とは好きに操作(外的な制御や改造など)できるものと言える。人間はディープフェイクにより(まだ未熟ではあるが)コピーしたり、医術によって情緒・人格を調整したりできると考えると、身体はある意味で既に「機械化」しているのだ。

こうして見ると『AIの遺電子』の多くのエピソードは、まさに「サイボーグとしての人間」を扱っているかのように思われる。正確に言えば「サイボーグとしての人間」のものとして語られてきた諸問題が、ヒューマノイドの問題として語り直されている。

つまりはあまり斬新でない、という話になってしまいそうな指摘だが、一方この作品の強烈なまでのリベラルさを思うと別の面も見えてくる。

サイボーグとして

冒頭に「ヒューマノイドが一人種のごとく人間社会に溶け込んだ社会」と書いたが、例えば古典的「AIの叛乱」系作品は言うに及ばず、『Detroit: Become Human』でもアンドロイドが叛乱を起こして奴隷的状況から脱却できるかどうか、という状況であり、全く同等な社会を(AIについての作品で敢えて)描くというのは珍しいように思う。『Detroit』でもかなりリベラル(革新的、あるいはアンドロイドも含めた意味で自由主義的)な印象だが、本作は更にその遥か先を描いている。

そして「我々はサイボーグである」という主張も、非常にリベラルな文脈を持っている。ハラウェイは「人間と機械」のみならず「精神と身体」、「男性と女性」(出典の『サイボーグ宣言』はフェミニズム論文である)といった西洋式の二元論(二項対立)の破壊を目指したという。であれば我々もまた、「人間とAI(ヒューマノイド)」という対立を捨てて作品に向き合うべきではないか。

この観点からすると、ヒューマノイド「特有」の問題などというものは存在しない筈だ。人間もヒューマノイドもただサイボーグとして、境界を失った生物と機械のどちらでもない(どちらでもある)ものとして混ざり合う。つまりヒューマノイドの問題が人間の問題と同質なのは必然なのだ。

辺縁のAI

一方で本作には典型的「感情のない」AIも産業AIとして登場する。第3話など見ると社会的な扱いが物であり、『Detroit』的な制度的差別を受ける存在になっている。

ヒューマノイドが上述のように全く人間と同等であるからして、産業AIのこの扱いは一層印象的である。ヒューマノイドが辺縁的な存在でなくなったことで、この社会には産業AIという別の辺縁が顕在化している。

人間型の産業AIが首輪で明示されているのも示唆的で、他にもパーマくんのような機械的身体、抑揚のない喋り方といった記号で人間・ヒューマノイドとは線引きされている。ではその区別が揺るがされるのは、と言うと結局のところ感情の有無なのだ。

産業AIでも感情があるように見えると人間(ヒューマノイド)らしくなり、また第7話では(外見上)人間でも感情がないように見えると産業AIらしくなる。

こうして「人間とAI」が「人間と産業AI」に繰り越されている状況にも本作がメスを入れるのかは今のところ分からないが、ここで思い起こされるのは2021年『Vivy -Fluorite Eye's Song-』におけるAIの「精神性」とも言うべきものだろう。次の記事でその話をしたい。


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