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さようなら、倉上慶大さん。ポッドキャスト、ありがとう。

こんにちは。クライマーのKinnyです。

昨夜、ニュースで、プロクライマーの倉上慶大さんが、亡くなられたことを知り、ショックを受けています。

私は、生前の倉上さんとは、一度の面識と数回のやりとり程度の交流しかありませんでした。

しかし、倉上さんが作ろうとされていたポッドキャストが、とても良い内容だった…というのを覚えています。

こちら…、雨猿ラジオです。

ゲストが超豪華。若い方も出ていました。どちらの意見も聞けるのが、良さかなぁ。

倉上さんの声がダンディで渋く、かっこいいです。

■ どんな環境にあっても、才能は芽を出すものだ

倉上さんは、クライミングのキャリアが印象深い方でした。

私自身は、クライミングは、講習会を利用しながら、独学での勉強も重ね、ガイドの資格も取りつつ…メンターもいる、みたいな形で、一般的なクライマーよりも、創造的学習スタイルかなと思います。海外まで一人でも登りに行けますが、そういう人はかなりレア。現代のクライマーの多くは、多くが独学です。

なので、独学力でクライマーの着地点が違ってきます。

クライマーが100人いれば、98人はボルダリングジムです。そのうち、2名が外岩に進みます。そのうち1名が本格的なクライミングを実践します。

しかし、そうしたクライミング教育環境としては、乏しい環境でも、強烈に才能を開花させるクライマーもいて、その一人が倉上さんです。

相当に独学能力が高い方だったのでしょう。

こちらが倉上さんのプロフィール。
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高校山岳部でクライミングに出会い、
大学進学を機に移り住んだ新潟で、ボルダリングにのめりこむ。
ハイボルダーを登るボルダリングに傾倒したのち、
トラッドルートやマルチピッチルートの開拓、
海外でのビッグウォールクライミングなど、活動範囲を拡げる。
ーーーーーーーーーーーーhttps://keitakurakami.com/about/  より引用

同ラジオによると、大学の時は一時山を辞めていたようでした。

高校山岳部→ボルダリング→ハイボル→トラッド&マルチ→海外ビッグウォール→開拓、というキャリア形成が、大変興味深いです。

山岳部からボルダリングに進む人は、かなり多いと思いますが、一般的にはそこで終わりそうです。外ボルダーに進んで有段者になったら、承認欲求が満たされて、満足してしまう人が多いように思います。今時、5段を登る人とか、ジムに行けば、結構いますからね。

しかし、倉上さんの快進撃は、そこから…クライミングの歴史を塗り替える登攀がいくつも続いたのでした。そこが驚きです。

参考:マラ岩西面ついに陥落


ボルダーから、ハイボルに進む人は、珍しいのではないか?
ハイボルから、トラッドやマルチに進む人は、さらにとっても珍しいのではないか?

と思いました。トラッドやマルチは、老人憩いの家化しています(笑)。

どういう経緯で、マラ岩をやることになったのかなぁ。

また、海外ビッグウォール…ヨセミテのことでしょう…から、開拓に流れるのは、分からないでもないですが、その辺の経緯なども興味深いなぁ…と思いました。ヨセミテから、フランスの石灰岩とは進まなかったのかな?

開拓ですが、泥臭いというか、面倒な作業が多いので、普通、一般クライマーは、登る欲求が先立ち、作業の多い開拓は、あまり好きでないことが多いからです。開拓は、高齢クライマーの名誉職みたいな一面があります。

というわけで、キャリアの矛先が渋いなぁと思ったのでした。倉上さんは、上手すぎて、もう自分の登りたい困難な課題が無くなってしまった人なのかな?開拓は、多くのクライマーが行き着く先です。

彼の次の一手は何だろうか?と多くの人が期待をよせて見守っていたのではないかと思いました。

■ 主な登攀記録

同サイトより引用。
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Yosemite / The Noseのロープソロ・フリー、二子山 / Mare (5.14c)のロープソロ・フリー、秩父 / The V(5.14d/15a _初登)、小川山 / Pass it on (5.14+ R_初登)、瑞牆山 / 千日の瑠璃(5.14a R/X_初登), U.K. / The Walk of Life(E9 6c)、三峰 / 三輪車(5段_初登)、屋久島 / Discovery (Un-Graded_初登) など。
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■ UIAAの窓口になってくれた

私は単なる一般クライマーですが、インスボンへ登攀に行った折、韓国の登山ショップに、『登山総合ハンドブック』(UIAA監修)の韓国語版が置かれているのに気が付き、その日本語版の出版依頼をUIAAに出したことから、事務局長と知り合うことになりました。

その事務局長の依頼で、日本でクライミング教育に興味がある人材を紹介してほしいという依頼がありました。ほとんどの全員のクライミング業界の大御所と連絡を取りましたが、誰も反応してくれず、反応があったのは、倉上さんでした。

もちろん、ちょっと挨拶してくれただけで、UIAAとの間には何かが起こったわけではなさそうでしたが…。

なんかちょっと嬉しかったんですよね。

とっても優秀で、親切な若い人って印象でした。少しも自分の業績を鼻にかけたところがなく、どちらかというと、もっと威張ってもいいくらいなんじゃないか?とすら感じるほど、謙虚さを感じさせるクライマーでした。

うれしかったので、パタゴニアで開催された講演会に出かけて行ってお会いしたことがあるのですが、私があまりに普通の人の雰囲気で、とてもクライマーには見えないと思ったのでしょう…、え?こんな人がクライマー?と少し驚いていたような気がしました。

日本クライミング史に1ページを加えた、偉大なクライマーが、こんなにも早く世を去ったことが惜しいと思いますが、クライミングで、誰にも成し遂げることができなかったことを成し遂げた、ということは、彼の人生の真実であると思います。

また、彼の残した良きもののうちの一つが

 雨猿ラジオ

であると思うので、ぜひみなさん、聞かれてみてくださいね。

心より、ご冥福をお祈りいたします。

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