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"怪物に出会った日"を読んで

本人不在がより本人を際立たせる名著

"Still undefeated!!!! Monster INOUE!!!"
何度聞いても震える井上選手の呼び名。無敗のモンスター、井上尚弥。

私はボクシングにそこまで明るくなく、井上選手はWBSSで快勝を続ける頃ようやく名前を知り、2019年のドネア戦で初めて試合を見たぐらいにはニワカである。あの頃は個人的に仕事が辛く、しのぎの削りあいになった名試合を仕事帰り立ち飲み屋で見ていた。ビールをしこたま飲みながら、カウンター上の小さなテレビを見つめひとり涙を流した覚えがある。そこからは井上選手が大好きになり、全試合しっかりリアルタイムで追っている。硬派な好青年のイメージは、勝ち数を重ねて行く中でもずっと変わらない。

著者の森合さんは、そんな井上選手の強さを、上手に言語化できず困っていたそうだ。(確かに井上選手の試合は、目にも止まらぬ速さのKO劇が多く、一瞬で終わってしまう。試合の後、傷ひとつない綺麗な顔で爽やかにインタビューを受け、そのまま解説席で自身の試合の解説を笑顔でしていた時にはたまげてしまった。)そこに、編集者の坂上さんの"敗者に話を聞く"というひょんなアイデアから
、5年に渡る本著のインタビューがはじまる。

名試合を彩った相手選手の言葉を丁寧に拾うことで、井上尚弥という選手がどんどん浮き彫りになってくる。森合さんの丁寧な取材により、はじめはあまり語りたがらなかった選手も、しだいにほろほろと本音をこぼしていくのが手に取るようにわかる。また、その選手の周辺人物にもインタビューを行うことで、より相手選手の人物像が浮き彫りになり、結果は分かっているのに"勝てますように"と願わずにはいられない。

井上選手との敗戦後、引退する選手もいれば、もう一度奮起して、チャンピオンに返り咲いた選手もいる。敗戦から自分のタイミングを掴めず、いまだにトンネルを抜けられない選手もいる。全員が全員、井上に敗戦後爽やかなその後を送っているわけではないのが、なんだか人生のリアルさが身に迫り切なくなる。

計11人のエピソードの中で、私が最も心に残ったのは、プロテストで井上選手の相手となり、もっとも井上選手とスパーリングをしたという黒田雅之選手。不器用なコミュニケーションが時に人を遠ざけてしまうけれど、真摯なボクシングへの姿勢が次第に周囲の人を巻き込んで行くさまに、胸がとても熱くなった。"黒田さんとのスパーリングは嫌だった"とのちに井上尚弥が言う、モンスターをモンスターたらしめた練習の立役者でもある。

彼(井上)はすごくハングリー。強くなることの『飢え』っていうんですかね。ものすごく感じました。──(略)──それはボクシングを辞めたとしても生きるうえで必要な精神だと思うし、僕もずっと持ち続けたいと思います

怪物に出会った日 - 森合正範

この本の登場人物全員が口にする言葉、それは「規律」である。格闘技はどうしてもその競技の特性上、荒くれ者やカウンターカルチャーのイメージが強いが、強くなるには才能や体格以上に、「地味なメニューをコツコツとこなし、規律をしっかり守る真面目な心」が大事なのだそうだ。

ついつい何でも楽な方に逃げ、"なんとなかるさ"で日々のタスクを先延ばしにしがちなわたしには、彼らのまっすぐな強さへの探究心が眩しく、自分の怠惰さが恥ずかしくなった。

ボクシングだけに関わらず、「これは自分には超えられないかもしれない」という壁は、人生において誰しも何度も現れる。それに対峙した時の心の持ちよう、負けてしまった後の精神の立て直し方、負けた事実をそのまま誇張も卑下もせず受け止める大事さ、が、この本にはぎっしり詰まっている。これからの人生で、行き詰まった時に道を照らしてくれる灯火のような一冊に出会えたこと、本当に嬉しく思います。

追記
私の大好きなラジオ"角田龍平の蛤御門のヘン"にて、作者の森合さん、編集者の坂上さんがゲスト出演していました。森合さんは本当に穏やかな語り口で、選手がついポロッと本音をこぼしてしまうのがよくわかる。ユーモラスな坂上さんと、角田先生、森合さんの掛け合いがとても面白いので、少しでも気になった方はぜひ聴いてみてください!

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