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今日という日に

またまた、大分ご無沙汰しました。
三日坊主、すぐ途中下車〜😅

先週、母から『父の1周忌』の連絡がありまして…

なんだか、モヤモヤ…
少し家族の事を考えた…

直接は関係ないのだが…
約10年程前に亡くなった叔父を思い出した。
オシャレで潔い叔父夫婦を忘れずにいたいので、備忘録として。

叔父は東京に住んでいた。
生涯、売れない小説家だった(←失礼🤣)のですが、功績は翻訳で一冊出版したのと、
手掛けた脚本が一本NHKで放送されたこと。

テレビ画面に叔父のハンドルネームが出てときは
家族皆で興奮しました。

恋愛は遅咲きで20近く年下の翻訳家の彼女(仕事の助手)と50歳過ぎに結婚。その後は、良い言い方をすれば『髪結いの亭主』、悪い言い方をすれば『ヒモ』でした。

今のところ、どこがオシャレ?潔い?と思われそうですが…

叔父は若い頃から、お金の無心や急なお願いなど言ってきたそう。ただ、申し訳無さそうではなく、どんな時も背筋をピンと伸ばし、ロングコートの襟を立てて、ポケットに手を突っ込んでいた。刑事コロンボみたい。
たとえ、謝るとしても大きな態度で「悪いね」といった感じ。
徹底的に『自分勝手』『ワガママ』『偉そう』なのである。人の迷惑省みないwww

私は怒ってないし、逆に好感を持っている。私は迷惑被ってないので…。

叔母も叔父の我儘に付き合わされて、さぞ大変だったろう。でも、愚痴を言いつつ、叔母は確実に楽しんでいたと思う。最後には「子供みたいでカワイイでしょ?」と惚気けていた。

一人の男の人生と考えると、好きに生き、好きに死に、非常に興味深いとさえ思える。しかも、一人の女をこんなに幸せにできることって凄い。

そんな叔父はエディット・ピアフが好きでパリが好きだった。
幾度とパリ旅行に行っていた。そして、私達姪や甥にお土産を買ってくる。自分の贔屓目で品物の差を付ける。そんな叔父だった。私は不可でもなく可でもなくと言ったところか😅

叔父は西麻布に住んでいた。甘い物に目がなく、東京に遊びに行くと、いつもケーキを買って食べさせてくれた。
黄色いポルシェに乗って。
ずっと昔から古い型の黄色いポルシェ。
外食するならホテルオークラ、お茶するにも帝国ホテルに出掛けた。
夜中スポーツクラブに泳ぎに行き、深夜1時(東京では25時というのだろうか)から、打合せ?遊び?に出掛けた…
ポルシェは、こだわって乗っていたのかと思っていたが、買い替えるお金がなかったのかも知れない。

健診もしていなかったのかも知れない。調子が悪いと父に相談し「健診をしろ」と言われていた。それでも、なかなか病院に行かなかったのか、それとも既に手遅れだったのか。

何年も連絡が途絶えた。
普段から何もなければ連絡しない二人なので(男兄弟とはそんなものなのか?)、特にこちらから連絡もしなかったようだ。 

結局亡くなる半年ほど前だろうか、「実は大腸癌で、既に自宅で療養している。口止めされていた。」と見兼ねた叔母から連絡が来た。

会いに来るなとのお達しがあり、
時折、内緒で叔母に様子を聞く程度だった。

そして、亡くなった日、検査の後に急変し亡くなったと連絡があった。
検査後、何ともなく元気な様子だったため、家路に向かう帰りでの連絡だったらしい。

お葬式は家族だけでの密葬。
私達は、ご遺体のある自宅マンションで叔父と対面し、直ぐに火葬場に搬送、火葬、終了である。
呆気なかった。

叔父が火葬されている間に、叔母から話を聞いた。一応、手術はして人工肛門はしていたようだが、既に遅かったのだろう。

連絡はするなとキツく言われていたそうだ。
叔母は心苦しかったし、父だけでも生きてる間に対面して欲しかった様だったが、叶わなかった。

でも、叔父が望んだなら、それで良かったのかも知れないと私は思う。

そして、叔父は死ぬ前に「エディット・ピアフの墓に僕の骨を撒いてほしい。」らしいことを、叔母に頼んでいたそうだ。

叔父が亡くなった1年後、叔母は叔父の骨の一部を持ってパリに向かった。
その日、何故かエディット・ピアフの墓近くが、新聞記者が来たり、非常に賑わっていたそうだ。

あるcafeで珈琲を飲む老人が読んでいる新聞に目が留まった。

その日は10月11日。なんと。エディット・ピアフの命日だったのである。

叔母は興奮したそうだ。叔父は敬愛するエディット・ピアフと同じ日に亡くなったのである。
興奮して新聞を読んでいた老人に話し、記念に新聞を貰ったそうだ。
その後、叔母は無事に叔父の一部をエディット・ピアフ墓前に納め、日本への帰路についた。

そして、私達に土産話をしてくれた。その時も叔母は興奮していた。
小さくて可愛らしい人なのだ。

叔母の翻訳の給与で生活していたが、相当厳しかったらしい。マンションも売らなければ借金を返せないという。

思い出もあるし東京のマンションは残しておきたいが、そういうわけには行かず、叔母は「実家に帰る、幸いパソコンがあればデータ送信で仕事できるから」と悲しく笑いながら言った。

私は寂しかった。
私達の叔父を健気に最期まで一人で看てくれ、私達甥姪に優しく接してくれ、誰にも頼らず。
お礼をいうだけでは足りない。

思わず「私達の近くに越してくれば良いのに」と私は言った。
叔母は涙して喜んだが、皆に迷惑は掛けられないし親がいる田舎に帰らなければ…と実家に帰っていった。

それから、叔母とは連絡を取っていない。
久々に逢いたいな〜と言う思いが湧いた。

私から見ると潔い生き方。
周りの迷惑被った人はそんな事言えないだろうけど。
好きなように生き、好きなように死んでいった叔父。
好きな人を最期まで看て、去っていった叔母。
どちらも強くて弱い人。不器用な人。

私達は家族になれなかったのだな…
もう少し早く出会って子供でも出来てれば変わっていたのかな?それもはたまた運命か?
そんな事を考えながら、眠りについた。

終わり。


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