「難聴者と中途失聴者の心理学」

今日はたまに指向を変えて、読んだ本についての感想を書いてみます。
今日取り上げるのはタイトルにもある通り

「難聴者と中途失聴者の心理学」(かもがわ出版 編:難聴者の心理学的問題を考える会 )

あとがきにもある通り、この本は当初学術書として企画された後、紆余曲折を経て「一般向けの読み物であるが、学術書としての性格をも失わない」本として刊行されました。
この本には10名の方がそれぞれの分野、或いはそれぞれの経験を「ありのまま」の文章で書き寄せておられます。
研究者の方もおられれば、一当事者としてご自分の経験を淡々と書いておられる方もおられます。

共通するのは「難聴 中途失聴」というキーワードではありますが、文体も、時に用語も統一されていない、ある意味「生」の文章に触れる事ができます。

私が活動しているAPD(聴覚情報処理障害)に関しても、国際医療福祉大学教授の小渕千絵先生が2章の終わりで6ページほど書いておられます。
ただ、この本を手に取った理由は、そもそもはAPDに関する記述があるからではありませんでした(というか、小渕先生が寄稿しておられる事を知らずに買いました)

私自身がAPDに関する当事者会に関わっている中で、現在のAPD当事者のあまりに多くの方が心理的に過酷ともいえる状況を抱えておられる事、
ごく自然に耳鼻科と心療内科を掛け持ちしておられる方が多く、誰もそれを気にしない程にその様子が広くみられる事に違和感を感じていたからです。

それは当事者の方に何か落ち度があるからではありません、それぞれがベストを尽くして人生を送ってこられた方々だと思います
それでも尚、あまりに多くの方が心理的にギリギリの状態で踏みとどまって「どうよりよく生きるか」を模索しておられると感じています。

そのような違和感の原因や理由をぼんやりと感じ始め、うまく言語化できない時期にこの本の著者のお一人、勝谷紀子先生のツイートに触れ、予約をかけました。

本書は先ず「難聴、聴覚障害とは何か」という点からスタートし
難聴、聴覚障害がなぜ生じるのか、どんな種類があるのか
聞こえづらさがどう偏見を生むのか
それがどう本人の心理的問題を生むのか
子どもにどう影響するのか
どう情報保証するのか

といった順序で全体が展開していきます。

その中で私が最も印象として残った点は
「聴こえる、という事がいかに人のコミュニケーションを形作っているのか、そして『聴こえなくなる』という事が人をどう孤独にしていくのか」という点でした。

そして同時に、「聞こえる」とは何か「聞こえない」とは何か
その境界が固定されていない事、様々な情報や社会的なスティグマ、先入観、文化によって大きく揺れ動くものであることも示されます
例としてはアメリカにあるヴィンヤード島がとても興味深い話として印象に残りました。

そして、今まで恥ずかしながらAPDに関して、そこまで「差別が生じている」という感覚を強く持ってはいなかったのですが、最後の7章でその認識を改めさせられました。
とりわけ「合理的配慮」に関する認識です。
本文を引用させて頂きますが

「盲の人が横断歩道を渡ろうとしています。ちょっと肩を貸せばその人は助かる事がわかっているのに、それをしないのは差別です。
また、耳の遠くなったおばあちゃんが家族と一緒にテレビを見ています。他の家族が笑っているのに、一人だけ笑えません。
何がおかしいのか聞いても、家族は『大したこと言ってないよ』と言って詳しくは教えてくれないとしたら、これは差別です」
(太字は私の強調の為につけたものです)

まさにこの「一緒にテレビをみていて、自分だけ笑えない」という状況はAPDの多くの方で生じています、ですがこれをAPD当事者が環境調整等でなんとか埋めることでQOL(人生の質)を向上させるための「障害」、或いは字幕放送や様々な進歩するガジェットで埋まるかもしれない「障害」だと感じていても
「差別」だという視点から見たことは恥ずかしながらありませんでした。
そしてそれが差別だと考える時、それはただ個々人の努力、或いはニーズをとらえた企業の製品等だけに頼るものではない、社会的課題として「合理的配慮」をする責任が社会の側、難聴、中途失聴者と接する側にもある、そう自然に感じられる一文でした。

全体に平易な文章で書かれていますので、内容に比べてかなりとっつきやすい本でした
APDの方にも、読んで頂ければ得る視点の多い一冊だと思います。

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