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昭和のgifted - 44 『幸福な王子』

前回のお話しはこちら

前回のお話しでちょこっと「ギフテッドは自己犠牲を厭わない」って書いて思い出したことがある。

ギフテッドが何なのか、今ほど認知や理解がされていなかった数年前、私は自分のことを「金色の王子」と言っていた。

まぁ自分のことを座敷童子って言ったり、サイヤ人って言ったりいろんなものに例えているがそのひとつが「金色の王子」だ。

私が言う「金色の王子」は『幸福な王子』という童話に出てくる幸福な王子の銅像のことで、若くして死んでしまった王子を民が慈しみ目にはサファイア、携える剣にはルビーなどさまざまな宝石が散りばめられて金色に輝く銅像になった王子のことだ。

銅像になった王子はただそこに佇んで貧困などで苦しんでいる民の声を受け取りながら悲しみに暮れていた。

そんなある日、一羽のツバメがやってきてそのツバメを頼りに自分の銅像についている宝石や金箔を恵まれない人たちに運ばせて、最後にはみずぼらしいただの銅像に成り果てる。

民への施しを手伝っている間に冬が来て、ツバメも暖かな地にいけないまま王子の像と一緒に死んでしまう。

挙句の果てには「景観を損ねる」という銅像の経緯をしらない民たちに壊されて溶かされて終わりを迎える。

ただ最後の最後に王子とツバメの功績を神が讃えて天国で幸せに暮らすというただただ哀しい物語だ。

せめて生きてるうちに幸せになりたいよ。笑

でもこの童話を読む度に、辛くなったときにこの童話のページをめくると不思議といろんなことに諦めがつく。

私は金色の王子。だから仕方ない。

情報が溢れて何が正しいのかの選択を自分で取捨選択しないといけない時代。

人は学習する。様々な経験値から「こういうこと言う奴は胡散臭い」とか「もう騙されてないぞ」と。

でも。もしかしたらこの人はこれまでの人とは違うかもしれない可能性があるから、ニノ鉄は踏まないとはわかっていても同じ失敗を私は繰り返している。

多少ね、ここまでは大丈夫、ここを超えたらアウト。っていう境界線が年々くっきり持てるようになってはきているけれど、それでも自己防衛のために私と相対しようとしてくれている人を「これまでの人」と一緒くたにして最初から無視することは私には難しい。

結果としてやっぱり一緒だったじゃん!!!ってなることの方がほとんどだけれども、私は私を受け入れてくれる人をずっと探している。一人でいい。下手なフィルタリングをして見落としてしまうくらいなら、傷ついてもがっかりしても可能性に賭けるしかない。

やっぱな。

ってなった時、寂しくなった時、『幸福な王子』の絵本を読むと心がクリアになる。

傷つくかもとかがっかりするかもなんて最初からわかっていたのに、それでももしかしたらって思ったんでしょ?だったらその人の駄目な部分も愛せなきゃそれは愛じゃない。私の独りよがりのエゴをぶつけただけなんだったらそれは世間では「愛してる」とは言わないらしいよ。と自分に言い聞かせて納得できる道を探す。

愛ってなんだろな。

受け入れることはわりと簡単にできるのに受け入れてもらえることが難しくて、自分のエゴに飲み込まれたとき自分を守るために拒絶を選ぶしかないことがある。

それでも相手を拒絶することに抵抗感もあるし、感情のバランスが凪に入れば大抵のことは受け入れられる。

いい加減なところで「あー、ないわー。」って思えないのがしんどかったりするんだけど、大抵の人は「ないわー。」って思ったら捨てきれるんだって。

自己中羨ましいなぁー!

そんな時、多少歳食ってるから自分の中で整理して完結することはできるようにはなったけど『幸福な王子』を読むと自分を自分で受け入れやすくなる。

『星の王子様』も良いかもしれない。

私もいつかそうした童話が書けたりしたら良いなと思ってみたりする。

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