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昭和のgifted-64 心配などしてくれなくていい

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仕事がなくなります。木春です。

逢いたい人に「木春は阿佐ヶ谷にいるからそのうち見つけてね!」と言い残したものの、阿佐ヶ谷にいられなくなる日も目前に迫ってきている。

ちょっと踏ん張れば現状維持はできるんだろうけど、現状を維持しようというモチベーションが湧いてこない。

そもそもnoteを始めたのだって、いろんなことに疲れ切って感情のぶつけ先を探して辿り着いたんだから、この個人事業主を続けてきた12年という歳月は余程私に無理を強いていたのだろう。

人は生活水準があがればそれを維持するために努力をする。ただ、私にとって「高い生活水準」というものは左程大事なものではなかったようだ。

noteを始めて、私を理解してくれる人が現れ、私に勇気づけられる人が現れ、私のことを私として見てくれる人が現れ、好きな人までできて、随分と報われた気持ちになってしまったので、本来ある高スペックなビジネススキルを駆使して生活水準を維持することより一旦何もかも手放してバイトでもしながら放浪生活も良いかもしれないと本当に思っている。

決断したら即行動に移せるはずなのに、それでもまだのらりくらりと何もできないでいるのは、もう末期の鬱状態なのに理性が動いて体裁を装ってしまっているギフテッドならではの厄介さで「どうにかしないとな」と私のことを俯瞰で見ている私が、自暴自棄になることや無責任に死ぬ選択を許してくれないことを知っているからなのかもしれない。

もうじゅうぶん報われたし、責任も肩の荷から降りるし、今世を恨んで死ぬより来世に期待して死ねる方が余程良いとは本心で思っていて、死にはしないけどこういう話をリアルでたまにポロっと言ってみたりする。

そうしたら多くの人は「死んじゃダメだよ」とか「生きてたらきっといいことあるからさ」と言ってくれる。

別にこちらからしたら現状に満足してるからいつどこででてくるかわからない"いいこと"なんかどうでも良いから同情するなら仕事くれ。

相手を思う気持ちには行動がついてまわるはずなんだ。

気持ちでは行動に起こしたいと思いながらも大人の事情でどうしてもできないことがある。

そんなのわかっている。

優しい人たちは気持ちが沸くのに行動に移せないでいることを悔やんだり悩んだりしてくれる。

だったらそんな人たちを責めないでいるためにも私は私でいないといけない。

心配なんてしてくれなくていい。

本当に相手のことを思っていたら勝手な心配なんてしてる場合じゃないと、駆けつけたり寄り添えたりするはずだから心配だけしてるなんてただのエゴだ。

情けは人のためならずとはよく言ったものである。

もう少ししたらまた、私は自力で立ち上がって進んでいくのだから、心配なんかただの杞憂だ。

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