昭和のgifted - 86 無くし物は探さないでいい
前回のお話しはこちら
世界は欺瞞に満ちているけど、それが優しさだったり暖かさだったりすることもある。
良かれと思った言葉が人を傷つけることがあっても、そこに悪意がないならば責めることはできなくて、自分可愛さの言い訳を良しとできない自分がいる。
ちょっと涼しくなってきて、熱でうなされてた時期が過ぎようとしていて、それでもまだ休んでいたくてのらりくらりと日々を過ごしたい。
そうして逃げて逃げて逃げた先に、逃げきれない行き止まりがあって、ずっと行き止まりにいて良い訳ないんだもんな、と良い意味で諦めるところからまた歩きだす。
死ぬまでそれを繰り返すしかない。
今、私は仕事がなくて詰んだと騒いで、叫んで助けを求めても、誰も手を差し伸べてはくれなくて、世界に対して絶望したい気持ちになったりすることもあるけれど、私が本当に絶望してしまったらそこで“世界”は終わってしまう。
所詮たった一人の人間が世界に絶望して、この世からいなくなっても、少し触れ合った人たちは連鎖的に絶望を感じる一瞬があるかもしれないけれど、それでも人類なんて滅亡しない。
サイコパスの人たちは余裕で生き延びるだろうし、そもそも何も考えていない人たちはただ生きることだけでいっぱいいっぱいみたいだから“世界”のことを考えることができる人たちが全滅してもヒト種族はそれなりに繁栄するよ。
それでいい。私がいなくなった後の世界を考えて憂いたところで今の私に、できることはほとんどない。
自分が大事に思ってること、大事に思ってたけど思い出せなくなってしまったこと、無くさないために努力は必要かもしれないけれど、無くしてしまったものは「探さなきゃ」と焦らされたりせっつかなくても良いはずなんだ。
本当に大事だったらちゃんとしまってあるはずだから、いつか、必ず、きっと、という気持ちでまた会える日を楽しみにのんびりすごせばいい。
わざわざ探してなくてもふいに「これ好きだったー!」みたいなもに再開するかもしれないし、そこから新たに開けることがあるかもしれない。
私にとってカメラがそうだったし、そうでもないかも…と思いつつ今日も写真を撮っている。
自分では何気なく撮ってるだけの写真でも、私の写真に救われたと言ってくれる人がいて、目に見える範囲の人にしか何もしてあげられることはないんだけれど、そう言ってくれる人たちがいるという事実を、私はnoteを書くことで実感できてる。
コメントやメール、会った時に教えてくれるとかも含めて、世界を救うためには財力がないと綺麗事を言ってるだけでしかないと私は思うから、まずは身近なところへ自分ができることで還元していかなきゃな。と思う今日この頃。
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