吹くかぜきいろ
先日投稿した、僕がこの随筆をはじめた理由の話がいつの間にやら80以上も「いいね」を頂いてしまった。
「~の話」なんて言う話題は大概面白くない場合が多いので、ほとんど自己満足の投げやりで投稿した訳ですが、こんなにも需要があるのなら、調子に乗ります。それだったら何を話すにもやぶさかではございません。
ということで、この投稿のもうひとつの要素である「写真」。どうして僕が「人を撮らない」のかというのが今回のお話。
写真のほとんどは、綺麗な景色や空間、人物を切り取ったり、思い出を収めたり、ただ何かを記録したり、過去を今に呼び起こす為に撮られていると思う。
後に呼び起こして振り返ったり、ただ漠然と思い出したりするも良し、感傷に浸るも良し、或いは呼び起こしてみたはいいものの、大したことのない日常の連続や、たわいもない情景で溢れていて、クスッと笑ってしまったり、なんの為に撮ったのかすら思い出せないも良しだ。
前述したように、過去を今に呼び起こすことがほとんどの写真に対して僕が撮っているのは、未来を今に呼び起こす写真だ。
人を撮らない理由はそこにある。
おおむね僕は昔語りが好きではない。決して嫌っている訳ではないのだが、昔を語る時間があったら未来を語る方が有意義だと思ってしまう達である。だから僕は未来を想像する為に写真を撮る。
今この場に誰かがいたら、或いは僕がいたら、そこに未来の誰かを想像する。無論そこにメッセージ性だとか芸術性はない。ただそこにあるかもしれない未来を切り取る。
馬鹿に高い解像度もISO感度もシャッター速度も必要ない。
逆にフルマニュアルで露出を調整して、左手でピントを合わせて、限られた枚数を1枚1枚確実にシャッターを切るフィルムカメラが好きだ。
これを機にフィルムカメラのもうひとつの良さを紹介しておこう。それは「現像の手間」だ。ともすれば短所と捉えられてしまいそうだが、この手間が良いのだ。
そもそも手間というのは良いぞ。逆に手間を惜しむということはそれだけ「時間」を省いてしまうということだ。何かに向き合うとき「時間」は大事だぞ。もし真剣に向き合いたい対象があったら、時間だけは何より優先した方が良いと思う。
料理だったら選りすぐりの材料を揃えたり、ものを書くなら敢えてペンを握ったり、手間という時間の中には色んな思考が詰まっている。
フィルムカメラって奴は撮ったものの仕上がりが現像するまで見えない訳ですから、それまでに掻き立てられる妄想とその思考はコイツならではと思う。
好き放題書いていたら、上手い着地点が見つからなくなってしまいました。
ということで、皆様。
この夏は是非「写ルンです」で良いので使ってみてください。人を撮る撮らないは僕の趣味なので、とりあえず使ってみてください。スマホひとつで簡単綺麗に写真が撮れてしまう現代に今一度写真に対して熟考する時間が設けられ、押し並べて皆様のアルバムにコクが出ること請け合いです。
今週も読んでくれてありがとうございます。
ところで、なんで「はいチーズ!」って言うか知ってる?
ほら、調べる前にとりあえず「はいチーズ」って言ってみ、綺麗な笑顔だよ。
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