幕末五人の外国奉行 土居良三著

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 幕末と言うと、薩長の勤皇の志士とか、倒幕側からの歴史がほとんどで、幕府側から書かれたものは少ないです。特に、日米通商条約をはじめとする幕府が結んだ各国との条約は、明治政府から不平等条約のレッテルを貼られて、これを平等対等なものにするのは、本当に大変だったのだと言われるわけです。無能な幕府の連中は唯々諾々と外国の言うがままに条約に調印してしまったのだと、そういう印象をわたし達は知らぬ間に持たされているのです。本書は、そうではないのだと、ペリー来航以前から老中首座阿部正弘は優秀な人材を登用し、外国奉行という一種のプジェクトチームを作り上げ、諸外国との交渉準備をしていたのだと論じています。

 作者の土居良三さんは、専門的な歴史学者ではありません。東京帝国大学法学部在学中に海軍に応召して、復員後片倉工業に勤務し、18年後にテキスタイルの会社を立ち上げた経営者です。そういう人がなぜ幕末の幕閣研究に身を賭したのかというと、彼の曾祖父が万延元年の咸臨丸の乗組員だったからです。日本人がはじめて太平洋を渡ってサンフランシスコに到着した、あの冒険の詳細を調べる内に、幕末の幕府における外交事情を調査せざるを得なかったということです。ご興味のある方は、土居良三著「咸臨丸 海を渡る」中公文庫をお読みください。この本は和辻哲郎賞を受賞し、審査員の司馬遼太郎さんが「咸臨丸が心地よさそうに風と海の上にいました」という感想を述べています。

 1858年(安政5年)初代外国奉行が任命されます。水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震の五人です。年長の水野は幼くして養子に出され、放蕩三昧の養父の借金に悩まされながら、苦学して昌平黌大試に及第、学問出精によって28歳で目付になります。但し「性質が強情且つ堅過ぎて」周囲から嫌われるというひとですから火付盗賊改などという役職に追われたりするのですが、阿部老中はその堅さを評価して彼を長崎奉行に抜擢するのです。長崎奉行と言えば、ひとたびその任に付けば、一生分の蓄財が出来ると言われた賄賂の集中スポットだったのです。しかも、彼に課された使命はオランダに軍艦を10艘ぐらい発注して来いというものですから、堅物でないと務まりません。永井は長崎の海軍伝習所取締、長崎造船所の生みの親、勝海舟の上司に当たる人物です。彼が京都町奉行を勤めたとき、坂本竜馬が訪ねて来て、じっくり話し合い、自分と全く「ひた同心」だと兄に手紙で語った人物です。堀は函館奉行として蝦夷地を広く調査し、五稜郭を建言し、ロシアとの交渉を担当しました。井上と岩瀬は下田奉行と目付として、タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約交渉の前面に立ちました。後日ハリスをして「わたしはあのふたりに随分閉口させられたが、日本にとっては、あのふたりがいたことが最善だったと言えるだろう」などと斜に構えた感想を述べています。とまあ個性豊かな五人の外国奉行が活躍したわけですが、老中阿部が亡くなり、井伊直弼が大老となると全員排斥されてしまいます。しかし、彼らが敷いた日本の外交方針はそのまま明治政府の外交方針に引き継がれて行きました。

 ちょっと長くなりました。結局、明治維新というのは、幕末の幕府政治体制から不連続な面と連続する面の両面があったということを言いたかったのです。それはアジア・太平洋戦争の戦前と戦後でも同じですね。わたし達は戦前と戦後では、全く違う体制になったと思いがちですけど、連続している部分もあります。その両面を丹念に注意深く見ていく必要があります。

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東京都赤羽生まれ。ときどき東京の明治、大正、昭和のたてものを案内してます。たてものの建築家やそこに住んでいた人々の話をしてます。日本の近現代史に興味を持ったのは「アジア太平洋戦争の原因」を理解したいという動機でした。そしたら、昭和から幕末まで遡上してしまったというわけです。
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