幕末五人の外国奉行 続き

 幕末の外国奉行たちの顔ぶれを眺めていると共通点がいくつか見えてきます。その第一は養子が多いということです。まあ幼児の死亡率が高かったということも原因ですが、旗本の場合、経済的な収入が家に帰属している点が重要です。つまり後継ぎがいなくなると、家自体が解散になってしまう。使用人も含め一族が路頭に迷うし、ご先祖さまにも申し訳ないということです。そこで、よそから優秀そうな少年あるいは青年を養子にするわけです。では、優秀かどうか、どう判断するのかというと、口コミもありますが、昌平坂学問所の大試を及第しているか、というのがひとつの目安になっていたようです。まあ、一種の学歴ですね。学問所には寄宿と通い合わせて3000人ぐらいいて、大試合格は年に40人ぐらいでした。

 前回紹介したハリスとの交渉を岩瀬忠震と担当した井上清直ですが、井上の実兄が川路聖謨です。この兄弟の父は内藤吉兵衛という豊後日田の代官所の属吏でした。お金を貯めて、子と共に江戸に出て、御家人株を買います。そして兄は11歳のとき小普請組の川路家の養子になります。彼は勘定役でも下っ端の筆算吟味からコツコツ努力して勘定吟味役まで登ります。下級の幕吏としてここが天井です。この役は老中直轄で禄高500石ですから立派な旗本なんです。でも川路はここで止まらず、佐渡奉行、奈良奉行を経て、勘定奉行まで上り詰めるのですね。1853年、川路は老中首座阿部正弘から海防掛に抜擢されて、長崎でロシアの特使プチャーチンとの外交交渉をまかされました。プチャーチンは海軍軍人ですが皇帝の侍従武官長を勤めたエリートです。その彼が川路の印象を残しています。「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物だった」。もちろん日本語からオランダ語、オランダ語からロシア語という通訳が入っているわけですが、その人となりは伝わるんですね。こういう先輩がいるから、岩瀬、井上コンビもハリスとしっかり渡り合えた。岩瀬は、日米条約の後、日露、日英、日蘭、日仏と五カ国と条約をまとめ上げました。しかし、老中首座阿部正弘が亡くなり、井伊直弼が大老となると、蟄居を命じられ、失意の内に44歳で亡くなりました。

 阿部正弘が発見し、外国奉行に取り立てた優秀な人材は、ことごとく井伊大老に排斥されます。安政の大獄って将軍後継問題で一ツ橋派と和歌山慶福支持の南紀派の対立と言われますが、井伊が何に対して怒ったか、と言うとやはり、こういう外国奉行という500石から1000石ぐらいの旗本が将軍後継という重要課題に対してとやかく関与すること自体に我慢ならなかったのだと思います。それまでは、老中の専権事項ですから。しかし、これで外国奉行たちが全滅したわけではなく、しぶとく幕末の政局に関わっていく人もいました。大久保忠寛と永井尚志がそうです。次回はこのふたりのお話をさせてください。それで次の本にいくつもりです。

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