流人道中記 浅田次郎著

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 いちばん最近に読んだ本から感想書きます。
ときは、桜田門外の変があり、その下手人の探索と断罪に幕府が右往左往していた時分です。直参旗本青山玄蕃は姦通の罪で訴えられる。奉行所は切腹を申し渡すのですが、玄蕃はこれを拒否します。寺社、勘定、南町の三奉行は旗本を打ち首にすることもできず、「流刑」とし、しかも時節がら伊豆の離島では外国の艦隊との接触の可能性もあるので、蝦夷地松前藩へお預けとしました。そして流人玄蕃を護送する押送人役を見習与力石川乙次郎に命じました。そしてふたりの奥州街道をひたすら北上する旅がはじまります。
 まあ、うまい設定ですね。当然、行く先々では、上下が逆転して玄蕃が公儀の上役人、乙次郎が部下に見られながら様々な事件に巻き込まれていくのです。玄蕃もどさくさに紛れて、乙次郎を振り切って逃げてしまえばいいものを逃げない。乙次郎も心形刀流免許皆伝の腕で玄蕃を斬って捨て、逃げたので斬ったとでも言って江戸に帰っても、「お役目ご苦労」ぐらいで終わるのに斬れない。両者ともこの奥州道の苦行を全うしたいという何か使命感のようなものに縛られているのです。
 設定が全くのロードムービーなのに、この解放感の無さは何なのか。
それは、この時代の人々がそれぞれの身分の中で、ひとりの内面からも外面からも縛られている「掟」や「法」「身分」から解き放されることがないからなのです。思えば、江戸時代の庶民は自由なものでした。年季奉公に江戸の大店に預けられた娘が、打ち水に店前に出たところに、伊勢へのお蔭参りの一行に出会って、そのまま伊勢参りに行ってしまうとか、そいうことがありしたのですね。そういう自由さの典型が弥次喜多だったりするわけです。武士は不自由でした。その不自由さの枠組みを構成していたのが「武士道」であり、それに基づく「身分」と「法」だったわけです。
 そういう「身分」とか「法」というのが、本来の「武士道」から乖離して形骸化してしまったのが江戸後期だったわけです。形骸化した常識に対して人(武士)が無批判に追従する。むしろ個人の利益のために、その常識を利用していくようになる。その象徴が「切腹」だったり「仇討ち」だったりするわけです。そのことに気づいてしまった武士はどう生きるべきなのか。否、どう生きたいと思ったのか。というのが本書のテーマだと勝手に言って置きましょう。
 これは、現在にも通じる話でもありますから注意が必要です。
現代社会が個人に求める成功プロセスを当の個人が無批判に飲み込んで、中高大と社会が評価する階梯を昇った先に、効率と合理性の価値観の先に、いかなる幸せが待っているのか。
 すいません。つい興奮しすぎました。
ロードムービーと言えば、2018年では「グリーンブック」を思い出します。黒人の有名ピアニストとイタリア人運転手の南部旅行でした。1990年には「ドライビング ミスデイジー」という南部資産家の老婦人と黒人老ドライバーの旅がありました。どうでもいいけど両方アカデミー作品賞を取りましたね。2作品とも身分と人種、階級の違う個性が衝突し、和解する物語でした。(確か、スパイク・リーが「オレがノミネートされると、必ず誰かが運転して誰かを旅に連れてく話にオスカーを奪われるんだ」と嘆いたいましたっけ)両作品とも、設定として階級の隔てたりを前提とします。旅のプロセス(共有体験)が、その隔たりを埋めるのです。しかし、本来のロードムービーは、もっと自由でした。「イージー・ライダー」や「ファイブ・イージーピーセス」「パリ・テキサス」「ハリーとトント」とにかく放浪すること、そのものに意味と無意味を見出すことにエネルギーを費やしていて、物語よりその風景に耽溺したものです。まあ、いいや、話が横道に逸れました。
 最後に、正直、私は浅田さんのファンとは言えません。
物語の途中で、主語がちょくちょく変わる文体に戸惑います。そこが一種のケレン味なのでしょうが。主語が変わるということは、主人公が変わるということです。物語に多角的な視点を与えようという試みで浅田さんは良くやります。極端な例は、機関車が主体となって物語を語りだしたりします(「マンチュリアン・リポート」)。
 さて、次回は、近現代史のオススメ本に戻ります。
第1回は「幕末五人の外国奉行」です。幕閣側からの幕末外交の裏側をご紹介します。 
 


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