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織田信長 まさかの危機一髪!!《金ヶ崎の退き口》

こんにちは。 まさざね君です。

今回は、魔王と恐れられたThe戦国武将・織田信長

しかし、突然の裏切りによって命の危険に晒され、一度だけ撤退したことがあったんです。

越前に侵攻した信長は、金ヶ崎城を落とし、朝倉義景の本拠地・一乗谷を目指そうとしていた時、裏切った浅井軍に挟み撃ちにされて形勢が一気に逆転します。

やむなく全軍撤退を決心した信長。

その後、見事な撤退作戦を繰り広げて九死に一生を得るのでした。

そんな金ヶ崎の退き口に至った経緯も含めて書いてみました。


では、はじまり~♪


織田信長 危機一髪!!《金ヶ崎の退き口》


【織田信長の上洛】

信長上洛②

1567年(永禄10年) 信長:34歳
斎藤龍興(斎藤道三の孫)を破り美濃一国(岐阜県)を手に入れた織田信長。
尾張(愛知県)から美濃に本拠地を移す。

この頃から『天下布武(てんかふぶ)』(天下泰平の世を創る)の印章(ハンコ)を使用するようになります。
既に先々の事を見据えていたんですね。


1568年(永禄11年)4月

北近江(滋賀県北部)を支配する浅井長政に妹のお市の方を嫁がせて同盟関係を結ぶ。
上洛の準備に入る。

1568年(永禄11年)9月
岐阜を出陣した信長は、浅井長政と協力して、南近江を支配する六角氏を蹴散らす。
上洛の準備が整い、足利義昭を連れて上洛(京都)する。

1568年(永禄11年)10月
足利義昭が第15代征夷大将軍となる。
大喜びの足利義昭ですが、信長との関係は2年ほどで悪化します。

1570年(元亀元年)1月
信長が足利義昭に『五か条の掟書』を突きつける。

『五か条の掟書』とは、将軍としての活動禁止した覚書です。
つまり、[操り人形なんだから、天下の事は任せておけ]と念を押したものでした。


【上洛の要請】

信長は、諸国の戦国大名に上洛要請の書状を送りました。

天皇や将軍を利用して、自分の天下統一事業を進めようとしたのです。

上洛しない武将は、「天皇・将軍に対して謀反(むほん)あり」とみなされ、信長に討伐の機会を与える事となります。

その武将の中には、次の対戦相手である隣国(越前)の朝倉義景(あさくらよしかげ)が含まれていました。

朝倉義景①

朝倉義景に対して何度も上洛要請の書状を送りますが、信長は無視され続けたのです。

元々、朝倉氏と織田氏は守護大名・斯波氏(しばし)の家臣。

同じ家臣でも、朝倉氏は守護代を命じられる名門に対して、織田氏は格下の家柄だったのです。

ですので、朝倉氏が上洛に応じることは、織田氏に従うことになるので、プライドが許しませんでした。



【朝倉討伐】

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1570年(元亀元年)4月20日
信長は、3万の軍勢を率いて京都を出陣します。

表向きは朝倉氏ではなく、若狭(福井県)の国人・武藤友益(ともます)の討伐でした。

しかし、そこには信長の思惑が隠れていたのです。

まずは、武藤友益を討伐するため勅命(天皇からの命令)と上意(将軍からの命令)を得たことで、天皇・将軍公認の戦となりました。

朝倉氏に関しては、出陣さえすれば様々な口実をつくって攻めることは可能だという考えでした。



【金ヶ崎城攻め】

城攻め

1570年(元亀元年)4月23日
出陣から3日後、若狭・越前の国境を越えて敦賀(福井県)に到着した信長軍。

その日に、朝倉配下の手筒山城を落とします。

26日には、金ヶ崎城を守る朝倉一族・朝倉景恒(かげつね)に圧倒的な兵力を見せつけて降伏勧告をして開城させました。

怒涛の勢いで侵攻を続ける織田信長。

次なる目標は、朝倉義景の本拠地・一乗谷!!


【浅井氏の心情】

浅井長政①

信長と同盟関係にあった浅井長政のもとに悪い報せが届きました。

家臣
「長政さまー! 織田信長公、越前の朝倉領に侵攻中!」

数日前に京都を出陣したと聞いていたが、長政の嫌な予感が的中しました。

浅井長政
「信長殿、、、。 何ということを。」

朝倉氏と浅井氏は、古くから同盟を結んでいて良好な関係にありました。

隣国の南近江・六角氏との抗争時、何度も援軍を差し向けてくれたのです。

今の浅井があるのは、朝倉氏のおかげと言っても過言ではなかったのです。

浅井長政
「浅井と織田の同盟を結んだ時、朝倉には攻めぬと約束をしたではないか!」

朝倉氏に恩義のあった浅井長政は、信長との同盟条件に[朝倉を攻めない]ということを盛り込んでいたのです。

信長は、それを裏切ったのです。


浅井長政に大きな決断が迫られました。
「織田に従うか、朝倉との義を貫くか・・・」


重臣1
「朝倉からの恩義と浅井の誇りを大事とするなら、朝倉の援軍に行くべきです。」

重臣2

「長政様の奥方(お市の方)は、信長さまの妹ですぞ! お市の方さまが嫁いできてくれたおかげで、今の浅井家は安泰なのだ。」

重臣1
「では、朝倉を見捨てろと言うのか?」

重臣2
「そんなことは言ってない!」

「今は、乱世。 恩義や誇りも大事だが、浅井家を守ることが一番ということだ!」


重臣たちの話を静かに聞いていた長政が口を開いた。

浅井長政
「今の兄上(信長)は勢いがある。 そして、何よりもお強い!」

「その兄上に(朝倉)義景殿が、攻められて危機に瀕している。」

「儂を本当に必要としているのはどちらなのだ?」

家臣たち
「(朝倉)義景さまじゃー!」

「いやいや、信長さまだろ!」

浅井長政
「今の(朝倉)義景殿が頼れるのは、儂だけだ。」

家臣たち
「確かに。」

「いや、しかし、、、。」

浅井長政
「儂は、(朝倉)義景殿の援軍に行く!」

「よいなー!! 皆の者!」

家臣たち
「はっ!」

「戦の準備だ! 急げー!!」


この戦で勝つのは、非常に厳しいものでした。
(朝倉)義景が討死したり、信長を取り逃がせば敗北は決定的だったのです。


この決断が浅井家の運命が大きく変えていくのでした。


【謀反】

1570年(元亀元年)4月27日
見張りの使者から信長に耳を疑う報せが届きました。

使者1
「浅井長政が寝返り! 小谷城を出陣したもよう!」

信長
「なにっ! 嘘をつくな!」

「儂と同盟を結んだことで、お市を嫁にやり、近江を治めさせているのだぞ!」

「何の不満があるというのだ!」

と、朝倉が放ったニセ情報として浅井長政の謀反を信じませんでした。

その後も次々と浅井の動向を探っている使者がやってきます。

使者2
「浅井長政、北国街道を進軍中!」

使者3
「浅井軍の斥候(物見)を発見しました!」

届いた報せは、長政謀反に関するものばかりでした。


【全軍撤退】

金ヶ崎の退き口⓵

信長
「浅井の奴めー! 儂を裏切ったな!!」

「皆のもの! これより全軍、京に撤退する!!」

「全軍撤退じゃー!!」

と叫んで、床机(椅子)を蹴飛ばします。

一度は、怒りと憎しみを爆発させた信長でしたが、直ぐに各武将に指示を出し始めました。

信長
「(池田)勝正を殿(しんがり)大将とし、(明智)光秀、(羽柴)秀吉は、それに従って
金ヶ崎城で朝倉軍を防げ!!」

「あとの者は、個々に引きあげじゃ! よいなー!!」

「次の戦で、朝倉・浅井を絶対に殲滅(せんめつ)する! 分かったな!!」

家臣
「はっ!」

撤退が決まってからの織田軍は、混乱もなく見事なものでした。


【朽木越え】

1570年(元亀元年)4月28日
信長は、10数騎の供を従えて若桜街道を南下していきます。

その一行の中には、後に信長を裏切り名物茶器・平蜘蛛を破壊して自刃した松永久秀も含まれていました。

松永久秀は、この辺りに通じていたため信長と一緒にいたものと思われます。

夜更けに高島郡(滋賀県)の朽木谷を通過すると、目の前に地元を支配している朽木元綱たちが甲冑姿で道を封鎖していました。

当時の朽木氏は、浅井氏と主従関係を結んでいたが、独立性が強かったので表面上の主従関係でした。

しかし、信長が少数の仲間しか連れてない。

朝倉と浅井の軍勢に挟み撃ちに合ったので京へ逃げている途中という事がバレれてしまうと、討ち取られてしまう可能性が非常に高かったのです。

信長は前方を睨んだまま、松永久秀を呼びました。

信長
「あそこに見えるのは、儂の敵か?」

松永久秀
「あれは、ここを治める朽木元綱かと思われます。」

「あの者を知っていますので、この久秀にお任せ下さい。」

信長
「わかった、お前に任せる。」

「ただし、不穏の動きがあれば斬る!」

松永久秀は、一人で朽木元綱の方に向かっていきました。

松永久秀
「お久しぶりです、元綱殿。」

朽木元綱
「おー、久秀殿かぁ。 こんな夜更けに何処に行かれる?」

松永久秀
「越前での戦から信長様を連れて京に急ぎ戻るところです。」

「元綱殿は、かつては浅野長政の臣下であったが、今は誰にも従わず孤軍奮闘していると聞いております。」

朽木元綱
「その通りだ。」

松永久秀
「信長様は、将軍・足利義昭様をお助けして、この戦では帝の勅命もいただいているお方。」

「その信長様のために道案内と護衛をお願いできないか?」

朽木元綱
「久秀殿。 心配ご無用!」

「これより先は我らが責任を持って信長様を護衛いたしましょう!」

松永久秀
「元綱殿! 恩に着ます。」

朽木元綱は、信長が敗走してきたのを何となく感じていたが、松永久秀の堂々とした交渉と今後のことを考えて信長を護衛することを選択したのです。

信長が、朽木元綱の前までやって来ると、
信長
「儂が織田信長だ。 朽木元綱、儂の護衛を頼む!」

朽木元綱
「はっ! この朽木元綱、責任を持って信長様を京まで護衛いたします!」

朽木元綱と遭遇した時の信長の内心は、穏やかでなかったと思います。

朽木元綱が浅井氏の臣下で土地勘や数的に不利な状況。
松永久秀は、臣下になってから日が浅いので裏切られる可能性がある

絶体絶命のピンチですが、信長の選択肢は1つしかありませんでした。
『松永久秀が朽木元綱との交渉に成功して京に戻る』

結果的に松永久秀は、朽木元綱の説得に成功します。

信長は、無事に京に辿りつくことが出来たのでした。

池田勝正が率いていた殿軍(しんがり軍)も朝倉軍の追撃を撃退後、京に戻ってきました。

形勢が逆転して全軍撤退したには珍しく、織田軍の損失は非常に小さいものでした。
その理由には、織田軍は統率がとれた優れた軍隊だった、朝倉軍が弱兵だったなど諸説あります。


【信長の逆襲】

姉川の戦

数ヵ月後、軍勢を整えた織田・徳川軍は、浅井・朝倉連合軍と近江の姉川で激突します。

この『姉川の戦い』で浅井・朝倉連合軍は、猛将が次々と打ち取られて大敗すると一乗谷、小谷城へとそれぞれ敗走します。

姉川の戦いから3年後、両家は織田信長によって滅亡の運命を辿ったのでした。

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