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月光入水

ざんだららーと雨が屋根や地面を叩く音で僕は目を覚ました。
その寸前まで僕は夢を見ていて、夢の中でも雨が降っていた。
きっと現実で鳴っている音が夢の中に入り込んできたんだと思う。
アメリカのワールドトレードセンターにガボーンと航空機が突っ込んだときはテレビをつけたまま眠っていた僕の夢の中でもビルが煙を吐いていたし、音楽をかけながら眠ってしまったときは夢の中でそのバンドがジャキシーンと演奏しているのを目の前で見ていた。
その瞬間の現実は夢に入り込んでくるのだ。温度や肌触り、匂いなども同様だろう。
過去に起こったこと、今まさに起こっていること、未来に起こり得ること。それぞれが大小ばらばらに分解され、再構築される。
夢ってそういうものかもしれない、と僕は思っている。
未来に起こることというのは既に決まっているのだろうか?ただ知らないだけで、思考も選択も行動も感情さえも既に用意されていて、紆余曲折をしているように感じているだけで実際は一本道なのだろうか?
そこを僕が通過することを知っている誰かはいるのだろうか?
ゴッドノウズ、フーノウズ、アイドントファッキンノウ。


僕は先程の夢の記憶を遡る。
行き着いた果ては雨晒しの中で僕がひとり立ち尽くすシーンだった。映画の導入部としてはなかなか絵になるかもしれない。僕が主役を務める映画が撮られることは今までなかったけどね。これから先もないだろう。決まった未来のひとつだ。
辺りは薄暗い。夜へ向かうのか朝を迎えるべきなのかわからず戸惑っている景色は灰色の表情を浮かべていた。
僕自身もどこから来たかわからないし、どこかへ向かうような意志もなかった。
落ちてくる雨粒と雨粒がぶつかる瞬間に音が鳴っている気がして、それに意識を集中してみるが、たたたららーと地面を叩く雨音が邪魔をしていて判断できなかった。もしかしたら雨粒同士がぶつかることはないのかもしれない。
「ねぇ」背後から声が聞こえて僕は振り返る。
そこには緑の女の子がいた。緑の傘に、緑のワンピース、そして緑の長靴。質感や明度はそれぞれ違う。僕は雨蛙を思い出し、雨が好きなのかもしれない、と思う。
彼女の顔は傘の陰に隠れて見えない。僕と同じくらいの年齢だろうか?
「あなた、傘を差せばいいのに」と彼女が言った。僕は現在、傘を持っていない。それは見ればわかるので、雨の日は傘を差して出かけるべきだ、という意味だろう。
「そうやけど今傘がないけん……」
「そう、じゃあこれを使うといいわ」そう言って差していた緑の傘を僕に差し出した。そこで初めて顔が見える。大きな瞳が真っ直ぐにこちらに向かっている。
「いやいや、なんしよん?!君が濡れるやろ!そういう意味で言ったんやないっちゃ」僕は慌てて傘を彼女に押し返す。その際、彼女の手に触れたがひんやりと冷たく、しっとりとしていた。僕は陶器の茶碗を思い浮かべる。
「傘が嫌いなの?それともかっこつけてるの?」僕は水も滴るいい男ではなく、雨に打たれている男子高校生でしかない。
「そうやないっちゃ。今更、傘差したって大して意味ないけん。もうこんなに濡れとんやけ」
僕は両手を広げてみせる。この仕草を彼女が見てどう思うかわからないが言葉を強調させるつもりでやってみた。
「あなた、なんで雨に打たれて平気そうにしてるのよ?ひょっとして嬉しいの?」彼女は呆れたような馬鹿にするような表情をみせる。いや、ただ疑問に思ったことを口にしているだけかもしれない。
「別に嬉しいわけやないよ」
「じゃあ雨の中で突っ立ってる理由は?」
「ああ、理由……う~ん、特にない」
「特にないってことは少なくともあるのよ。些細なことでもそういうのって自分で把握しておくべきよ」
「大したことやないんに?」
「大したことないって思ってるだけかもしれないじゃない。一度見逃すと余程のことがない限り見直したりしないでしょ」
「そうなん」
「あなた雨に打たれてるとき、自分がどうなってるかわかってないでしょ?そういうのも考えないわけ?」
「風邪ひくとか体調が、……」
「そういうことじゃないのよ。雨に打たれてる瞬間よ」
「濡れる」
「馬鹿じゃないの?あなた、濡れてるんじゃなくて削れてるのよ」
「なん言いよん?削れとるってなんがよ?」
「だからそういうの自分で考えなって!」彼女がなぜ僕に対して突っかかってくるのかわからない。
とりあえず僕は言われたように考えようとするが、うまくいかない。そもそも何かが削れているとは思ってもみなかったのだ。雨で削れるってなんだ。見知らぬ機械を使いこなせ、と言われたような感覚だ。
彼女が立ち去ろうとする。
「どこ行くん?」僕は慌てて声をかけた。
「いいからあなたは考えなさいよ。そして、それを私に言う必要はないのよ。わかってる?私に言う為に考えなさいって言ってるんじゃなくて自分の為に考えなってこと」彼女は僕を振り返り呆れたように答えた。足先は僕を向いていない。
「そしたら答えはどうなるん?」
「他人の答えなんて飾りよ。自分で考えることが重要なのよ。他人の出した答えだけをキーホルダーみたいにジャラジャラ集めるだけなんて意味ないのよ。それを見せびらかそうものならみっともないだけだわ」
「ああ、そうかもしれん」僕は斜め上を見て、偉人名言集を丸暗記する男を想像してみた。
彼女は僕に向き直る。
「あなた、まずは疑いなさいよ」彼女のその言葉をきっかけに雨が一層強くなり地面を打ちつける音が激しくなる。ざんだららー。
夢はそこで終わった。
彼女は考えろと言い、最後にまず疑えと言った。

僕は目を覚まして最初に浮かんだ疑問を解決しようと思う。

『現実の世界にも彼女は存在するんじゃないか?』

僕はサンダルを履いて玄関から外に出る。
ざんだららー。
辺りは暗く、雨が強く地面を叩いている。憎いのかもしれない。
暗闇の中で何が行われているのだろうか。見えない音の中へ入るのは躊躇われる。視覚から得る情報よりも耳に飛び込んでくる音の方が勝っている。こんな感覚は初めてだ。夜は音の方が重要なはずだ、そう思うことが少ないだけで。
自分を言い聞かせながら僕は歩き出す。
目を開けていられないほどに打ちつける雨は一粒一粒に重みを感じられる。罰を与える弾丸のつもりかもしれない。傘を持たない僕の罪。
雨粒は温かみを帯びており、自分の血液が体外へ大量に流れ出しているんじゃないかと思えて不安になり手のひらを確認したけど、よく見えない。

パンツがびしょ濡れになるまで十秒もかからなかった。オネショした時の感覚ってこんな感じだったかな、と思いながらも僕は歩く。
衣服が身体に張り付くのはそれほど気分の悪いものではなかった。汗みたいにべたつくことはないし、びしょ濡れになることは彼女に会う条件のようにさえ思える。
「あなた傘をひとつも持ってないの?もしかして知らない?」彼女がそんな風に話しかけてくる気がした。
僕は坂を上る。アスファルトの上を滑るように流れてくる水は小波のように僕の足首で分かれ、そして後方へ逃げていく。水は坂の下へ流れていく。僕は上る。
彼女に会った場所には見覚えがない、というかよく見てなかったので覚えてない。しばらく歩き回ったが、結局彼女には会えなかった。

それから雨が降る度に傘を差さずに歩き回った。ちょうど七月の梅雨時期だったのが幸いだった。
夜に限らず日中も歩き回った。
五度目の捜索を諦めて家に帰ったときに母から厳しく注意された。
ずぶ濡れで帰ってくる息子の体調を心配してのこともあるだろうが、玄関から風呂場までビッタビタになるんだから迷惑だったろうし、ただでさえ洗濯物が溜まりやすい時季にその量を増やす僕の行動は煩わしかったのかもしれない。いや、そうだろう。
理由を問われても夢の中の女の子に会うためだなんて言えないから僕は黙った。夢の中で会った女の子を探しているなどと言えば余計に心配されるはずだし、きっとやめさせられるだろう。嘘をついてもそれは言及の対象になる。理由なんてものはあるだけでそこを責められる。目立つものであり、それらしく非難できるのだ。的確かどうかは別にして。

僕は次の日から夜に出歩くようにした。バスタオルとビニール袋を自分の部屋の窓際に準備してそこから抜け出す。僕の部屋は一階に位置するから出入りは親にばれることはない。
それを三日続けて四日目に体調を崩したけどそれでも雨の中を歩いた翌日に意識が朦朧とするほどの高熱に襲われまともに歩けなくなり寝込んだ。
その寝込んでいる間に僕が通う高校では終業式が行われ、夏休みに入った。
夏休みの初日に同じクラスの友人の大木保人(おおきやすと)が夏休みの課題を届けに来た。
「課題ここに置いとくばい」机に紙の束がばっさあと置かれる。
「ボンド、余計なことすんなっちゃ」僕は大木をボンドと呼ぶ。大木凡人から連想したというのもあるが、初めて会ったときにジェームス・ボンドを真似て自己紹介をしていたからだ。
「保人……大木保人」といった具合だ。
ダブルミーニングというかダブルネーミングというか、まあどうでもいい。
「なん言いよん!俺が持ってこんかったら高津が来るんやったんばい!」高津というのは僕の担任で絵に描いたような熱血教師で、僕はポピュラーな体育会系は嫌いだ。単純なシステムに乗っかってるだけに思える。そしてそれを唯一の正しさと思っている。思っているだけならまだしもそれを押しつけてくるのだ。僕が嫌いなのはその部分だ。
「あ~そうなん」
「それに終業式休んだだけで課題がなくなるわけないやろ」
「お前が持ってこんかったっち言えばなんとかなるかもしれん」
「アホか!なんで俺がお前の為に悪者にならないかんのよ!」
「友達やろ。冬休みは逆に俺が……」
「合わんやん!量が釣り合わんやん!損やん!俺損するやん!」大木は両手で天秤の真似をしながら言った。
大木とは学校でいつもこんな感じでふざけあっている。気が合うのだ。
大木は本棚からベルセルクを取り出し読み始めた。
「ボンド、病人の部屋にしばらくおるつもりやなかろうね?それ貸しちゃるき、もう帰りよ」
「ん?おう、わかった」
「蝕んところが熱いやろ」
「まだそこまで読んでないき、ネタバレすんなよ」
「はよ読んでベルセルク議論しようや。お前読むの遅えけ待ちくたびれるわ」
「しっかり読まんと何回も読んどるお前に勝てんやろうが!」
大木はベルセルクを次々に鞄に入れていく。ベルセルクは男子高校生の胸と股間を熱くするのだ。
「なぁ」僕は言う。
「なん?」
「最近夢みた?」
「あ~夢?なんか中国の細長い山あるやろ?水墨画とか掛け軸とかに描いとるあんな感じの山。あの天辺でな、拳法の修業する夢みたわ」
「へえ、そうなん」
「そんで修業の途中で俺を狙う刺客がめちゃくちゃ襲ってきたんよ。十人くらいかな。その刺客な、頭巾かぶった忍者の恰好しとるんよ」
「ボンドに奥義を覚えさせんようにしたんかな。それで勝ったん?」
「早よ帰れとか言って、お前が俺を引き留めようやん」
「ベルセルクをじっくり読まれるのと比べたら、ないに等しいやろ。泊まっていくとか言い出しかねん」
「まあいいや。そんでだいたいの奴は雑魚やったんよ。まあ俺が強すぎたんかもしれん。ブルース・リーを彷彿とさせるような強さなんよ」そう言いながら大木は獲物を狙うようなギラついた表情を作る。
「お前格闘技の経験ないやろ!」
「素質はそんくらいあるかもしれやろ。そんでな、最後に戦ったやつがその軍団の隊長で、くのいちやったんちゃ」
「くのいちは紅い服着とったん?」
「いや黒やったばい」
「じゃあなんでくのいちってわかったん?」
「今から今から!で、強かったけど倒したんよ。まあまあにしてまだまだやな。そしたらくのいちが自分から頭巾取って、それで女っちわかったんよ。綺麗な顔しちょったわ。あの~あれ、お前の好きな深田恭子に似ちょった!」
「マジか!?なんでボンドの夢に出てくるんよ。お前別に好きやないやろ?俺の夢の中にはまだ出てこんのに。こんなにも……好きなのに……」最後の部分はわざとらしく演じる風に言った。主役になれない脇役の演技を見せつける。
「知らんちゃ。そんでなんかしらんけど、くのいちが抱きついてきてセックスしそうになったんやけど、ちょうどいいとこで目が覚めたんちゃ」大木は本当にがっかりしたように言った。
「お前めちゃくちゃいいやん!そんでどこまでいったん?おっぱいは見たん?触ったん?どんなんやったん?乳首は何色?」僕はマシンガンのように質問をぶつける。
「おっぱいな、すっげえ柔らかかった。お前はまだ知らんやろけど、あれは他のもので例えることはできんばい。だいたい例えっちゅうのはそのものとは違うっちゅうことやけんね」
「いや、ボンドも実際には知らんやろ。夢のおっぱいと現実のおっぱいは違うやろ」僕は言い返す。大木が優位に立って話すのが悔しい。
「アホか!夢のおっぱいにも触れたことのないお前にはわからんやろうな~」
「ああ、そうなん」僕は諦める。何を言っても夢のおっぱいに触れた経験のあるなしを絡めた言葉が返ってくるんだろう。
「そんで、おっぱい触ったり舐めたりしよって、さあいよいよチンコ入れるぞ~ってなった時におかんが起こしやがったんちゃ!それで喧嘩したもん」
「そんなんで喧嘩すんなちゃ!」僕は言った後に自分の言葉に疑問を持つ。そんなこと?僕は他人の夢のことだからそう思うのだろうか?
「今日みた夢でまだ立ち直れん」僕が夢の中の女の子を探し回るのと大木が落ち込むのは別物だろうか?
「まぁ修業の方はセイコウしたんやろ?」僕は茶化す。
「わからん」同音異義語に突っ込んでこない。大木も夢の続きを求めているのだ。ただ大木の場合は深田恭子だとか物語どうこうではなく性欲だろう。僕はなんの欲だ?
「そうなん、まあ帰ってベルセルク読んどき!」とりあえず大木の続きはベルセルクで足りる。スケベなシーンがあるのだ。
「おお、じゃあ帰るわ。またな」
「ば~い」
その夜、熱は引いたが雨は降らなかった。
その翌日に体調は完全に戻り、夜になって捜索の準備もしていたが雨は降らなかった。
彼女との二度目の邂逅は僕の全く予期せぬ形で訪れた。二度目といっても最初は僕の夢の中だったわけで、この世界では初対面ってことになるのか。ややこしい。

この日、僕は大木の家に遊びに行く約束をしていて、そのせいだかわからないが午前七時に目が覚めた。なんとなくテレビをつけるが、ニュースや芸能情報の原稿を読む声が耳に触れているとわかる程度の音量に調節したあと、画面から視線を外し意識を集中させるわけでもなくただ聞き流していた。もう一度寝ようとして目を閉じるが暑さが煩わしくて眠りに落ちることはできない。それからベッドに腰掛ける。よし、この暑さは冬の毛布の心地よさだと思い込もうとしたが余計に暑苦しくなる。そのまま上半身をベッドに預けて天井を見上げ何かを考えようとするが思考の糸を捕まえることができなくて天井を見上げているだけだった。そんな感じでなんでもない時間を過ごし、時計の針が十時を示しているのを確認して出掛ける準備を始める。大木には昼頃行くと伝えている。
机の上に目をやると夏休みの課題が数日前にそこに置かれたままの状態を保っていた。僕にはそれが誰かの忘れ物のように思え、自分の部屋に異物が混入し続けているような気がしている。違和感。その紙の束と見つめ合ったが僕の方から視線を外してしまった。小学生の頃は『友』と呼ばれていたそれとは次第に疎遠になってしまったのだ。
僕は母親に行き先を告げ家を出る。
太陽は高く位置していて日差しはジギリジギリと全てを等しく照らしつけている。肌の露出した部分が焼けていく感覚がわかる。
今朝、ニュースキャスターが梅雨明けを伝えていたのを僕は思い出した。夏の幕開け。
僕は電車に乗り三つ先の駅で降りる。そこから歩き始めてすぐに汗が玉を作り始め、額から頬へツッツウーと滑る。それをティーシャツの袖で拭う。
熱を吸収したアスファルトと太陽光線に挟まれた僕はたいやきを作る機械を思い出した。たいやきにとっては上下ではなく左右からの熱攻撃か、などと考えながら歩く。
空を見上げるとまさしく文字通りの青空が一面に広がっていて、雲はひとつもない。きっと梅雨の間に全部雨になったんだろう。しばらく雨は降らないかもしれない。雨雲と白い雲はまた別のものかもしれないけど僕はなんとなくそう思う。
大木の家に到着し、呼び鈴を押す。ていんとおん。
「は~い」スピーカーから声が聞こえてきた。
「雨宮ですけど、保人君いますか?」
「あ~保人ならさっき出ていきよったけど」
「そうですか、どこに行ったかわかりますか?」
「なんか山に行くとか言いよったばい。中国の細長い山で修業が……」
「お前ボンドやろ!兄ちゃんと声が似ちょうき、兄ちゃんかと思って喋りよったわ!丁寧に言わないかんと思ったんに損やん!俺損したやん!」
「お前それこの前の俺のやつやん!まあいいや。今俺しかおらんばい。今、昼飯作りようき、部屋行って待っちょって」
「はいは~い」
僕は何度も大木の家に遊びに来ているので、部屋の位置はわかっている。
玄関から入って正面の階段を上がった先の左側の部屋が大木の部屋だ。右側にも部屋があり、そこは大木の兄の部屋だ。今はいないらしい。
大木の部屋のドアを開けると女の子がベッドに腰掛けていた。一目見てわかった。僕が探していた夢の中の女の子が制服姿でそこにいた。やっぱりこっちにもいたんだ、という喜びより驚きが先に僕を支配した。まさかここで会うとは思いもしなかったし、そもそも誰かがいるとは思っていなかった。二重の衝撃が僕の思考を停止に追いやろうとするが、僕はポカーンと自分で言ってしまう手前でなんとか持ちこたえる。
彼女は僕を見ても特に反応は見せない。大きな瞳からの視線を僕から外し俯いた。
そして沈黙。
沈黙のお手本となるような沈黙が続く。沈黙が次第に空気に溶け込み広がっているような気がする。それとも沈黙という状態が常なのだろうか?言葉が途切れた瞬間に言葉の発生源だった僕の周りを沈黙が修復していくようなものなのかもしれない。といっても僕はこの家に入って一度も喋っていないし、彼女も僕に対して一言も発していないから沈黙は既に在ったわけで、僕が沈黙を意識したから沈黙が始まったわけでもない。でも一人でいるときに黙っているのを沈黙と呼んでいいのかわからないし、沈黙を意識するということは大抵近くに誰かがいるからで、人と人の間に沈黙が存在するのだろうか……沈黙が存在するって表現はなんだかしっくりこないけどまあいい。などと沈黙と反比例するかのような思考がうるさい。二人居て黙っていたら沈黙で、一人の時は沈黙とはべつの呼び名があるのだろうか。
夢の中では彼女の方から話しかけてきたのに今はなぜ黙っているのだろうか?
彼女は僕以外の何かに意識を集中させている。
日本の裏側に位置するブラジルで今まさに食卓から落ちてしまったフォークだとかスプーンだとかの音を聞き取る為に黙り込んでいるのかもしれない。
僕もそれに倣う。
ティキーンキーンキンとスプーンを落としたような音が聞こえた直後に、あいやーと大木の声が続き沈黙が破られた。
今だ。僕は部屋に入り扉を閉めた。
「あんた、なんでここにおるん?」と僕が言うと彼女は再び僕を見る。
「あんたっち呼ばれるの嫌なんやけど」僕の文脈にそぐわない言葉が返ってきた。夢とは違い、標準語ではなかったのが少しだけひっかかる。
「そういや名前知らんかった。名前は?」
「そういや知らんかったっちなんなん?初めて会うやろ」また違う文脈で返された。
「ああ、そうか。ハジメマシテ。ナマエ、オシエテ、クダサイ」
「月子……天野月子」お前もか。大木の彼女だろうか?ボンドガール?
「アマノツキコ?ツキって空の月?セーラームーンに出てきそうやね」
「それよう言われるんやけどそれも嫌」僕と月子の間には新鮮度に違いがあって、僕の口から脊髄反射のように出てきた言葉を月子は聞き飽きてうんざりしているらしい。ひょっとしたらそのことでからかわれて嫌な思いをした経験があるのかもしれない。
「ああ、そうなん。ごめんね。俺は雨宮陽平。太陽の陽に平ら」
「ふ~ん。天気予報みたいやね」
「ん?」
「雨のち晴れみたいな」
「ああ、それ初めて言われたけど気に入ったわ!それでなんでここにおるん?」文脈を戻す。
「それ嫌味なん?」そっちの文脈で返すのか。僕の話し方がよほど気に入らないのだろうか?もしかしたら今まで気付かなかっただけで僕は他人を苛つかせながら話していたのか?それとも月子が文脈を無視するタイプなのかもしれない、と僕は自分をフォローするようなことを考える。
「本当に気に入ったばい。やまない雨はないみたいでいいやん」
「そうなん」
「大木と付き合っとるん?」
「大木っち誰なん?」
「いやいや、この部屋の主やん。友達?」
「知らんけど……ここそうなん?」知らない?
「陽平~降りてき~」僕を呼ぶ大木の声が聞こえてきた。
「月子はどうする?」
「いきなり呼び捨てなん?」間違いない。月子は僕が気に入らないんだ。それ以前に彼女は夢の中の彼女か?なんだか違う気がする。
「だめなん?」
「いいよ」いいのか?
「で、どうする?」
「私は呼ばれてないやろ」
「そうやけど……俺ちょっと降りてくるわ」
僕は階段を降りてダイニングルームに行く。
「お前も食うやろ?ボンド特製炒飯ばい」用意していた炒飯は二人分。
「月子のはないん?」
「は?」
「なんとぼけよん。天野月子よ!なんで部屋におるっち言わんかったん?彼女なん?」
「いや、俺とお前しか家におらんばい……お前、天野月子知っとるん?」
「だき、部屋におったやん!どっきりばっか仕掛けんなっちゃ!」
「おるわけないやろ!」大木は何かを知っているような言い方をした。うん?
「たった今まで話しよったんばい」
「声が聞こえよったけど電話しよんかと思った」
「また騙そうとしよんやろ。もうひっかからんっちゃ」
いや、と言いながら大木は首を横に振る。表情はいつになく真面目だ。
「ほんならちょっと見にいこ」僕が先を歩き大木の部屋まで行く。ドアを開ける。
月子はいない。隠れられそうな場所も探したが彼女はいなかった。
「確かにおったんばい。兄ちゃんの部屋も見ていい?」
「いいけど、物の位置とか変えんなよ」
大木の兄の部屋にも月子はいなかった。
「おらんくなった」
「お前の方が騙そうとしよんやろ?さっきの仕返しのつもりなん?下手くそやん。まあ昼飯食おうや、修行帰りのボンド特製……」
「はいはい」
階段を降りる際に玄関が目に入った。そういえば僕が家に入った時、女性の靴はなかった。靴箱に隠していればそれまでだが……。
僕達はテーブルにつき、炒飯を食べ始める。
「うまいやん」
「特製やきね」
カキッカチャカキッカチャとスプーンと皿のぶつかる音が続く。
ブラジル人も炒飯を食べるのだろうか、と僕は思った。
「ボンド、さっきおるわけないっち言ったんはなんなん?天野月子のこと知っちょんやろ?」
「お前に、っちゅうか誰にも言うつもりなかったんやけどな……俺の親父警察やろ」
「おう」僕は炒飯を頬張りながら相槌を打つ。
「事件があってな、天野月子って子が被害者なんよ。俺らと同い年で、お前んちの近くに女子校あるやろ?あそこの一年。親父から知り合いやないかっち聞かれて、そんでちょっと事件の概要も教えてもらった」
「ああ、制服着ちょったわ。事件っちなん?」
「一昨日の朝に、びしょ濡れで見立川の中でぶっ倒れちょったらしい。そんで今入院しちょう。あんまり状態は良くないっち言いよったばい」
「はあ?そんなら、さっきのは」
「お前さっきホントに見たんか?」
「見たっちゃ!話もしたばい」
「ん~そうなん、まあ候補を幾つかあげちゃるわ。幽霊っちゅうか生き霊っち言われとるようなもんがひとつ目。お前の幻覚っちゅうのがふたつ目。怖いんやけど別人っちゅうのがみっつ目やな。あと有り得んと思うけど本人っちゅうのがよっつ目で、陽平の嘘っちゅうのがオマケでいつつ目や」
「嘘やないっちゃ!あーでもボンドが言いよう天野月子と俺が言いよう天野月子が別人っちゅうこともあるんやな。偶然同じ名前か、俺が言いよう天野月子が嘘ついちょうか。まあ、そっちはあとでいいや。もっと事件のこと教えてくれ」
「おお、警察は天野月子が川で水遊びしとって力尽きたとは考えんよな。えらい怪我もしとる。そんで、目立たん夜中か朝方に誰かから橋の上から押されて落ちたんやないかっち言われとるらしい。つまり加害者がおるやろうっちゅう考え。橋の欄干の一カ所に引きずったようなこすれた不自然な跡があったみたいばい。あそこで魚釣りする奴はおらん。浅いやろ」
「セーラームーン」
「はあ?」大木の眉間に皺が寄る。
「それセーラームーンやん!」
「お前いきなり美少女戦士に目覚めたん?」
「違うわ!主人公の月野うさぎの決め台詞あるやろ?『月に代わってお仕置きよ』ちゅうやつ。『月』は『月夜』やろ。『代わって』は『川で』ほんで『おし』が『押す、橋から落とす』で『置き』は『置き去り』やん。まあ、お仕置きはそのままの意味でもいいわ。天野月子は誰かに恨まれちょった可能性があるかもしれん」
「陽平、なん言いよん?」
「もしかしたらお仕置きに対する復讐が成されたんかもしれん……天野月子がセーラー戦士でお仕置きをするやろ?それで逆恨み的な……」
「お前やっぱなんか目覚めたな?いや、寝とるやろ?そんなん寝言やん。寝言やったら笑って聞いちゃるばい」
「セーラームーンに関係しちょうかもしれんやろ。天野月子ってセーラームーンに出てきそうな名前やろ?」
「全部こじつけやん」
「こじつけとか思い込みが激しい奴が事件起こすんやないん?」
「あ~まあそれはそうかもしれんな」と言って大木は空になった皿を見つめる。
僕達は既に炒飯を食べ終えていた。
「天野月子に会われんやか?」
「無理っちゃ。病院は知らんし、そんなんしたら親父にばれるやん」
玄関のドアがガッチャと開き、ただいまーと声が聞こえてきた。大木の母親が帰ってきたのだろう。
大木が僕を強く睨む。もうこの家の中で天野月子の話題を出すなということだろう。
僕は片眉を上げて了解を示す。
「お邪魔してま~す」
「あら、陽平ちゃん。風邪よくなったん?」
「はい、全快です」と言いながら僕は力瘤を作るような仕草を見せる。僕には力瘤ができるほどの筋肉はないけれど。
「そうなん。ならよかったわ」
それから大木の部屋でゲームをしたりベルセルクや他のマンガについて語ったりしてるうちに夕方になった。
大木の母から夕飯に誘われたが僕はそれを断り、帰ることにした。料理が口に合わないということじゃなく、大木の母の作る料理は絶品でいつもは喜んで大木家の食卓に参加するのだが今日は早く一人になりたかった。
大木の部屋にいた天野月子と大木が言っていた事件の天野月子について考えてみたかった。二人は別人か?そして夢の中の彼女と大木の部屋にいた天野月子は同一人物だろうか?
三人の天野月子。
大木の家から出てすぐに僕の携帯が鳴った。メールの着信。大木からだ。
『さっき言いよった事件のこと調べてみらん?俺とお前で探偵コンビ結成しようや(ピストルの絵文字)ボンドandほにゃららや!名前考えとけよ(電球の絵文字)このメールは読んだら消しとって(爆弾の絵文字)』
海外の探偵ならばピストルを持っているイメージがあるがここは日本で、しかも僕達は高校生だからピストルには縁がないと思う。だが、それには触れずに『オウライ』とだけ返信し、指示されたようにメールを消した。映画なら爆発するから。メールが爆発するっけ?
大木は日本の探偵と海外のスパイを同じものとして認識しているんじゃないかと思う。
そういえば僕には特にニックネームがない。そもそも自分の呼び名を自分で考える必要があるだろうか?あったとしても自分で自分を呼ぶことはない。なんだか変な気分だ。
そんなことを考えている僕の視線の先では夕焼けが始まっていて僕は立ち止まる。
煌めく太陽に赤みはなく既に山の向こうに半身を隠している。太陽に近い部分の空は白に金を混ぜたような色に染まりオーラを纏っているようで、その分太陽が大きく見える。そこから放射状に広がっていくにつれ翡翠のような緑色へ変化し、太陽から離れていくに従って緑色は明度を下げていき群青色となる。闇はまだ存在していない。その空を見ていると海を見ているような気分になり、上と下がよくわからなくなった。幼い頃、右と左の判断がつかなかったことを僕は思い出す。僕はカメラのシャッターのつもりで何度か瞬きをした。

その日の夢に天野月子が出てきた。
天野月子は最初に会った夢の中の天野月子だったけど、その時の僕は夢の中だとは思ってなくて月子の違いが気にならなかった。
雨は降っていない。
「あ、おった」
「なに、私を探してたの?」
月子は緑色の格好をしていた。だからすぐにわかった。
「そうやけど、もう会えんと思っちょった」
「よく分からない予測ね。会えないって根拠のない予測があって、でも探そうとする。その動機はなんなの?」
「会いたいっちゅう気持ちはあるばい」
「そう、それで何か用なの?」
「橋から落ちたのは誰かに落とされたん?」
「え、何言ってるの?」
僕は事実を発信したのに否定された気がして驚いた。月子も驚いていると思う。事実ではないから。
「橋から落ちて大怪我をしてるんじゃないの?」
「そう見えるの?」月子は両手を広げてみせた。見なさい、ということだ。
「見えない」
確かに。大怪我をしているようには見えない。綺麗な陶器の茶碗の肌。
「あなた、誰の話をしてるの?」
僕は黙る。
「聞き直すわ。誰の話がしたいの?」
黙る。
「今誰と話してるかわかる?」
「……月子」
「私の名前を知っているのね。そういうのやめた方がいいよ。私は橋から落ちてもないし、大怪我もしてない。私以外の人の中にならそうなってる人もいるでしょうね」
なぜだ。おかしい。
「あなたの名前は?」
前に教えた、と言おうとしたが思い直して再度伝えることにする。
「雨宮陽平」
「へえ、虹が架かりそうね」
陽平の後に、へえという相槌はおもしろかった。大木が言ったとしたらそこから広げて遊ぶだろう。
「そんなん言われたの初めてばい」
雨と陽は分かるけど平らだからなあ。
「そう、今までだってそうだったんじゃないの?」
「意味わからん」
「わかろうとしてないでしょ」
「ん?わからんけん、わからんっち言ったんばい。そう言うのはわかろうとしてないことになるん?」
「即答だったじゃない」
確かに。そうか。そうだった。
「さっきのもう一回言って」
「嫌よ、思い出しなさいよ」
「違う、それじゃなくて」
「違わないわよ。今のは一度も言ったことないでしょ。もう一回言うのが嫌だってことよ」
「なるほど」
僕は何の為に月子と話してるのかよくわからなくなった。月子が怪我をしているかどうかを知りたかったんだけど、なんか違ったし。目的がなくなっても話は続いていて、圧が強いし。圧が強いのはずっとか。これは何か意味があるのか。目的がないまま話してるから嫌な感じがするのか。目的のない話は嫌いじゃないけど。今は目的があるべきって思ってるのか、僕が。
「私はあなたが初めて聞くようなことばかり言ってるんじゃないの?」
お、さっきのと似てる気がする。
「んーそうかもしれん」
「私はあなたに初めての話をしてるのよ。似た内容は過去にあったかもしれないだろうけど。私があなたに話してるってことよ」
あ。
「月子と話してると痛む時がある」
「どこが?」
「ココロ?」
「映画に登場する人工知能みたいね」
「はあ……まあ」
「ねえ、それって私のせいなの?君が自分の薄い部分に私の言葉を押し付けてるんじゃないの」
「どうなんやろ?」
「探りなさいよ」
探りなさいと言われても、今ようやくその選択肢を知ったから痛んでいない今は無理だ。今は痛くない。
「人一倍考えることはよくやるんやけど、それとは違うん?」
「それはあなたの安全地帯でやってるんでしょ?」
そこから出ることが探るってことか。
「わかった。痛んだら探る」
月子は僕を見ている。その視線は痛くない。
「今日は雨降ってないね」
「そうね、雨が降らないときもあるのよ。知ってる?」
「知ってる」
「なんなの、この会話」
「天気の話」
「必要?」
「そんなんわからんけど、なければ良かったとは思わんばい」
「わからなくもないわ」
「初めて賛成された」
「そうでもないと思うけど……今のは?」
「ん?」
「痛み」
「痛くない」
「そう」

この夢の中で僕はニックネームを決める。


その翌日。夕方頃に僕は大木と天野月子が倒れていた見立川に行くことにする。
「よう!相棒!コードネーム!」
「レインボー」
「お前マジか?!ダサすぎるやろ」
「ほんならレイ?」
「んあー」苦い顔をしている。虹はポップな色だから甘いはずなのに。
「レイ&ボンドならレイボンドでなんか語呂がよくなるやろ」追撃。
「お前が先に来るんがなーボンドレイ、レイボンド、ボンドレイ、レイボンド……」
大木の呪文を聞きながら見立て川に到着する。
「レイボンドのうちの4文字がレインボーと同じやん!俺は伸ばし棒と同じ価値しかないんか?!」
「虹の過去形みたいでいいやん」
「なんでかっちゃ!よくないやろ!お前の過去形のためにedになる俺の気持ちは曇っていくばかりやん!」
警察はいない。
代わりに天野月子がいた。
なんでだよ。
月子は寄りかかっていた橋から落ちた。僕は走って川の方へ向かうが月子いない。
大木が僕の側へ来る。
「陽平、逃げんな!」
「ボンド、月子が消えた」
「は?」セーラームーンの話の時のリアクションと同じだった。
ピロリン♪
大木は携帯の画面を確認する。
「洋平、天野月子亡くなったっち。ボスからメールや」
「は?」
一気に事が起こり過ぎやろ。今落ちたのはそういうことなの?

その日の夜、僕はずっと歩き回る
天野月子を探して歩き回る。
夢に出てきそうな気もしたけど、居ても立ってもいられなかった。見立川に入ってびしょ濡れになって、歩き回って、途中意味もなく走ったりしたけど月子は見つからない。流石に疲れたけど諦めきれなくて帰りたくなくて公園でベンチに腰掛けたまま眠ってしまう。
夢を見た気もするが覚えていない。そのあとは意識がはっきりしないまま家に帰ったと思う。家に帰りそのままベッドに倒れてまた眠る。夢は見ない。
目が覚めて僕は嫌な気分になる。月子を見つけられない自分の無力感と月子を見つける目的が何になるのか、見つけたらどうなるのか。夕方まで考えるだけで過ごす。
僕は天野月子の通夜に向かう。小さな町だから通夜の案内看板のようなものを見つけるのは容易かった。
大木と親父さんがいた。
「陽平、お前マジか」いつもの半分以下の音量。
「ボンドすまん、今は話しかけんとってくれ、すまん」
天野月子は外見だけでいうなら全くの別人だった。
眠っているようには見えなくて、白くてもう動かないんだと感じる。
僕は彼女と話したかっただろうか。
探ってもそれはなかった。
彼女はどうだろうか。
それもなかった。ずっとないまま続くだけだ。

僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ