【観戦記】振り切った天才 第91期ヒューリック杯棋聖戦挑戦者決定戦 永瀬拓矢二冠vs藤井聡太七段

全国の将棋ファンにとっては気が気でない1週間だっただろう。しかしついにここまで来てしまった。

私たちは伝説の序章を目の当たりにしているのだ。

「軍曹」永瀬が見せた、勝負師の顔

永瀬拓矢と言えば、圧倒的な努力家として知られている。研究に費やす時間は将棋界でも随一と言われており、秒進分歩で結論が変わる現代将棋の最先端を常に開拓している棋士だ。

そんな永瀬は「負けない将棋」の異名のごとく、長期戦を厭わず受けに徹するなど、徹底的に勝負にこだわる勝負師の顔も併せ持っている。

永瀬の勝負師ぶりを世に知らしめたエピソードがある。今から遡ること5年、叡王戦の前身である「電王戦」で当時六段の永瀬がコンピュータソフト・Seleneと対局したときのことだ。戦前からSeleneとの練習対局を繰り返していた永瀬は「勝率は1割だった」と自ら認めるほど苦戦していた。

しかし局後の記者会見では同時にこう語った。「1割を本番で引ける自信はあった」と。

この将棋を鮮明に記憶している将棋ファンも多いのではないだろうか。相居飛車の力戦から一歩も引かずに勝勢を築いた永瀬は、ただ勝つだけでなく最終盤で「27角不成」とあえて角を成らない意表の一着を放ち、Seleneのバグ(反則)を誘ってみせた。最強クラスのソフトを、文字通り完膚なきまでに叩きのめしたのだ。

どれほどの強敵であろうと、勝負の土俵に引っ張り込めば最後は自分が勝つ。恐ろしい勝負師の片鱗を見せた瞬間だった。

当時の永瀬は、まだプロ入りもしていない天才少年と5年後に大一番を戦うことになると予期していただろうか。

果たして、勝負師・永瀬は魅せた。

26飛。

一見するとただ一歩交換から飛車を引いただけの手は、永瀬がこの大一番の命運を託した勝負の一着だった。

天才に立ちはだかる最後の壁

藤井聡太が今後、将棋界の歴史に輝かしいページを刻み続けるであろうことは疑いない。

タイトル戦の最年少挑戦記録が懸かるこの挑戦者決定戦。仮に敗れたとしても彼がタイトルを獲得するのは時間の問題だろう。

しかし、簡単に記録を樹立させはしない。その思いはトップ棋士たちに共通していたはずだ。

かつて羽生善治が七冠王の偉業を達成したとき、森下卓は「棋士にとっては屈辱でもある」と言った。

勝負を争う棋士にとって、一人の天才が覇権を握ることは、同時に自らが敗者としてひれ伏すことを意味する。

最後の壁として名乗りをあげた永瀬もまた、並々ならぬ決意で本局に臨んだことは想像に難くない。その鬼のような気迫は序盤の一手「26飛」から感じ取れた。

直前までは藤井の公式戦で前例のある進行だった。97の地点には角が上がっており、次に「95歩」の端攻めを狙われている。そのため、飛車の横利きを通して「25飛」と引くのが自然な一着であり、前例もそう進んでいた。

26飛の局面を目にした藤井は序盤から長考の海に沈んだ。察するに、26飛という手は藤井の研究の範囲外だったのだろう。たかが1マスの違いでありながら、それは永瀬がこの日に向けて練ってきた秘策であり、天才・藤井を攻略する渾身の勝負手だったに違いない。

藤井は49分の考慮時間を消費し、34歩と自重した。95歩の変化には飛び込めなかった。

自重したところで形勢を損ねたわけではない。しかし消費時間には大きな差が開いた。

永瀬は藤井に落ち着く猶予を与えず攻め込んでいく。

35歩。86飛。82歩。34飛。

昼食休憩から間もない段階で猛攻を仕掛け、藤井の中住まいに肉薄する。

かなり深くまで研究していることが窺い知れる進行だった。34飛と打った局面で藤井は46分の長考に入る。これで消費時間には1時間20分ほどの差がついた。

しかし藤井は間違えない。一手でも疑問手を指せば奈落の底に転落するような局面で、最善手を連発して凌ぐ。

17時を回った頃、藤井は54手目36銀を着手。歩が前進できるところに銀を打つ、第一感では見えづらい手だ。これもまた、ソフトが示した最善手だった。

この時点でABEMAの将棋AIの形勢判断は永瀬に52%と、ほぼ互角の数値を示していた。

36銀と打たれた永瀬が本局一番の長考に沈む。さすがの永瀬とはいえ読みになかっただろうか。あるいはリードを維持するため慎重になっているのだろうか。画面に映し出されるポーカーフェイスから二冠王の心中を察することは難しかった。

戻らなかった針

69玉。

68分の考慮で永瀬がひねり出したのは、「負けない将棋」の名を体で行く48金打ではなく、相手の切っ先から玉の早逃げで攻めを凌ぐ一手だった。

この手に反応したAIが、藤井に52%の数値を示す。本局で初めて形勢の針が藤井に振れた瞬間だった。

驚くべきことに、この手を境に藤井の側に傾いた針は終局まで戻らなかった。

27銀成。

そっぽに成銀を作り、「と金攻め」を見せて焦らせる。今度は永瀬が暴れてくるのを丁寧に受け止め、優位を拡大する。

17歳とは思えない老獪な指し回しで藤井は有利を優勢に、そして勝勢に変えていく。

最後まで勝負を捨てない永瀬は、44馬というタダ捨ての鬼手を放つ。

AIが藤井の期待勝率を99%と表示しているからこそ、将棋ファンは憂いなく観戦できていただろう。しかしアマチュア有段者程度の棋力なら、まして1分将棋なら、ここから大逆転しても全く不思議ではない局面だ。

しかし藤井は間違えない。永瀬玉を的確に包囲し、追い詰めていく。

儀礼的に、淡々と指し手だけが進む。

68角。

即詰みを決める100手目を見て永瀬が投了を告げ、大記録が達成された。

伝説の幕開け

かくして歴史的な一局は幕を閉じた。

この記念すべき対局をリアルタイムで観戦できたことは将棋愛好家としての誇りである。しかしこれは偉大なる天才が刻む物語の序章に過ぎない。

次なる期待がかかるのは、もちろん最年少タイトルの獲得である。

ともにその目に焼き付けよう、彼の姿を。彼の棋譜を。

絶対王者・渡辺明棋聖との五番勝負が開幕するのは6月8日。

週明けの月曜日、どれだけの将棋ファンが有給休暇を申請するだろうか。

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