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異端審問の歴史 一、中世異端審問

こんにちは。

皆さんは聖書と世間で言われるキリスト教、特にカトリックについて、どんな風に考えておりますか。世界一の信徒数を誇る教会だとか、歴史上戦争で多くの人々を虐殺した宗教だと言う人もいると思います。キリスト教が人殺しの宗教と誤解されている理由は、中世以降のカトリックの悪事が原因であり、聖書の教えのせいではありません。
まず、カトリックはイエス・キリストと十二使徒の教えを無視して、偽使徒パウロの書簡を曲解及び盲信して、古代の太陽神崇拝の習慣を融合させることで作られた聖書とは無関係の宗教、所謂パウロ教である事を念頭に置いて下さい。詳しくは真の聖書福音と預言のミカエル氏のブログ記事「パウロは偽使徒 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」、「偽使徒パウロの反キリスト教義 一 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」から始まる連載記事を参考になりますので、是非ご覧下さい。
皆さんの聖書に対する誤解を解くために、複数回に分けてカトリックの闇の歴史を論じていきます。今回は、カトリックの悪行の中で特に悪名高い異端審問について解説します。異端審問とは、大きく三つに分かれています。一つは中世の異端審問、二つはスペイン異端審問、三つはローマの異端審問です。それぞれが異なった時代背景と性格を持っているため、一つの記事にまとめるのは難しいと思われます。従って、異端審問は三回に分けて解説していきます。今回は中世の異端審問、特に千百八十四年から千二百三十年代までの司教異端審問と千二百三十年代の教皇異端審問について、解説していきます。

一、そもそも異端審問とは
まず初めに、異端審問とは異端を根絶することを目的とした制度であり、異端審問所とは異端審問を行う施設のことを言います。初期のキリスト教では多くの神学論争が行われましたが、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が発布したミラノ勅令による公認以降、パウロ教とローマ帝国の統治が統合していくにつれて、異種の教義理解を容認しておくことは帝国の統治の安定を揺るがすものと危険視されるようになりました。それ以降、教義について異なる意見が提示された場合や意見の対立が起こった場合はしばしば教会会議や公会議によって討議・判断され、誤謬とみなされた説は異端として退けられていました。この過程で神学は徐々に理論化されて、確立されました。このように「正統と異端」という問題では宗教問題という形式の裏に、常に政治問題と権力者の意向を見え隠れさせていたのです。欧州で異端審問が確立する以前は、異端審問は司教固有の権限とされていましたが、それ以外にも世俗の権力であったり民衆であったりすることがありました。ラウール・グラベルの『年代記』によると、千二十二年にはフランスのオルレアンで十数人の異端者が捕縛され、当時のフランス国王のロベール二世は火刑を命じたと言われています。この事件を皮切りに中世における異端審問の数が増え始めていき、十一世紀中盤までに異端発覚の報告が十七件を超えるも、十一世紀後半に異端発覚の数が沈静化しましたが、十二世紀以降には再び急増していきました。西欧においては西ローマ帝国の滅亡とその後の混乱期において異端問題はあまり取り上げられることはなかったのですが、十二世紀以降に西欧の諸勢力が各地において権威の集中化を目指す中で、異端者が再び統治システムの安定を揺るがす危険分子とみなされるようになっていきました。

二、司教審問
まずは、中世異端審問の中では初期に行われていた司教審問について解説します。
十二世紀から「中世の異端審問」と呼ばれる本格的な異端審問が始まったきっかけは、カトリックに対する背教あるいは異端とみなされた運動、特に南フランスや北イタリアで影響力を拡大したカタリ派、ワルドー派などカトリックに反旗を翻す宗派を抑圧するためでした。
先述したように、異端問題はしばしば政治問題として扱われており、当初は地方を支配する領主達が治安を乱す要因として地方毎に個別にカタリ派の捕縛と裁判を行っていましたが、そうした従来の方法を纏めた形で千百八十四年にローマ教皇ルキウス三世の教皇勅書の「アド・アボレンダム(甚だしきもののために)」によって、教会による公式な異端審問の方法が示されたのです。そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われており、司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものでした。


教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、この制度はそれほど厳密に適用されていませんでしたが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変したのです。

三、教皇審問
次は、中世異端審問の中で特筆するべき教皇審問について解説していきます。
十二世紀辺りから、自称聖職者の違法な婚姻(カトリックは結婚禁止規定を作っているが、聖書には結婚禁止規定が存在しないが、不法な結婚は例外である)をはじめとした腐敗が目立つようになったことを背景に、新たな「(カトリック側の視点の)異端」運動が広がりを見せていきました。先述しました通り、中世異端審問の最大の目的は、こうした新たな動きを根絶することにあった。それゆえ異端審問の開催地は、カタリ派とヴァルド派という二大宗派が活発なイタリアとフランスに集中しました。異端活動の告発を審議する権限は常に司教にありましたが、何が異端であるかという定義が明確でなかったため、司教たちは他の司教と協議したり、ローマに助言を求めたりした。それに対してローマ教皇インノケンティウス三世はカタリ派やヴァルド派の拡大を阻止すべく、プロヴァンスやライン川沿いのドイツの各地に教皇特使を派遣して対応しました。この特使は当初は司教に助言する立場に過ぎませんでしたが、後に異端審問を行う上で重要な役割を担うようになりました。

千二百三十一年、ローマ教皇グレゴリウス九世はドミニコ会士やフランシスコ会士を中心に教皇異端審問官を任命し、欧州中至る地域に派遣しました。この任に当たった托鉢修道士たちは旅慣れしており、無闇矢鱈に行われた司教審問の段取りと異なり、教皇審問は徹底的かつ組織的に行われ、詳細な記録が残されました。このような法廷はフランスやイタリア、またドイツの一部でも開かれていましたが、十四世紀前半までに姿を消した。 グレゴリウス九世は当初、カトリックの教えから外れた信仰を持つ者を拾い集め、正統教義に導くための例外的な法廷(そこでは、異端が己の考えの誤りに気づき、ローマ・カトリック教会に復帰することが期待されていた)を意図していましたが、グレゴリウス九世もカトリックの共同体を異端の伝播から守る必要があることは認識しており、もし頑なに異端的考えを捨てないものがいれば、世俗権力のもとに引き渡すこともありました。世俗の法も教会法と同じく、異端を公共に対する罪と見なしていたからです。世俗権力は不服従を貫こうとする異端に、火あぶりを含むそれぞれ独自の処罰を与えました。
特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は第四回ラテラノ公会議で採決された異端審問の制度を帝国法に取り込んで法制化して、自らの権限で死刑を最高刑にできるようにしたのです。
一般の告訴訴訟では、事実によって証明された告訴人の証言に基づいて裁判が行われていましたが、異端審問の場合は異端審問官が自らが起訴し、自らの裁量で裁く点で大きく異なります。
噂や密告者の証言などを証拠として逮捕でき、被告に証言者の名を告げることもなかったため、悪意による偽証がまかり通っていたのです。
数世紀にわたり、何世紀にもわたって、裁判は様々な形で行われ、魔術を含む様々な異端を調査しては、撲滅していったのです。

各地地元の聖職者や世俗司法権力は、教皇審問の宿敵であり続けた。どのような形でも、異端検察権の完全な支配を確立できた教皇はいませんでした。中世の王や公、司教、世俗権力すべてが異端検察の手続き中に役割を占めており、教皇審問は十三世紀後半に最高潮に達しました。
この時代、異端を裁く裁判所はほとんど全面的に、教皇を含むあらゆる権力から独立していたため、異端審問の乱用を根絶することはほとんど不可能でした。
例えば、「異端の鉄槌」のあだ名で知られるドミニコ会士Robert le Bougreは、その残酷さと暴力性で悪名高い異端審問官でした。また、ヴェネツィアでは、異端審問をゆだねられたフランシスコ会士たちが、異端の財産を差し押さえたり免罪を乱売したりして私腹を肥やすといった、教会に対する欺瞞を働いていることが瞬く間に知れ渡りました。彼らの汚職は教皇からも目を付けられ、千三百二年に活動を停止させられました。 南欧ではアラゴン王国に教会が運営する法廷が存在していましたが、このような制度は他のイベリア半島諸国やイングランドなど他の国々でも類を見なかったです。また、スカンディナヴィア諸王国に関しては、異端審問の影響をほとんど受けなかったのです。

十四世紀初頭、テンプル騎士団とベギン会が異端審問の標的となり、テンプル騎士団に関しては、その異端審問の発端が本当の異端嫌疑にあったのか、はたまた騎士団の富を欲したフランス王フィリップ四世による陰謀だったのかは定かでないのです。国王が騎士団に対し莫大な借金をしていた英国でも、恐らくそれゆえに、騎士団が迫害されたとされます。テンプル騎士団の領地は没収又は他者に奪われたりしました。エドワード二世の重い借金を背負わせていたために騎士団が迫害され、エドワード二世の寵臣ヒュー・ル・ディスペンサー親子に奪われたのを最後に、英国におけるテンプル騎士団の私有地は消滅しました。多くのテンプル騎士が英国で殺害され、スコットランドなど他国に逃れた者もいました。 ベギン会は女性を中心とした運動で、十三世紀に設立されたときから教会に認知されていました。マルグリット・ポレートが著した『素朴な魂の鏡』の名で知られる神秘主義的作品は、論争の火種となりました。というのも、この本の内容は、魂が神と一つになることが出来、その状態になれば道徳律を無視できるようになり、教会や秘跡なども要らなくなる、と説いているように誤解されやすかったからである。ポレートはフランスのドミニコ会異端審問官に起訴され、異端再犯者として千三百十年に火刑に処されました。千三百十一年のヴィエンヌ公会議もポレートの一味を異端であると断じ、ベギン会の運動は衰退していきました。 中世の異端審問官たちは、当初は魔術に対してあまり関心を払っていなかったのですが、ローマ教皇ヨハネス二十二世が毒と魔術による暗殺未遂を受けてから状況は一変しました。千三百二十年にサンタ・サビーナのグリエルモ枢機卿がカルカソンヌとトゥールーズの異端審問官たちに送った書簡によれば、ヨハネス二十二世が魔術を異端であると宣言したため、異端審問において魔術を断罪できるようになったとされています。

しかし、聖書の教えからすると、そもそも異端審問自体が異端の有無を問わず聖書の教えに反していると思います。
ここで、聖句を引用します。

旧約聖書 申命記一章十六節~十七節 新共同訳
わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」

旧約聖書 申命記十九章十五節~二十節 新共同訳
いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。

新約聖書 マタイによる福音書七章一節~五節 新共同訳
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

モーセの律法の規定では、裁判ではその人の罪は二人ないし三人の証言で立証されなければならず、裁判に当たっては被告と原告のどちらか一方を偏り見て、どちらか一方に有利な判決を出すのは許されないのです。また、主イエスは人間の罪を裁く権限を持っており、主なる神に先走って人を断罪することを戒めております。
このように、異端審問自体が聖書の教えであるモーセの律法と主イエスの教えに反することが分かります。

四、ジャンヌ・ダルク裁判
最後に、中世異端審問の歴史の中で最も有名な事例のジャンヌ・ダルク裁判について解説していきます。
英仏百年戦争中の千四百二十九年に神の声が聞こえてそれに従っていると称する女性ジャンヌ・ダルクがフランス王太子シャルル(後のフランス王シャルル七世)の軍を率いて、オルレアンの解放を皮切りにパテーの戦いなどで目覚ましい勝利を重ねていきました。神の声を聞いたと言われるジャンヌですが、主イエスが来臨された新約時代から神は戦争を正義とされなくなっているため、実際は悪霊の声といえます。旧約時代は確かに神の御計画の範囲内で戦争は許可されていましたが、主イエスが来臨されてからはその限りでなくなっているのです。
千四百三十年、ジャンヌの進撃は行き詰まり、英国の同盟者のブルゴーニュ公の軍によって捕らえられました。そのまま、ジャンヌの身柄は英王ヘンリー六世が大陸における戦争の総司令部を置いていたルーアンに移され、ピエール・コーション司教のもとで、ジャンヌは異端の嫌疑をかけられ教会法廷で裁かれることとなりました。ジャンヌ・ダルク裁判はどちらかというと、政治的な思惑に左右されており、東京裁判並みの相手国による一方的な私刑の要素が強いように思えます。
コーションはフランス人でありながら千四百十八年以来親英派であり、フランス陣営で活躍したジャンヌに敵愾心を抱いていました。他の裁判に関与した者たちも同様でした。彼女の名声を貶めて、英軍の士気を高めるべく、ジャンヌの勝利は悪魔の仕業であるという論理が立てられたのです。そのためジャンヌは異端審問に委ねられることとなったのですが、当時の異端審問官達はこの裁判を自発的に始めた訳ではなく、実際は裁判の期間を通して乗り気ではなかったのです。ジャンヌには七十余りの罪状が突きつけられ、その中には、異端や男装(兵士の服や甲冑を着るなど)の罪も含まれていました。確かに、聖書の律法で男装は禁じられており、その点は正しいのですが、異端審問、ひいてはジャンヌ・ダルク裁判自体が政治的な茶番の要素が強いために間違っています。
目撃者が後に述べたところによれば、ジャンヌは法廷で衛兵たちが度々自分の服を脱がせ強姦しようとしてくるのを防ぐため、ロングブーツと結びつけられる男性用のチュニックを着て「しっかりと紐を締め、結び付けていた」のだと証言していたと言われます。最初の判決は終身刑でしたが、担当異端審問官代理のジャン・ル・メートル(目撃者の言によれば、彼は英国に脅迫されてやむなく審問に出席していたとされます)は、ジャンヌから男装をやめるという言質を取りましたが、四日後にジャンヌは兵士の服装に戻ってしまいました。ジャンヌは再び男装した理由について、「男性たちといる以上、女性の服よりも男性の服を着用するほうが適切であると思ったため」「ミサに参加し聖体を拝領でき、鉄の鎖が解かれることを約束してもらっていたが、その約束が果たされなかったためである。そして、教会内の牢に入れ、そして牢番も女性(修道女)になるのならば、喜んで教会の望む通りのことを、女性の服を再び着用する準備ができている」と返答しました。

後に裁判の執行官であるジャン・マッシュウは、ジャンヌから聞いた話として、「ジャンヌが起床しなければならなかったため「起きるので鎖を解いて下さい」と英国人の牢番に頼んだ時、英国人の一人がジャンヌが着用していた女性の服をはぎ取り、袋から男性の服を取り出し、「起きろ」と言ってジャンヌにその服を投げつけた。そして、袋の中に女性の服を入れた。結局、英国人はジャンヌが男性の服を着用すること以外は選択肢を与えなかった」と語りました。そして、ジャンヌは与えられた男性の服を身に纏い、「あなたは男性の服の着用が私に禁じられているのを知っている。私はこの服を着ません」と言ったが、それでも彼らはジャンヌに他の服を与えることはなかったので、正午まで彼らと議論を続けた。そして最後には、牢を出る必要性に迫られたため男性の服を着用しなければならなかった。ジャンヌが戻った後も、彼らはジャンヌの訴えや要請にもかかわらず、他の服を与えることはなかった」と語りました。如何に英国がジャンヌを不都合と見做しており、何が何でも彼女を処刑に追い込みたいという悪意を感じますね。これこそ、ジャンヌ・ダルク裁判が東京裁判のような政治裁判であることを裏付けていると感じます。
そうして、ジャンヌはコーションにより「異端再犯者」ーすなわち異端を悔い改めた後に再び異端の罪に陥った者ーと宣告され、裁判所がジャンヌに処刑を申し渡す正当な理由となり、二日後の千四百三十一年五月三十日に火刑に処されました。


ジャンヌ死後の千四百五十五年、母のイザベルによる嘆願書がきっかけとなり、ジャンヌ・ダルク裁判の調査と再審が行われることになり、千四百五十五年十一月七日、フランスの異端審問官長がノートルダム大聖堂でジャンヌ・ダルク裁判の再審を開始しました。ジャンヌの陳述を含む先の裁判の手続きや、百十五人の目撃者の証言を分析した末、翌年七月七日に異端審問の判決が覆されました。後にフランス皇帝のナポレオンはフランス国民の反英闘争に火をつけるために、英仏百年戦争でフランスを勝利に導いたジャンヌを持ち上げたことを機に世間的に有名になっていき、千九百二十年に列聖されるまでになりましたが、神の被造物にしか過ぎない人間を聖人として崇めることは偶像崇拝であり、主なる神が忌み嫌う行いであることを認識するべきです。
彼女は異端審問の被害者の一人ですが、同時に神の声を聞いたと自惚れた挙句に戦争を指導して、多くの人々を殺害することもありました。戦争は殺人という律法違犯にもなりますし、戦争にどちらも正義はないのです。従って、戦争でどちらが勝ったかは関係なく、勝った方も負けた方もどちらも悪い喧嘩両成敗ということです。

五、結び
中世の異端審問がどれほどの規模で行われたのかは正確に知ることは困難ですが、現代の人々が想像するほど頻繁に大人数の処刑が行われたとは考えにくいとされています。記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた千二百三十三年に南仏の異端審問官に任命されたロベール・ル・プティは数百人に火刑を宣告しましたが、刑罰が過酷すぎるという理由で僅か一年で解任されました。有名なベルナール・ギーは異端審問官を十六年間の長きに渡って務めましたが、死刑を宣告したのは四十件に過ぎなかったとされます。
確かに、中世初期の異端審問は我々が思っているよりも、過酷ではないようにも感じます。しかし、何度も言いますが、カトリック自体が主なる神の観点からすると異端です。
ここで、ミカエル氏のブログ記事より引用します。

一 結婚禁止規定
二 マリアへの信仰
三 煉獄の教義
四 避妊の禁止
五 偶像礼拝
六 クリスマス
以上より、カトリックは、イエス・キリストを唯一の救い主とするキリスト教の仮面を被りながら、実は主イエス・キリストの教えと聖書の内容に反することをする人たち、即ち、反キリストの集団であるということが明白です。あと、本質を理解しない人のために言うときます。キリスト教信者が他の宗教を迫害するために宗教戦争を起こし、沢山の人を殺したと主張する人へ。こういうつまらないことを言う人が大勢おるからです。この原因は、聖書やキリストの教えにあるのではなく、人間の本性、その時の政治的対立や権力闘争、戦争による金儲けによるものです。彼らが聖書やキリストを持ち出すのは偽りであり、口実でしかないのです。キリスト教をかたる偽キリスト教のカトリックやイエズス会、その他の異教徒の仕業でしかないのです。また、過去の歴史から明らかですが、聖書にのみ依拠して主イエスを信じて生きた真のキリスト者は、ローマ皇帝やローマ教皇等の権力者によって迫害されて非人道的で残虐な刑を受けた上で殺されてきました正しい信仰を持つ人は人殺しをしません。誰が悪か、悪魔の所業をしているか分かるでしょう。いつの時代にも不信仰の者が、殺人をしない真のキリスト者を迫害して殺すのです。

カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

このように、カトリックは聖書の教えに反する教義を唱えていることからも明らかに異端である事が分かります。

次回は、異端審問の中で歴史上最も過酷であったスペイン異端審問について解説していきます。

最後までご覧頂き有難うございました。

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