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安永光希「空間を愛す」——エッセイ「私と空間/場所」②

 ⽬を「ガラス」にする、と舞踏の世界ではよく⾔われるらしい。私がこの表現を知ったのは、とある整体の施術を受けたあとだった。その整体は、舞踏と瞑想と古武術(武医道)を合わせた⼤変ユニークなもので、施術後の私は明らかに視界が広くなっているのを感じた。正確に表現するのであれば、⽬に⼊ってくるものがそのまま全て⾒えるようになった、とでも⾔うべきか。私たちは⽇常において、視界の⼤部分を占める周辺視野に気を払わず⽣きている。現代では電⼦スクリーンという便利な技術により、情報は視界の中⼼へとより集まりやすくなった。⽬を「ガラス」にするとは、そのような視界の偏差を取り除く試みである。

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 「周辺視野を使え!(”Use your peripherals!” )」 は、かの有名なコメディー映画『40 歳の童貞男(The 40 Year Old Virgin)』での台詞だ。主⼈公のアンディは、友⼈に童貞であることを⾒破られ、ナンパの⽅法を教わるためバーに連⾏される。友⼈が乗り気でないアンディにナンパをレクチャーする。バーではジロジロと周囲を⾒渡してはいけない。怪しまれないように、周辺視野を使って周囲の状況を確認するのだ。獲物狙う動物のごとく、堂々と歩きながら、視界の端で相⼿を⾒定めていく。アンディは友⼈から周辺視野の使い⽅を学ぶが、新たな視界に慣れることがなかなかできない。彼の⾝体はついていかず、しまいには椅⼦と激突して倒してしまう。周辺視野は、常に⾝体と共に語られなければならない。

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 ブルース・リーの孫弟⼦としてジークンドーを継承する⽯井東吾は、パンチは⾒てから反応しては遅い、と⾔っていた。では、パンチを⾒ずに反応する、とはどういうことなのか。おそらく彼は、パンチを⽇常的な仕⽅で「⾒て」いるのではない。⽯井東吾は⾃らの視野を表現するのに「拡散集中」という⾔葉を使う。⼀点(例えば相⼿の腕)に集中するのではなく、視界を広く使い、全体の雰囲気を感じ取る。このとき彼はまさに、空間を⾒ているのではなく、空間に触れている。だからこそ相⼿の動きに対して素早い反応が可能なのだ。武術家は視覚的に⾒るのではなく、触覚的に⾒ている。

ブルース・リーの悲劇

 ⽬を「ガラス」にするとは、何よりも空間を感じることである。⽬が透き通ったガラスとなることで初めて、⾝体の周りに空間が⽴ち現れる。その空間は極めて⾝体的な空間だ。⾔い換えるなら、⾝体と無関係でいられなくなってしまった空間である。そこには愛が満ち溢れている。舞踏は型のない踊りであるが、だからといって舞踏家は⽬を瞑って悦に浸りながら踊るわけではない。彼らは⽬を⾒開き、常に空間と⾝体のせめぎ合いを感じながら、踊る。舞踏家のように、空間を愛したい。

(文責 安永光希)


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