星新一氏に敬意を込めて    マザー

自創作【マザー】part1

「想像力とは何か。想像して欲しい」

エス氏は、カデノコウジ博士の言葉を思い出していた。数年前、新たな人工知能が学会で発表された。その際、カデノコウジ博士が最後に言ったこの台詞を思いだしていた。

エス氏はコーヒーを一口飲んだ。口辺りがよく少しミルクの入ったコーヒー。エス氏好みの味だ。妻は居間で手際良く家事をこなしている。エス氏は簡単な朝食を済ませると、妻に遅くなると告げた。
「あら、最近忙しいのね」
「ああ。新しい研究が煮詰まっててな。予定よりも大分遅れているんだ。独り身の研究員の中には、家に帰らない奴もいる。数ヶ月帰っていない奴もいたかな。まあ、それに比べれば私なんか良い身分だ。遅くなっても家に帰り、君の顔を見ながら朝食を取れるからね」
「やだあなた、いつもご苦労様です」
「そんな訳で、今夜も遅くなるよ」
「そうだあなた、マザーは?」
「大丈夫。もう付けているよ。それじゃあ」
「頑張って。いってらっしゃい」
妻はエス氏の頬にキスをすると、せっせと家事に戻った。
エス氏は家を出てるとワイヤレスのイヤホンを耳に嵌めた。雲一つない晴天の空だ。
「マザー。最適な通勤方法を教えてくれ」
すると、エス氏の視界が薄いブルーになり、そこに白い電子文字やら記号やらが映し出された。
「エス氏様。オハヨウゴザイマス。本日モ宜しくオ願いシマス。最適ナ通勤方法を調べマス」
甲高い声の電子音がエス氏のイヤホンから流れた。視界のブルーの画面には「思考中」と表示されている。
「昨日、某有名アイドルの結婚ハッピョウが行われマシタ。あの有名ナ歌手とデス。歌手の方ハ既婚者にも関わラズ、プライベートでは羽目をシテいた様デ、女たらしのウワサが絶エナカッタソウデス。今回の婚約モ、奪略婚ト囁かれていマスガ、私の考えデハ、歌手の女好きガ招いタ結果ダト思いマス」
「そんなのは知っている。今朝ニュースで見た。それがどうしたと言うのだ。私は通勤方法を知りたいのだ」
「ツマリですネ、多くのファンの心が折れテイルという訳でゴザイマス。どうイウ理由ダロウと、人気絶頂ノお二人でしたからネ。ソウなると何もかも投げ出シタクなる人も少ナくナイノデハ無いでショウカ?」
「全く分からない。さっさと通勤方法を教えてくれないだろうか?」
「デスから、勤労意欲ナド無くしてトビコミ自殺スル人がイテモおかシクナイ朝と言う事デス。更に本日ハ月曜日デスからね。憂鬱極まりナイのデス。よって、電車のダイヤが乱れる可能性が十分有るト言う事デス。よって今朝ノ通勤方法はタクシーが良いカト思いマス」
「分かった。とりあえずタクシーが良いのだな。こうしている間に時間を割いてしまった。急がなければ」
エス氏は駅前のタクシー乗り場に急いだ。通勤ラッシュの時刻である駅前は、不機嫌そうな人々で溢れていた。晴天の空の下に、溜息の塊の様な重い空気が立ち込めている。しかしタクシー乗り場は閑散としていた。それもその筈、天気良好な朝にタクシーを利用する者などよほど裕福な者か、見栄をぶら下げている者しか乗らないからだ。エス氏は少し恥じらいを感じながらタクシー乗り場をウロウロしていた。やはり電車で通勤しようか。するとエス氏の前方からタクシーが向かってきた。エス氏は咄嗟に手を挙げタクシーを止めた。
「ご乗車ありがとうございます。どちらまでですか?」
「YM大学研究所まで頼む。出来れば少し急いで欲しい。時間があまり無いのだ」
「承知致しました。私、カサイと申します。安全運転でまいります」
タクシーは滑らかに速度を上げていく。
「いやぁ、しかしタイミングよくお客様がいて良かったです。実はね、今日は仕事を休もうかと思っていたんですよ」
「そうなんですか。月曜日は憂鬱になりますからね。無理もないですよ」
「いやそれもそうなんですがね、例の結婚発表。お恥ずかしいのですが私、ファンだったたんですよ。例のアイドルの。それも熱狂的な。握手会やらサイン会は欠かさず行っていてた訳なんです。なのに昨日の結婚発表を見た時はもう、やる気なんか失せましてね。いっそ早朝の電車に飛び込んで死んでしまおうかとも考えたんです」
「そうだったんですか、、お気持ちお察しします」
「いやいや、ですがね、今朝になって私のマザーが言うのですよ。今日こそ出勤した方がいいって。何せ、私みたいな輩も少なくないですからね。本当に電車に飛び込んでしまう人がいたら、ほら、電車が遅延するでしょう。そしたらたちまち、皆んながタクシーを使うでしょう?てな訳で今日は最良の稼ぎ時だと言うのですよ。私のマザーが。景気が良い時代じゃあ無いですからね。だから渋々会社に向かって車を走らせたんです。そしたら直ぐにお客様と巡り会えたんですよ。やはりマザーは素晴らしいですね。今日も一日頑張れそうですよ」
「そうか。それはよかったですね。実は私も電車で通勤すると思っていましたが、マザーがね、、、」
そうこうしている間に、エス氏を乗せたタクシーはYM大学研究所に到着した。都心から少し離れた郊外にYM大学研究所はあった。辺りにコンビニや飲食店などは無いので、学内にあらゆる店が入っている。コンビニからスーパー、飲食店、居酒屋、ボウリング場までもが完備されている。更にYM大学のキャンパスと研究施設とが合わさっているので、学内の敷地は広大であり、正面口から距離で言うと一駅離れた場所に、エス氏の職場はあった。
「広い施設ですね。お客様、何処まで向かいましょうか?」
「そうだな、もう少し進んでくれ」
エス氏はタクシーを研究棟Bと書かれた建物の前で停めた。コンクリートの壁に覆われたこの建物こそ、エス氏の勤務する研究所なのである。
「ここで大丈夫です」
「お支払いは?」
「もちろん、これで」
エス氏がそう言うと、運転手であるカサイはB5サイズ程の電子パネルをエス氏に向けた。エス氏はその電子パネルを見ながら、「マザー支払いを頼む」と言った。
「了解致しマシタ。センヨンヒョクロクジュウエンをお支払いシマス」
チャリン。軽やかな電子音が車内に響く。
「ありがとうございます。いってらっしゃいませ」
エス氏はタクシーを降り早足で研究所へと向かった。すると、研究所の入り口で同僚であるクロサワに会った。クロサワは額から汗を流し、何処か焦っている顔をしている。
「おはよう。今日はタクシーかい?」
「おはよう。そうだ。タクシーでここまで来たんだ。君は電車かい?」
「ああ。お陰で駅から走ってきたよ。全く、勤務前というのにもうクタクタだ」
「それは気の毒だな。家を出るのが遅かったのかい?それなら君もタクシーで出勤すれば良かったのに」
「いやあ、それがな、、おっと、今何分だ?」
「後、二分で九時になるところだ」
「立ち話は後だ。急がないと、とりあえず向かわなければ」
エス氏とクロサワは小走りで研究所へと入るとシルバーのゲートを潜った。すると「オハヨウゴザイマス」と言う電子音がワイヤレスイヤホンから聞こえた。
「よし、これでひとまず安心だ」
閑散としているロビーを後に、エス氏とクロサワはエレベーターへ乗り込むと、クロサワはB49のボタンを押した。
「君は何処だい?」
「B53だ。第四研究室でベイビーツーの再実験なんだ。再再実験だったか、、まあ、とりあえず今日も箱詰め状態だよ」
エス氏か思い詰めた表情でそう言うと、クロサワはカバンから小さな瓶を取り出し、エス氏に渡した。
「何なのだ、これは?」
「栄養剤だよ。疲れたら飲むといい。水を得た魚みたいになるぞ」
エス氏は見たことない小瓶に少し不安を感じたが、ありがとうと言って鞄にしまった。
「ところで君はどうしてタクシーなんかで出勤したのだ?いつもは電車じゃあないか」
「それはだな、私のマザーが、、いやまて、君がどうして電車で来たのか、それが先だ。君は説明の途中だったじゃあないか」
「そうだったか。よし分かった。うん、どこから話そうか。朝はいつも通り七時に起きたんだ。新しくアップデートしたマザーのお陰で、寝坊癖がある私でもパチリと目を覚ます事が出来るんだ。君はもうアップデートしたかい?してないなら今すぐした方がいいぞ。なんと言ってもあの新機能はシライ女博士が開発した新型電子扁桃葉が搭載されていてな、まるで、、、」
「いや、その話は後で頼む。それよりも今日の出勤方法についてだな、」
「そうか、悪い。いつもの癖が出てしまった様だ。とりあえず私はいつもの時間に起きた。目覚めの良い朝だった。雲一つない空を見ながらコーヒーを飲んでいると、あっという間に出発の時間になっていたもんで慌てて家を出たんだ。勿論、マザーに出勤方法を尋ねた。すると、電車にしろって言うんだ。ほら、先月の健康診断。あまり良い結果じゃなかったんだ。少しでも運動しなければならないと医師には言われていたが、何せ私たちの仕事は箱詰めだからね。なかなか難しいじゃあないか。けれど電車ならタクシーよりは歩くし、遅延する可能性だってあるから走る可能性だってある。そう言うのだ。私のマザーが。結果的に見事に遅延をして走ってやって来たという訳だよ。全く。もうクタクタだ」
クロサワは額の汗を拭きながらグッタリとした顔をしていた。
「そうか。マザーは君の身体を君よりも理解しているのだな」
「ああ。その様だ。そうだ君。今夜空いているかい?相談したい事があるのだが」
「まてまて、今日は再実験で箱詰めと言ったばかりではないか。悪いが他をあたってくれ」
「そうか。残念だ」
チンっ。エレベーターがB49に停止すると、クロサワはフラフラとフロアへ向かって行った。エレベーターはそのままB53へ向かい、止まった。フロアは天井の高い造りをしており、フロアの側面には幾つか鉄製の扉があり、「休憩室」や「会議室」、「御手洗」などが刻み込まれている。フロアの中央には乗用車程の黒い円盤の様な物が鎮座しており、無数の電線に繋がれている。その周りを囲う様に沢山のコンピュータが置かれており、白衣を来た作業員達が忙しなくしていた。エス氏は休憩室に入ると白衣に着替え、再びフロアへ向かった。
「おはようございます」
助手である若い女学生がコーヒーをエス氏に渡した。
「ああ、ありがとう。どうだね、ベイビーツーの様子は?」
「今朝、メンテナンスをしたところ、不具合は全く見つかりませんでした。なのでカデノコウジ博士は午後にも再実験をすると申していました」
「そうか。分かった」
エス氏はコンピュータの前に座ると作業を始めた。
ベイビーツーとは、「時空連続体異動装置」と呼ばれる装置である。平たく言えばタイムマシンだ。ベイビーツーが制作されてから凡そ三年半が過ぎる。タイムスリップなど初めは全く不可能とされていた。しかしそれは人類の叡智での範疇に過ぎない。我々は時空や時間をより理解する為の「脳」が必要だった。経験や情報、直感に媒体した完璧な「脳」が必要だった。つまりそれは「考える脳」であり、「人類よりも深く考える脳」である。それがマザーだ。
万能知的想像ツール「マザー」が初めて公に現れたのは今から六年前になる。それまでの人工知能と呼ばれる技術は凡そ情報を分析するだけであった。つまりコップに注がれる水に対して「注がれる」と言う情報を記憶し、実行するという事である。しかし、マザーの場合、現象と直感が付与されている為、「溢れ出る」という現像を初めから理解出来るのである。更に言えば、その「場所」をも理解し、溢れ出た後に生じる現象までをも理解する。平たく言うと「想像し最良の結果を導き出す」のである。初めは研究用途で開発されたマザーだったが、その利便性から、一般に向け製品として造られた。端末型。アイコンタクト型。イヤホン型。数少ないが直接脳内に埋め込むモノもある。因みにエス氏はアイコンタクト型だ。既に人口の九割が利用している。人工知能という言葉が馴染み出してから数十年。ようやくその名称に相応しいモノを人類は造り出したのだ。四年の間で数百回のアップデートを繰り返し、今や人間の「想像」を超える事も多々ある。要するに、近年急激にタイムマシンに必要な準備が完成し、空想上の現象が、現実として実行しようとしているのだ。
「マザーは順調だな」
エス氏は後ろの声に振り返ると、白髪の老人が笑を浮かべていた。
「これは、おはようございますカデノコウジ博士。先程助手の方から伺いましたが、午後に再実験を行うのですね」
「ああ。正確には再々々実験だ。今度こそは上手くいく事を願おうではないか」
「そうですね。次こそはやりましょう」
カデノコウジ博士はエス氏の肩を軽く叩くとのしのしと何処かへ消えた。
「ソルエネルギーを七パーセント圧縮シて下サイ」
エス氏のコンピュータに内蔵されたマザーが軽やかに響く。エス氏はマザーの指示通りソルエネルギーを圧縮した。だがエス氏は、言いようの無い不安感を持っていた。確かにマザーはこの上なく正確だ。しかしそれで良いのだろうか。人類にとってそれが正しい使い方なのだろうか。いや、そもそも完璧な人工知能は必要なのだろうか。私自身、物理学者としての夢は叶えたものの、マザーの指示を的確にこなすだけの作業。私は何の為に学者になったのか。
「マザー、私は何故、学者になったのだろうか」
エス氏の前に薄いブルーが写し出される。
思考中。
エス氏は咄嗟にマザーを停止した。全く。無意識にマザーを開いてしまう。
「皆、少し手を止めて聞いてくれるか」
カデノコウジ博士の声がフロアアナウンスから流れる。
「本日、午後の十四時に三度目のソルエネルギー及び時空連続体異動訓練を実施する。従って、少し早いが今から暫し休息を設けようと思う。各々最新の注意を払い、準備を整えた者から休んでくれ。では」
プツンとアナウンスが切れると、忙しなかったフロアの空気が少し緩んだ。エス氏も丁度、担当のチェックが終わった所だ。エス氏は休憩室に入るとコーヒーを淹れた。他の学者達も、緊張の瞬間を前に一時の休息を噛み締めている。
「成功すると思うか?」
「いやあ、どうだろうか。僕が担当しているボディ耐久チェックはなんら問題は無い。君の方はどうだね?」
「私の方も問題は無い。昨日の晩から七回もチェックしたが、全く問題は無い。お陰で寝てないよ、」
「本当に大丈夫か?」
「私はともかく、マザーが問題が無いと言っているんだ。百パーセント問題は無い」
「そうか。なら今回は成功しそうだな」
近くにいた学者達の会話を聞きながら、エス氏はコーヒーを楽しんでいた。
十四時。時計の針がきっかり十二に差し掛かる。フロアにはベイビーツーに携わる全従業員、学者が勢揃いしていた。中央にはカデノコウジ博士がマイクを掴み、意気揚々とフロアに居る人々を鼓舞している。
「さあ、私の話もこの辺で。いよいよ三度目となるソルエネルギー及び時空連続体異動訓練を実施する。今回はエネルギーのデータ収集をメインとする為、試運転でこのフロアを何周か旋回して貰う予定だ。乗り手は前回と同じくヤナギサワ君、君にお願いしよう」
「はい」
フロアの片隅から若い男がひょっこり前へ出た。そして、ベイビーツーの機体に乗り込むと、ガスマスクの様なモノを装置し親指を立てた。
「よし。皆のもの、準備はいいか」
フロアの空気は張り詰め、皆カデノコウジ博士を凝視している。勿論、エス氏も。
「では、初める」
カデノコウジ博士は、コンピュータを操作した。すると低い重低音が鳴り響き、ベイビーツーに青い模様の様な線が浮き出した。同時に少し浮遊し、ガタガタと振動し始める。
「うん、ちょっとまて、、これは、」
カデノコウジ博士が何やら呟いた瞬間、エス氏の目の前が一瞬真っ白になった。
周りの音も消え、真空で真っ白の視界に意識だけが置いていかれる様な不思議な感覚。
暫くすると、真っ白の視界が徐々に開けてくる。砂浜だ。ザザアと透き通った波が静かに撫でる。スカイブルーの空には大きな入道雲が浮かんでいる。この何処か懐かしい景色にエス氏は佇んでいた。そして心が安らいでいくのが分かった。ん、遠くから誰かが歩いて来る。誰だあれは。見覚えのある様な無いよな。あれは、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?