(2/2)現代思想入門(千葉雅也著)を読んで

ではこれらの議論を現代にどう生かすことができるのかを考えてみます。


最近(2023年4月)神宮外苑の再開発の話が進んでいたり、京都市が建物の高さに対する景観規制を緩和する動きが出ています。
上述した①に絡めて言うと、思考の根底には二項対立があるとのことですが、ここでは「経済と文化」「秩序と逸脱」「便利快適と不便」といった二項対立が挙げられるでしょう。そしてそれぞれ前者を優位、後者を劣位としています。特に経済合理性ですね。京都市の施策を例にとります。
曰く「(2007年に導入した)建物の高さ規制により、マンション供給不足を招いた。そのことによりマンション価格は上昇し、若者の人口流出が相次いだ。オフィスの供給不足により地域経済もいまいち活性化しない。マンション建設により地域経済は活性化し、人々は便利になり住みよい街になる」
そこで劣位に肩入れする言説を述べるんですね。
「2007年に規制が生まれたのはなぜか?それは昔ながらの町並みを大規模開発から守ろうとするために生まれた。1960年代に京都タワーが建設される際に文化人や国民からあれほど反対運動が起きたではないか。便利にはなるだろう。ただ便利になるって言っても、本当にそう思ってるのか。建替えによって儲けたいのが本音ではないのか。そもそも便利快適が人を幸せにするのか。木造平屋が取り壊され古くからの町並みを壊すことは京都の特殊性を自ら損なうことになるのではないか。再開発に合理性はあるのか?これから日本全体で人口が減っていく中で、供給過多にならないか」
とツッコむんですね。
「そんなことは百も承知。ただ近代化の趨勢として仕方ないんだ。あらゆるノイズは除去されフラット化されていく。我々も家族を食べさせていくために再開発は致し方ない。生活がかかっている。伝統を守れと言ったって、再開発で廃れる伝統ならそれまでのこと。また未来では、再開発後の町並みが新たに伝統になっているかもしれないではないか」
「仕方ないと言って、何もしないのはおかしい。不作為もある種の作為である。近代化に抗うことができないと知りつつ、それでも自分の扱える範囲では近代化によって失われるモノに抵抗するのが美学ではないか。きちんと合意形成はしたのか。未来には再開発後の町が伝統になる?あり得ない。伝統の町というのは特殊な時代状況を反映している」
というように劣位が優位を「そちらの言うことは分かるんだけど、だがしかし・・・」とノリツッコミを加えます(上手くできてるかは分かりませんが)。
このように劣位に肩入れすることで、多数派の論理から排除されるモノに敏感であろうとするんですね。

②ドゥルーズのリゾーム概念は仏教の縁起説に似ています。仏教によれば、存在とは関係性によって成り立ちます。それは過去現在未来のありとあらゆる存在との関係性の網であり、網の目にあたるのが存在ですね。その関係性は存在にとって重要な度合いによって序列付けされる評価関数ともいえます。重要度だからリアルタイムで変更する。リゾームによれば関係性はある程度有限であり、切断されたり接続されたりするとしている点が異なります。
どちらにせよ、これは以前取り上げたサンデルの共同体主義に理論的根拠を与える人間観と親和的であると感じました。ロールズのリベラリズムは「負荷なき自己」を想定していたのですが、それは存在を(変な表現ですが)網のない網の目だけとする発想です。
一方、共同体主義の人間観である「人は物語をもって生まれてくる存在」ですと、人は社会に埋め込まれた存在であり、生まれた地の歴史や、親族、社会との関係性は無視できません。それは関係性の網のなかの網の目にあたるのが存在だとする考え方です。

③フーコーは、権力が従来の外部から来るのではなく、被治者の内面から生じていると喝破しました。現代では人々の相互監視によって互いに行動を束縛しているように思えます。

例えば某チェーン店で客が醤油ボトルの出口を舐めて炎上しました。あの動画を見た人々は、“自分はキチンと生きていているのにけしからん”とばかりに批判し、普段の面白くない生活に対する不満のはけ口にし、溜飲を下げます。もちろん店での彼らの行動は狂っていますが、そんな人は昔から一定数はいたわけです。それを大手メディアが取り上げて、人々の不満のはけ口にして、現政権の施策に対する批判などを逸らすように機能しているようにも思えます。あの動画を見て“私はこんなことはしない”と規律訓練ができます。それと同時に“他のやつはちゃんとしているかと監視し始めるんですね。

上記はわかりやすい例ですが、我々は実は知らないうちに言語空間に束縛されています。赤信号で止まるのは道路交通法という言語で書かれた法律に則ってますし、その他民法、企業会計原則やツイッターも言語です。我々のブリーフシステムは、親や先生から“こうしなさい、ああしなさい”と言語によって内部表現を書き換えられました。先述のパノプティコンは学校、家庭、会社、病院というシステムの普遍的な形態なので、我々はすべからく言語束縛を受けています。そのようにして大規模な社会システムは回ります。
システムは回りますが、人々は生きるためにシステムを使うのではなく、システムが存続するため人々が使われるように思えます。そして言語束縛によってif-thenプログラムをたたき込まれる。○○するな、と言う規範は無意識に○○せよという否定項をプールします(これは議論の余地があります)。その否定項からのバックラッシュを防ぐために、昔から祭りや性愛を通じて人々を馴致していたのですが、現代は機能していません。現代は生き辛いんです。

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