(1/2)勉強の哲学(千葉雅也著)を読んで

前回は千葉先生の『現代思想入門』を扱いました。今回は同じく千葉先生の『勉強の哲学』を取り上げたいと思います。
-勉強とは自己破壊である-
はじめに千葉先生はそのように言います。
勉強と聞くと、何か今までよりも良くなること、人生のステージをステップアップするものと思われるでしょう。例えば試験で良い点をとるため(そしていい大学→いい会社に行くため)に勉強する、出世をするために資格の勉強をするイメージですね。そういうイメージとは対照的に、勉強をある種マイナスなモノと位置づけています(デリダ的な脱構築ですね)。
実はこの本は、一般的な“勉強の哲学”と言うよりは、“我々は言語束縛を受けていて、そこから自由を得るとは如何にして成されるか”を論じています。どういうことでしょうか?

我々は生きていく中で、様々なif-thenプログラムをインストールされています。例えばレストランに行ったら(if)、食事をする(then)。食べるときは(if)、ご飯を口に運ぶ(then)。環境のコード、所謂ノリをインストールされているといいます(マーヴィン・ミンスキーのフレーム理論)。
そういった自分以外の他者(ここではレストラン)によって、行動を束縛されています。いや寧ろ、ある程度の制限があるからこそ人間は行動できるとも言えます(完全に自由ですと何もできません)。ただ、環境のコードによって自由を阻害されているのも事実です。
そこで環境のコードに埋め込まれた存在である我々が別の可能性を志向するには、もっというと自由になるにはどうしたらよいのでしょうか?そこで重要になるのが言語です。

思い出してほしいのですが、我々が環境のコードを埋め込まれるとき、それは多くの場合言語によってなされたはずです。親や先生といった他者から「このときは、こうしなさい」や「このときは、こうしてはいけません」など教わったはずです(以下でいう他者概念は自分以外のありとあらゆるものと定義しています)。
また、我々の日常生活も言語によって規定されています。例えば赤信号で止まるのは、赤だから止まるのではなく、赤なら止まれと道路交通法に書かれているから止まるわけです。そして道路交通法も言語です。それが無意識レベルで行動を制限している。民法も然りです。
そして言語自体も、その習得過程は他者の用法を真似るという形で行われました。用法を真似ることで同時に基本的なものの考え方も方向付けられてしまいます。
言語の中の言葉自体も環境依存的です。言語学の状況意味論という考え方では、言葉はその状況(=環境)との双方向的な関係によって意味づけられます。例えば、「リンゴ」の話といったって、果物からビートルズのリンゴ・スター、旧約聖書の禁断の果実など色々な可能性があって、発話状況によって意味が決まります。
何が言いたいのかと言いますと、事ほどさように、我々は広義の他者(親や教師の発言、法律、環境)によって構築された存在で(前回のドゥルーズ的存在論)、言語が重要な役割を担っています。

今言ったことと、自由がどう関係するのでしょうか?
我々は言語によって束縛を受けているのですが、言語によって(完全ではないにしても)自由も得られます。
何かを定義するときを考えてみましょう。例えば皆さんの前に犬がいるとして、その犬を定義することは可能か?あるいは皆さんが私の隣に座っていて、「この犬はさ~」と言ったときの犬は、同じ犬を意味しているか?4本足でワンと鳴くのが犬だとしましょう。でもツッコミが入ります。ニャーと鳴いたら犬ではないのか、あるいは事故で3本足になってしまった犬は犬ではないのかと。ではそれに応えて、ニャーと鳴くこともある、3本足であることもあるとしたとします。2本足なら?コケコッコーと鳴いたら?とツッコミが入ります。何かを定義しようとしても必ず例外が出てきてしまいます。つまり目の前の犬を完全に定義することはできないのです。
これを分かりにくい表現ですが、完全に物理空間の、もの自体としての犬を、言語で完全に指し示すことはできないと言い換えられます。別言すると、(これも分かりにくい表現で恐縮ですが、)言語ともの自体は一対一関係ではなく、もの自体を指し示そうとしても言語は言語独自の世界(言語空間)に若干揺らいでいるということです。
若干揺らいでいるどころか、完全に言語空間にあるものもあります。例えば、四角い丸なんかそうでしょう。言語は言語特有の世界があり(=言語空間=言語の他者性)、我々はその両方にまたがった存在なんですね。
そしてここがポイントなのですが、そのような言語の他者性ゆえに、「言葉の、ある環境での偏った意味づけは必然的ではなく、いつでもバラすことができる、別の意味づけの可能性がつねに開かれている、ということになります」。これは言語によって埋め込まれる環境のコードを、まさに言語によって別の有りようとしての環境のコードを生きる(=自由である)ことが可能であることを意味します。
言語によって別の可能性の環境のコードを生きるようにすること即ち、勉強です。

では勉強によって自身が慣れ親しんでいる環境のコードから別の環境のコードへ移るためには具体的にどうすればよいのでしょうか?
皆さんも経験あるかと思いますが、勉強、特に初めての分野を勉強するときなどはそこで使われている独特の言語に違和感を持つことはよくあることです。例えば、上述の他者の概念は通常は他人という意味で使われます。ただし、この本では私以外のあらゆるものという概念として使われていて、初めに読んだときは何か気味の悪い、ゴツゴツとした異物のような感じがするでしょう(=言語の不透明性)。
我々は元々言語というのをコミュニケーションの道具として用いています。依頼したり、同意したり、主張したり、それぞれ目的を持っています(言語行為しています)。一方、学習によって新しい用語を学んだときなどは、まだ自分の中に落とし込めることができないため、そのように道具的言語使用ができません。言語の不透明性がある場合、言語の物質性(=器官なき言語)が前面に出ています(言語それ自体として捉えられている)。
逆に言うと、言語の物質性故に、言葉の用法は根本的に変更可能であることを意味します。変更可能であるからこそ、言語操作によって無数の可能性が開くことができます。
それをするには、言語を使用すること自体が目的として(自己目的的に)使用してみることが求められます(玩具的な言語使用)。

道具的な言語使用→玩具的な言語使用へ比重を移すこと。
道具的な言語使用では慣れ親しんでいる環境と癒着してしまっている(束縛を受けている)。それを勉強によって玩具的な言語使用へ比重を移し、環境と癒着している自分を解体する(自由を得る)。これが冒頭で述べた「勉強とは自己破壊である」という意味です。

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