サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を読んで

『サピエンス全史』とはイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏によって書かれた、これまでの人類の歴史について綴られた本です。人類の歴史について語るというスケールの大きな仕事で、世界的ベストセラーにもなりました。5、6年前に流行ったので、ご存じの方もいるかと思います。
人類の歴史をたどっていくという非常にスリリングな読書体験を得ながら、その過程で例えば国家や貨幣、宗教、民主主義など我々が現代を生きる上で避けては通れない概念にも手際よく述べられているため、ある種の教養書としても機能する優れた本です。
以下では一章一章要約していくようなことはせず(大変なので・・・)、全体を通して思ったことを記したいと思います。

私が思うに、この本のポイントは上巻にあると感じます。認知革命と農業革命です。
年代を3つ抜き出してみると、
・600万年前 人類誕生
・7万年前  言語の登場 認知革命
・1万年前  農業が登場 農業革命
です。ここだけ押さえておけば大丈夫です。
ズバリ一言で言うなれば、人類の歴史とは臨場感が情報空間に広がっていった過程、と言えるでしょう(本著では情報ではなく虚構と表現していますが、情報は虚構を包摂する概念です)。

どういうことでしょうか?
その前に情報とは何か、情報空間とは何かを記します。
情報の対義語は物理です(とひとまず言っておきます)。
物理とは、いま皆さんが画面を見ている状況ですと光がそうですね。本ですと紙や印字されたインクですね。ただ印字された文章の内容は情報です。例えば横にいるアメリカ人が英語で話していたら、その声は物理です。でも皆さんが英会話を習っているのなら、声の内容を理解できます(情報)。
話が多少脱線しますが、物理空間と情報空間は独立しておらず、連続的につながっています。というより、抽象度というパラメーターを使うと情報空間しか存在しません。
これはオカルト的な話ではなくもっと単純な話です。
例えば、私は物理学を専攻していたのですが、高校物理と大学物理ではニュートンの運動の3法則のひとつである慣性の法則の表記が変わります。
高校物理:質点は外力がない場合、静止しているか等速直線運動を続ける
大学物理:質点は外力がない場合、等速直線運動を続ける
ここで「いや、目の前にある本止まってんだけど」とツッコまれたらこう返します。「いや、速さ0で等速直線運動しているんです」。大学物理の方が、表記がシンプルで、理系風に言うと美しい表記なんですね。
他にも「全ての線は曲線しかありません」「いや直線もありますけど」「それは曲率0の曲線です」とかもあります。それと同じノリで
「全ては情報空間です」「いや物理空間あるでしょ」「それは抽象度0の情報空間です」という感じです。
いやそもそも、物理空間を生きている人間などいるのでしょうか。カップルが通りを歩いていて、前から来た車が通り去って行くときも、二人の間では車の見え方が違います(同じ空間座標に二人が存在していないからという理由ではなく)。人間の脳にはRASという機能があり、脳が認識した情報の取捨選択を行っています。そうしないと頭がパンクするからです(全てを情報処理するに足るエネルギーを供給できない)。カント風に言うと、もの自体を認識できない。ここではそれを、我々は情報空間に少し揺らいだ現実を生きているといってもいいでしょう。デカルト的二元論では心(=情報)と身体(=物理)は独立しているとされていますが、それだと怪談話で涼しくなるという現象を説明できません。

話を元に戻します。人類の歴史は情報空間にどんどん臨場感が広がっていった過程だとしたのでした。脳生理学的に言うと前頭前野が発達していった。

600万年前に人類が誕生しました。当時はサルっぽい人類ですね。食物連鎖のヒエラルキーの中でも、ライオンやサイには敵わず、ハイエナがライオンの残飯処理をした、更にその残飯をありつくという体たらくです。他にも木の実やキノコを採集したりとして、地味に生活していました。我々サピエンスだけじゃなく、ネアンデルタール人やホモ・フローレシエンスなどの他のホモ属も同様です。

ただし、時代が進むにつれて転機が訪れるようになります。それが言語の登場です。
7万年前、サピエンスは言語を使うようになり、突如として生物ヒエラルキーの頂点に躍り上がります。言語を使うようになった理由は不明ですが(遺伝子の突然変異?)、結果として、ヒエラルキーの華々しい跳躍があった。
言語を使うようになると、情報を伝達できるようになります。敵が近づいてきたら仲間に知らせることもできたし、逆に徒党を組んで狩りをすることもできました。採集に適した土地情報や、獲物を追い込める地形情報などを共有することもできた。
ここまでは良かったんです。

負のスパイラルが作動し始めるのが、1万年前の農業革命です。
1万8000年前からの温暖化の影響で徐々に世界同時多発的に農業が志向されはじめます。その移行は、初めは温暖化という偶発的な条件によって農業を始めるのですが、農業を始めることで、人口が増え、ますますそれを維持するために農業に頼らざるを得なくなっていきます。
農業の何が悪いかとお思いかもしれませんが、生存する上で一つ所に定住するのはリスクがあります。移り変わることができないので、頻繁に清掃をする必要があるし、伝染病が流行れば一発アウトです。食料も単一的な栄養に偏ってしまいますし、台風や洪水といって自然災害や、イナゴといった害虫害獣にも注意を払わなくてはなりません。
それまで数百万年の間ずっと狩猟採集民族だったわけです。これは自然環境に適した生き方であったとも言えるでしょう。農業革命によって田畑を切り開くことによる環境負荷もあります。開墾によって肩や腰痛にも悩まされます。
情報空間の話に繋げると、農業革命による定住化によって情報空間が時間空間的に広がっていったといえるでしょう。農業を営むには時間空間的な推論が不可欠です(それと同時に将来への不安もつきまとうようになります)。
また、定住社会を営むには大人数の人間を組織化させなければなりません。組織化させるには格差が必要です。ここから権力が生じます。穀物を貯蓄する必要性から所有という概念も生まれてきますが、これは権力があってはじめて担保されます。
その社会構造は主に概念言語の発達によってますます大規模になっていきます。物語や神話、悲劇の共有や組織理念などのエクリチュール=書きものという虚構の力で、本来は狩猟採集時代の数人~数十人というユニットの間でしか人々は臨場感を感じることができないのですが、そのユニットがどんどん大きくなっていきます。

こうして見てみると、我々が今生きている現代社会は農業革命の延長であると言えます。
会社も国家も宗教も貨幣も言語も全ては虚構であり、情報の産物です。物理的実体はありません。これは人類の歴史の過程で情報空間に臨場感を持つようになっていったからでしょう。その事実が加速するきっかけになったのが農業革命による定住化です。
そしてこれは不可逆の流れでしょう。
今はメタバース空間などと言われていますが、現実がすべてメタバースという情報に置き換わっていくのも大きな流れの中の一事態といえます。貨幣で言うとニクソンショック以降、貨幣は金の裏付けが無くなり、ますます情報としての存在を色濃くしています。様々なデリバティブ商品で金融業は稼いでますし、国内経済で言うと製造業からサービス業の流れも物理空間にものを生み出すのでは無く、コンサルや転職仲介など情報空間に付加価値を創造する仕事が増えています。今の若者は車を買って、旅行するより、ネトフリ・アマプラで余暇を過ごす人が多いです(そうせざるを得ない経済状況にさせられているとも言えますが)。学問も特に物理学は実験的再現性よりも理論的整合性が重視され始めました。
情報の抽象度を上がっていくと一般には臨場感が小さくなります。皆さんの飼っている犬のポチよりも、犬の方が、犬よりも哺乳類の方が、哺乳類より動物の方が、情報量も少なく、臨場感が低いと言えるでしょう。臨場感が低いにも関わらず、人類はその歴史の過程で、臨場感を得るように前頭前野が発達していった。
昔の人は犬の概念を理解できなかったと思います。私の飼っている犬、Aさんの飼っている犬・・という個別具体的な犬は存在しても、そこから抽象度の上がった犬の概念は存在していなかったのでしょう。
人々の集団で考えると、村から町、国とどんどん単一の集団へと収束していきます(グローバリゼーション)。フェミニズムやLGBTQによって男性と女性の垣根も低くなりました。
今後、人種や国の垣根も無くなり差別もなくなっていくでしょう。
区別がなくなっていき、フラット化した世界が幸せかというと、そうとも限らないのが人間です。ユニットが大きくなるにつれ、人々がシステムを使うのでは無く、システムが人々を使う意識が出て、入替え可能な存在として扱われるでしょう。

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