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当事者性のなさからくる居心地の悪さ

以前、特別養子縁組で子どもを迎えた話を書いた。

昨年秋に審判が確定し、私たちは晴れて法的にも親子になった。
無事に1歳を過ぎ、今もすくすくと育っている。
それなりに大変なこともあるが、毎日楽しく過ごしている。

上の記事では不妊のことについて、あえてさらっとしか書かなかったが、自分の中で少し整理したくなったので、今回やや詳しめに書いてみることにする。


結論から言うと、夫は無精子症だった。
最初の検査で精子が一つも見つからず、その後、手術をしてくまなく探したが、やはり見つけることはできなかった。

私自身は検査をしただけで、治療は一切していない。
そのことに、ずっと後ろめたさがあった。
夫にばかり負担がかかり、私は何もしていない。
クリニックに付き添っただけ。

しかも、夫の治療はわずか2ヶ月で終了したので、不妊治療としてはかなり短いものである。

さらに、私はつわりのしんどさも出産の痛みも経験していない。
体に何の負担もなく子どもを迎えたわけだ。
いわば自然妊娠の場合の父親のようである。

要するに、私たち夫婦は多くの夫婦とは異なり、身体的な負担が男女逆転しているのである。

産んでいないことに対する引け目はずっとあって、いまだにマタニティマークや妊婦さんを見かけるとどきっとする。

言い方は悪いが、楽して子どもを得られてラッキーと思う反面、
「産んでいない」「産めなかった」ということを不意に突きつけられて、つらくなる。

産むことにさしてこだわりがなかったのに、だ。
なんなら妊娠・出産に対して恐怖があったので、免れることができてよかったとすら思っているのに。
不思議である。
罪悪感に近い感情なのかもしれない。

この感情自体は、子どもがいてもなんら変わらないのだと気づいた。
おそらく一生消えることなく、抱え続けるのだろう。

つまり、私は不妊治療の当事者にも、妊娠・出産の当事者にもなれない存在なのである。

かといって完全に第三者でもない。
近いところにいるものの、所属しきれないマージナルマンといったところだろうか。

一方、養親の中でも疎外感を感じる
私たち夫婦は養親コミュニティの中では比較的若年であり、同世代の養親さんとは出会ったことがない。
(ネットでは少し見かけたことがある)

夫は私よりも若いのだが、夫からすれば20歳近く離れた養親さんが少なくない。

不妊治療に長年取り組んでこられたご夫婦が多いので、仕方ない部分はあるのだが、できれば同年代の養親さんに会ってみたい。


何も引け目を感じる必要などないことはわかっている。
わかっているが、心が境界線を引いてしまう。

気にしすぎだと思われるかもしれないが、「産後ケア」も使う勇気が出なかった。
保健師さんからは案内されたので使ってもまったく問題ないのだろうが、

「私は産後じゃないし」
「出産した人に比べれば楽なんだから」
「本当にしんどい人が使うべきだから」

と言い訳をして使うことができなかった。

また、子育てひろばに行ったとき、上の子を遊ばせに来ている妊婦さんがいた。
妊娠・出産の話を振られたらどうしようと焦り、足が向かなくなった。

親しい人には養子であることを話しているが、そうではない人にはわざわざ話さなくてもいいと思っている。
聞かれたら話すだろうが、こちらから取り立てて話すことではない。
そもそもコミュ障なので、自分から話すわけがないのだが。

子どもといる毎日は本当に楽しくて、普段はそんなにネガティブな気持ちにならないのだが、不妊治療や卵子凍結などの話題を目にすると、ふと考えこんでしまう。

ちなみに『胚培養士ミズイロ』という漫画で描かれた無精子症の話はわかりすぎて(共感という言葉では到底足りない)何度読んでも泣いてしまう。

とても素晴らしい作品です。


自分がかなりマイノリティなのはわかっているので、なかなか似た境遇の人と出会うことは難しいが、こうやって書く場所があってよかった。
やはり、書くと整理できてすっきりする。

なんとなくどこも居心地が悪く、居場所がないと感じていたようだ。
なら、それ以外の場所を探すなり、作るなりすればいいのかもしれない。
簡単なことではないだろうが。


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